028 断章 ガウル 流転の旅立ち(前編)
夜を食らうほどの厚い雲が、天の一切を覆い隠していた。
ガウルはひとり、爆ぜる焚き火の前に腰を下ろし、夜番の任に就いていた。背後では、ジグとアルスが深い眠りに落ち、微かな寝息の律動だけが生命の証としてそこにある。
夜風が気まぐれに炎を揺らし、ガウルの日に焼けた褐色の肌を、生気のない朱に染め抜いた。
不意に仰いだ空には、星ひとつ、月影ひとつありはしない。光を拒絶するような闇のなか、頼りなく明滅する焚き火だけが、この世界に唯一残された拠り所のように思えた。
(……こんな夜は、どうしても余計なことを思い出す)
吐き出した独白は、冷たい闇に溶けて消えた。
ふと思い立ったように、傍らの大剣を手元に引き寄せる。指先がその冷徹な鋼に触れたとき、彼は一度、躊躇するように動きを止めた。だが、やがて決意したようにそばの袋へ手を伸ばし、一つの砥石を取り出した。
これまで、武器の手入れはすべて街の鍛冶屋に金を払い、他人の手に委ねてきた。
なぜか。
己の手で刃を研げば、研石を伝う感触と共に、あの忌まわしくも忘れがたい、父親の記憶が嫌応なしに蘇るからだ。
炎に照らされた己の掌を、ガウルはじっと見つめる。
彼はゆっくりと、そして極めて静かに、寝静まった二人を刺激せぬよう、砥石を鋼に滑らせ始めた。
(……たまには、この記憶と向き合うのも悪くはないか)
微かに口元が動く。
かつての孤独な放浪者ではない。今の自分には、背中を預けられる仲間がいる。その事実が、過去の呪縛を僅かに和らげているのを自覚していた。
月光さえ届かぬ、漆黒の静寂のなか。
シュッ、シュッ……。
鋭く、それでいて慈しむような研磨の音が闇に響き渡り、ガウルの意識は、逆らえぬ潮流のように遠き日の追憶へと沈んでいった。
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今から二十年前――。
「守りを固めよ! 盾を列べ、一歩も退くな!」
城塞都市を揺るがすのは、地を這うような兵たちの怒号と、石床を叩く無数の軍靴の響き。
神聖王国と魔導帝国の境に位置するその要塞は、今、永き眠りを破り、戦乱の血を啜らんとする獣のごとく目覚めようとしていた。
「魔導士隊、障壁の展開を急げ! 天馬隊は高度を保て、鋼の巨躯に深追いすれば、即座に焼かれるぞ!」
指揮官たちの鋭い指示が、戦火の熱を孕んだ風に乗って飛び交う。
魔導帝国が聖堂の宝玉を狙い、さらには神聖王国の領土を侵したという報せは、瞬く間に大陸を震撼させた。帝国の爪牙は、霊峰を望む辺境の小国にまで及び、略奪と破壊の焔を上げているという。それは平和への冒涜か、あるいは狂った皇帝の妄執か――衝撃は波紋のように広がり、人々の心に絶望の影を落としていた。
「父さん!」
張り詰めた執務室の扉を押し開き、一人の青年が駆け込んできた。
陽光に愛されたような褐色の肌、十七を前にしてすでに大樹のような風格を湛えたその肢体。ガウルと呼ばれたその青年は、まだ幼さを残しながらも、その瞳には高潔な意志が宿っていた。
「皆の前では、父上と呼びなさい。ガウル」
苛烈な指示を飛ばしていた男――神聖王国騎士団の次期団長と目されたその男は、息子の姿に若かりし日の己の面影を見た。
「……父上。一体、何が起きようとしているのですか」
言い直したガウルの問いに、父が口を開こうとしたその刹那--
魔導士隊が編み上げた純白の魔法障壁に、帝国の魔導兵器から放たれた無慈悲な熱線が激突した。
