003 出会いと賢者の石 ③
遺跡までの道程は、数頭の飢えた野獣をジグの魔術で追い払う以外、拍子抜けするほど平穏なものだった。
目的地に辿り着いたジグが目にしたのは、自然の猛威に曝され、骨組みだけを残して崩落したかつての石造りの建造物だった。天災によって打ち捨てられた死体のような光景。だが、今回の「本丸」は、その足元に広がる闇の奥にある。
「見てください、ジグ。ここは昔、どんな場所だったんでしょう?」
好奇心に瞳を輝かせるアルスの声。
「地下で何かしらやってた場所だ。上にあるのはせいぜい寝所か倉庫だろ……」
ジグは大きな欠伸を噛み殺した。昨夜は驚くほど深く眠ってしまった。アルスに肩を揺すられるまで意識が浮上しなかったのは、二十年の放浪生活において初めての失態と言ってもよかった。
「ほんとに遠足気分だな、お前は……」
倒壊した柱を珍しそうに指でなぞるアルスの背中を眺めながら、ジグは地下へと続く暗い階段へ足を踏み入れた。
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地下遺構の空気は淀み、カビと石灰の匂いが鼻を突く。
先行したトレジャーハンターたちの、配慮に欠けた怒鳴り声が迷宮の壁に反響し、不快な唸りとなって届いてくる。彼らにとって、ここは「宝の山」に過ぎないのだろうが、ジグにとっては「厄介な仕事場」でしかなかった。
「で、何かありそうか?」
隣を歩くアルスに問いかける。
「……おかしいですね」
アルスは不安げに辺りを見回していた。
人里へ降りて以来、絶えず耳元で囁いていた精霊たちの声が、この階層に入った途端、またぴたりと止んでいたのだ。まるで、何かに怯えて息を潜めているか、あるいは、彼らの声を吸い込む「何か」が底に潜んでいるかのように。
「……! これは……」
不意に、アルスが床に膝をつき、冷たい石板に耳を押し当てた。
「どうした、アル。また精霊か?」
ジグは慣れた手つきで傍らにしゃがみ込む。アルスの突飛な行動には、もはや驚きよりも先に「次はなんだ」という諦念が勝るようになっていた。
「下……でしょうか。ここよりも、もっと深く……」
「下だあ? 階段も昇降機もありゃしねえぞ。壁の向こうに隠し通路でもあるってのか」
ジグは視線を巡らせた。崩落した土砂が通路の先を埋めており、これ以上の進行には大規模な瓦礫撤去が必要になりそうだ。
「はー……やっぱり割に合わねえな、この仕事」
天井を崩さぬよう魔力を練り、土砂を取り除く術式を編もうとした、その時だった。
――ォォォオオオン!!
地底の底から突き上げてくるような絶叫と、何かが砕ける轟音が、石壁を震わせて響き渡った。
それは、先行した男たちの悲鳴か。あるいは、永い眠りを妨げられた「何か」の怒号か。
続けざまに、地下全体を激しく揺るがす振動が、ジグたちの足元を襲った。
「ジグ!」
アルスが立ち上がり、黄金の瞳に緊張の色を宿して音の方角を見据える。
「……ああ、分かってる。予想通りの展開だよ」
ジグは悪態をつきながらも、指先から紅蓮の火花を散らし、戦闘態勢を整えた。
「行くぞ。俺から離れるなよ、アル!」
「はい!」
二人は迷宮の闇を裂き、絶え間なく響く破壊音の渦中へと走り出した。
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轟音の源流となった大部屋では、先ほどのトレジャーハンター一行が死闘を演じていた。
「クソッ! なんなんだ、こいつらは!!」
不遜な態度でジグを嘲笑ったリーダーの男が、毒づきながらも正確な連射で襲い来る獣の目を射抜く。
彼らは確かに、口先だけの素人ではなかった。十数年の研鑽は伊達ではなく、剣士が前線を支え、法術士が癒しと火球で援護するその連携は、一つの完成された円舞のようでもあった。
だが、砂塵の向こうから「それ」が現れた瞬間、彼らの積み上げた自信は、冬の枯れ葉よりも脆く散り去った。
瓦礫を割り、獣たちをゴミのように踏みつけながら進み出る巨大な影。人の背丈を遥かに凌駕し、岩石のような肉体を誇るその異形は、理性をかなぐり捨て、ただ眼前の命を「破壊」することのみに特化した殺戮の化身であった。
異変を感じ、魔術の火花を指先に宿したジグが部屋に飛び込もうとした、その時だった。
「……! ジグ! いけません!」
背後から、アルスの叫びとともに腕を強く引かれた。
「何すんだ、アル!」
バランスを崩し、思わず立ち止まるジグ。一体、この細い腕のどこにこれほどの剛力が秘められているのか。困惑するジグの問いに、アルスが答える暇はなかった。
直後、部屋の奥が、この世のものとは思えぬ禍々しい紫色に発光した。
――ドォォォォォオン!!
鼓膜を揺さぶる轟音。石床が飴細工のように容易く崩れ落ち、大部屋の底が、階下へと続く巨大な奈落へと変貌した。
巻き込まれた獣の悲鳴、巨大な影の重厚な唸り、そして――あの三人の、短く、絶望的な断末魔。
ジグとアルスは、舞い上がる濃密な砂煙を前に、言葉を失って立ち尽くした。
「……引き返すぞ、アル。こいつは俺たちの手に負えねえ」
ジグの勘が、最大級の警鐘を鳴らしていた。これは単なる罠ではない。もっと悪質で、もっと「人の悪意」が煮凝った何かが、この地下に息づいている。
「ええ……ここから離れましょう」
アルスは砂煙の底に消えた者たちの無事を祈りながら、ジグの後に続いた。
だが、二人が出口に近い部屋まで退却したその時、再びあの咆哮が地底を震わせた。
開戦を告げる号令のような、重苦しい響き。
「チッ……! 一体、次は何だってんだ」
「ジグ、あれを!」
アルスが指差す先、暗がりの向こうから、ゆっくりと巨躯が這い出してきた。
そこにいたのは、先ほど奈落へ堕ちた存在と同種、あるいはそれ以上の質量を持つ、巨大な異形の生き物。
赤髪を逆立て、ジグは手の中に紅蓮の魔力を練り上げた。
「……つくづく、この仕事は割に合わねえな」
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暗がりから巨躯が這い出るより早く、ジグの指先から放たれた火球が、異形の顔に爆ぜた。だが、荒れ狂う火炎はその厚い外皮を焼くには至らず、ただ不快な肉焦げの臭いを地下回廊に撒き散らすのみに終わる。
燻る煙の向こうから、悪魔のごとき双角と、狼を歪めたような凶悪な牙が姿を現した。
「……! こいつ、レッサーデーモンか!」
ジグの苦々しい声が響く。魔力に当てられた獣が変異した、理性を欠いた殺戮の徒。並の野生動物とは比較にならぬ頑強さと、魔術に対する不気味なまでの耐性を備えた難敵だ。
「アル! こいつの攻撃に掠るんじゃねえぞ!」
「私なら心配ありません、ジグ!」
アルスは蝶のような身軽さで、魔物の剛腕を紙一重でかわしてゆく。戦士の動きではないが、精霊の導きを体現したかのようなその身のこなしに、ジグは一瞬の安堵を得た。
だが、状況は依然として絶望的だった。レッサーデーモンの皮膚は石のように硬く、ジグが床を伝わせた雷撃でさえ、その咆哮を誘う程度の効果しか持たない。
「ちっ、ショボい魔術じゃ傷も付かねえか!」
魔物が振り下ろした両腕が、ジグが先ほどまでいた石床を粉砕した。衝撃で部屋の隅に新たな穴が穿たれる。
ジグは、一撃で魔物の耐性を貫く「中級魔術」の構築を試みる。しかし、野獣の如き猛攻がそれを許さない。魔道士にとって、詠唱の合間を縫う猛攻は、喉元に突きつけられた刃と同じだった。
アルスは、攻撃を避けながら思考を巡らせた。ノエマに教わった世界の理の中に、今のジグを救う術があるはずだ。
(何か……ジグの集中を助ける隙を作らなければ……!)