鼓膜を貫く轟音と、大地を揺るがす衝撃。
堅固なはずの石造りの城壁が、悲鳴を上げるように震える。
父は、この視察に息子を連れてきたことを、一瞬だけ後悔した。彼はザグロス山脈の頂にある王都ヴァイスホルンの安寧を守るべき騎士。いずれはガウルも、この国を背負う使命に身を投じるはずであった。
(アッシュ……。そして、愛しき妻よ)
脳裏をよぎるのは、王都に残してきた次男アッシュの幼き笑顔と、平穏な日々の色彩。
果たして、この戦火の嵐を潜り抜け、再びあの暖かな庭へ戻ることができるのか。
次期団長候補の一人であった男は、硝煙の向こう、夜明け前の空に聳える霊峰を仰ぎ、ただ静かに勝利と守護の祈りを捧げるのだった。
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硝煙が視界を灼き、爆圧が大気を捩じ伏せる。
「ラザール様……ッ!」
その名を叫び、煙の向こうから這いずるように現れたのは、この要塞の全権を握るはずの城主であった。幾多の修羅場を越えたはずの老練な肉体は、拭えぬ脂汗に塗れ、その瞳は未知の恐怖に激しく爆ぜている。
「落ち着け。障壁が熱線を弾いただけだ。まだ、我らの盾は砕けてはおらん」
ラザールの声は、極寒の氷河を思わせるほどに冷静であった。だが、城主が次に吐き出した言霊は、戦火の熱を瞬時に凍結させる絶望の凶報であった。
「……ラザール様。たった今、伝令が。大陸中央のあの聖堂が、跡形もなく、消え失せたとの由にございます」
「そんな馬鹿なことが……!」
父の沈黙を切り裂き、悲鳴にも似た声を上げたのはガウルであった。
大陸の心臓部に鎮座し、永劫の平和を約していたはずの荘厳なる大聖堂が、一瞬にして露と消える。それはもはや人の業を逸脱した「神罰」の領域だ。脳裏を掠めるのは、数年前、三国が和平の虚飾を飾るべく共同開発した禁忌の宝玉――《神の眼》。好事家たちの間で囁かれていた不吉な噂が、いま、最悪の現実となって世界を侵蝕し始めた。
二度目の衝撃が城塞を蹂躙した。魔導兵器から放たれた無慈悲な熱線が魔法障壁を焼き、大気が断末魔のような悲鳴を奏でる。
「私も前線に立つ。城主、あとの指揮は貴殿に任せるぞ」
「俺も行きます、父上!」
ラザールは、もはや躊躇することなく獲物の柄に手をかけた。
息子の決死の応諾を聞き、ラザールは短く、だが重く頷く。その背中は、これから始まる凄惨な争いの幕開けを、剥き出しの背中で示そうとしているかのようであった。
独り残された城主は、窓の外で紅蓮の焔に呑まれてゆく都市を、ただ茫然と凝視することしかできなかった。
「一体、何故だ……。誰が、何を望んで……」
その問いに答える者など、ここには存在しない。
ただ、暗雲の向こう側に聳える冷徹な霊峰だけが、これから流されるであろう幾万の鮮血を予見し、無機質な夜明けを待っていた。
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ラザールとガウルが最前線の防壁へと躍り出たその刹那、彼らの網膜を灼いたのは、大陸中央から天を貫き、星々さえも呑み込まんとする巨大な赤黒い漆黒の柱であった。
夜の帳を禍々しい朱に染め上げ、虚空へと屹立するその異形は、大陸の安寧が潰えたことを世界に告げる、あまりに巨大で冷徹な「平和の墓標」に他ならなかった。
ガウルの脳裏に、かつて父や弟のアッシュと共に訪れた聖堂の記憶が、鮮烈な色彩を伴って蘇る。
三国の精鋭たる僧兵たちとの、魂を削り合うような練武の刻。とりわけ、峻烈な棒術を操るあの男との再戦を、彼はどれほど切望していただろうか。