「ジグ! 目を閉じてください!」
アルスの澄んだ声が、轟音を突き抜けた。
咄嗟にジグが視線を逸らした刹那。アルスが放ったのは、霊峰の夜を照らしていた照明用の魔法光。だがそれは、純粋な魔力によって限界まで凝縮された「炸裂する太陽」へと変貌していた。
――カッ!!
至近距離で爆ぜた強烈な目潰しに、魔物は悲鳴を上げて視界を奪われ、闇雲に腕を振り回す。
ジグはその黄金の好機を逃さなかった。
「……上等だ、アル!」
右の掌に、白熱する魔力の塊が凝縮されてゆく。ジグがそれを力強く握り潰すと、溢れ出した光が一本の鋭利な「光の槍」へと形を変えた。
「貫け!」
ジグの手を離れた光の奔流は、一筋の雷光となって大気を切り裂き、レッサーデーモンの心臓を正確に射抜いた。
さっきまで死を振り撒いていた巨躯は、糸の切れた人形のように崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
地下に、再び重苦しい静寂が戻る。荒い息を吐きながら、ジグは右手の残光を消し、アルスを見た。
「……助かったぜ、アル。いい連携だった」
「はい、ジグ」
アルスが眩い微笑を返した。
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「レッサーデーモンなんてなぁ……」
戦いの余韻が残る静寂の中、ジグは荒い呼吸を整えながら毒づいた。その視線は、物言わぬ肉塊と化した魔物の巨躯に注がれている。
「初めて見ました……」
アルスの声には、恐怖よりも、未知の存在に対する根源的な戸惑いが混じっていた。
「連合国にゃ、あまりいねえな。魔物なんてのは、せいぜい人里離れた森に小鬼が数匹紛れ込む程度が関の山のはずなんだがな」
本来、命を魔物へと変異させるには、大地に満ちる肥沃なエーテルが不可欠だ。魔術の源泉たるその力は、過剰に摂取すれば命を歪に、そして強大に進化させてしまう。
だが、この連合国の大地は商業の血脈こそ熱いが、魔力の脈動は細い。このような巨大な個体が自然発生するなど、本来ならば神聖王国の奥地か、魔導帝国の実験場でもなければ有り得ない事態だった。
「それにこいつ、昔見かけた奴より遥かにデカい。こんなデケェのがこの地方で生まれる道理が……」
ジグが警戒を解かぬまま、爪先で魔物の顔を小突いた。その刹那、死に体の魔物の喉が二度、三度と大きく痙攣した。
「……! 何か、吐き出しましたよ?」
アルスの黄金の瞳が、暗がりに落ちた小さな物体を捉える。
魔物は最期の力を振り絞るように「ゲッ、ゲッ」と濁った音を立て、口から光る塊を吐き捨てると、今度こそ完全に物言わぬ骸へと帰した。
「こいつは……!」
「結晶ですね……。小さいですが、純度の高いエーテルの」
ジグの背筋を、二十年前のあの夜と同じ凍てつくような戦慄が走り抜けた。
アルスもまた、ノエマから教わった戦火の原因の正体を察知していた。
二十年前、聖堂で砕け散ったあの忌まわしき宝玉の欠片。女神の息吹たるエーテルを凝固させた禁忌の石。人々が奪い合い、世界を焼き尽くそうとしたとされる「因果の核」。当時はその破片を口にした獣が魔物化する惨劇が各地で起きたが、それはすでに歴史の闇に埋もれたはずの出来事だった。
「破片の生き残りをこいつが食ったってことか? それとも……」
「ですが…。同時にこれほど巨大な個体が二体も現れるなんて、偶然で片付くでしょうか…」
アルスの指摘に、ジグは言葉を詰まらせた。たまたま拾い食いをしたにしては、この魔物はあまりに完成された「兵器」としての威容を備えすぎている。
ジグは慎重に手を伸ばし、その破片を拾おうとした。だが、指先が触れるか触れないかの刹那、結晶は自らの魔力に耐えかねたかのように、サラサラと虚しい砂となって崩れ去った。
「ちっ……手がかりなしかよ」
思案に耽る間も、運命は彼らに休息を与えない。
入り口の方から、血の匂いに誘われた新たな獣たちの卑しい唸り声と、無数の足音が反響して伝わってくる。人のような足音は、レッサーデーモンの魔力に引き寄せられた小鬼か。
「ふー……」
「今日は本当にな、厄介事の安売りでもやってんのかよ」
ジグは天を仰ぎ、重い溜め息を吐き出した。
赤髪を乱暴に掻き、再び魔力を練る。
地下の闇は深まり、崩落した下層からは、獣ではない、もっと冷徹な気配が、音もなく広がっていくかのようであった。
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入り口から雪崩れ込もうとする獣や小鬼の卑しい咆哮を前に、ジグは短く鋭い呼気で魔力を練っていた。だが、その肩は僅かに震えている。どれほど天賦の才を持とうと、接近戦の直後に中級魔術を編む負荷は、彼の精神を確実に削っていた。
「ジグ、私が今から部屋の出入り口に水を起こします」
「あ? 水だと?」
戸惑うジグの声を置き去りに、アルスは深く、静かな集中へと潜った。それはジグの知る魔術の詠唱ではなく、万物の根源に語りかけるような、透き通った祈りの調べだった。
「……水よ、水の精霊よ。貴方たちの清涼な流れを、今ここに示して……」
アルスの周囲を淡い光が包み込んだ刹那、何もない空間から溢れ出した濁流が入り口を塞ぎ、見事な水幕を形成した。
「ジグ、お願いします!」
「もう、何が何だか分かんねえが……!」
ヤケクソ気味にジグが放った凍結の魔力が、精霊の水流と混ざり合う。一気に大気が凍てつき、入り口は視界を遮るほどの分厚い氷壁へと変貌した。氷を叩く獣たちの苛立ちが鈍い音となって響くが、魔導によって凝固された壁は、彼らの爪を虚しく弾き返した。
「いなくなったみたいですね……」
「……助かったぜ。無駄に戦わずに済んでな」
氷壁の向こうの気配が消えると、ジグは脱力したようにその場へ座り込んだ。
「さっきの……魔術じゃねえだろ。なんなんだ?」
「いえ、精霊たちにお願いしたら、聞き入れてくれるのではないかと。やってみたのは、初めてなのですが」
「…じゃ、本当に精霊の声が聞こえるんだな」
「はい」
アルスの純粋な瞳を見つめ、ジグは小さく、彼にさえ聞こえぬ声で呟いた。
「……いいなぁ」
その声は、かつて先生や大人たちの背中を追い、世界に満ちる精霊の声を聞こうと必死に耳を澄ませていた「翠の民の少年」のものだった。魔導の才に恵まれ、エーテルの流れも感じられたジグだったが、どうしても精霊の声だけは彼に微笑まなかった。先生たちが見ていた、あの豊穣で賑やかな世界の一端を、自分も見てみたいと何度願ったことだろう。
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「さて……これからどうするかね」
立ち上がったジグが辺りを見渡すが、氷壁は魔力が尽きるまで溶ける気配はない。出口は自らの手で封じてしまった。
「すみません、閉じ込めてしまいました……」
「謝るなって。おかげで命拾いしたんだ」
ぶっきらぼうに返しつつ、二人は魔物が暴れて開けた石床の穴を覗き込んだ。
「ジグ、見てください。この下にも、部屋があります」
穴の底には、これまでの荒廃した階層とは明らかに質の異なる、整然と磨かれた石床が広がっていた。
「仕事は調査だったしな……行ってみるか。鬼が出るか蛇が出るか、だな」
ジグが風の魔術で飛び降りる衝撃を和らげる緩衝材を編む。
二人は意を決し、暗い穴の向こう側へと身を投げた。