「次は、必ず……」
その誓いは今、あの暗黒の奔流のなかで、永遠に果たされることのない夢へと変貌しようとしていた。
「障壁は未だ健在だ! 怯むな、神の加護を信じよ!」
ラザールの凄絶な叱咤が、戦火の熱気に震える大気を切り裂く。
魔法障壁に魔導兵器の熱線が叩きつけられるたび、天空には目も眩むような火花が爆ぜ、人々の心に底知れぬ畏怖を刻印してゆく。
「魔導士隊、照準を合わせよ! 敵の本体を狙う必要はない、足元を爆砕呪文で穿て! 重厚な鋼だ、体勢さえ崩せば自ら魔力の渦に呑まれるはずだ!」
城主の冷静な指揮に呼応し、地を這う爆発が連鎖する。均衡を失った帝国の魔導兵器が、断末魔の金属音を上げて自壊し、戦場に不吉な紅蓮の華を咲かせた。
ガウルは父から離れ、障壁の裂け目を衝いて雪崩れ込む敵の歩兵たちを迎え撃っていた。
日々の鍛錬で培った剛剣が、敵の鎧を断ち、鮮血を撒き散らす。これが、戦場という名の地獄。
頭上では天馬隊が死の雨を降らせ、傍らでは数瞬前まで言葉を交わしていた友軍の兵が、無慈悲な投擲物に貫かれて崩れ落ちる。阿鼻叫喚の坩堝のなかで、ガウルはただ一振りの剣のみを頼りに、死の淵を駆け抜けていた。
「案ずるな! このまま消耗戦に持ち込めば、勝機はこちらにある!」
高台から戦場を俯瞰する城主の声には、確かな勝利への道筋が宿っていた。
帝国の魔導兵器は確実に数を減らし、勝利の女神が神聖王国に微笑みかけた、まさにその瞬間――。
突如として城主の胸から、冷徹な銀色の刃が突き出した。
「……な、ぜ……」
言葉にならぬ呻きが、溢れ出す血反吐と共に唇から漏れる。
強固な結界に守られ、高台に陣取っていたはずの己に、誰が、いつ、これほどまでに肉薄したのか。
背後に立つ「影」の正体を問う間もなく、無慈悲に刃が引き抜かれた。
かつてこの要塞を誇り高く守り続けた城主の肉体は、糸の切れた人形のごとく、戦火に照らされた石床へと崩れ落ちていった。
勝利への予感は、一瞬にして裏切りの血臭にかき消されたのである。
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魔導の障壁が、あまりに呆気なく、ガラス細工のごとき音を立てて砕け散った。
その瞬間、ラザールは信じがたい思いで天を仰いだ。勝利への期待は、いまや無慈悲な破滅の律動へとその姿を変えていた。
「何故だ……何が起きた!」
背後を振り返った刹那、鎧の隙間を冷徹に縫い、一本の矢が空間を裂いて飛来した。城主を屠った闇の刺客が放ったそれは、死の宣告としてラザールの胸を正確に貫いた。
「父さん……ッ!」
仰け反る父の姿を視界に捉え、ガウルは血を吐くような絶叫を上げた。
障壁の消滅とともに、城塞は阿鼻叫喚の坩堝と化した。闇に潜んでいた刃が味方を次々と屠り、誰が敵かさえ判然とせぬ混沌が、かつての勇壮な騎士たちを呑み込んでゆく。
薄れゆく意識の淵で、ラザールは冷徹に状況を紐解いていた。
要塞の奥深くに潜んでいた毒牙。それは一夜にして魔導士隊を沈黙させ、指揮官の命を奪い去った。
帝国の密偵が、これほど容易に国境を越え、要衝を無力化できるはずがない。ならば、この裏切りの真の主は――。
「父さん! しっかりしてください、父さん!」
抱き起こす息子の、その手の震えだけが、ラザールの魂を現世へと繋ぎ止める唯一の楔であった。
「ガウル……逃げろ。ここから、一刻も早く……」
溢れ出す鮮血を抑え、ラザールは愛する息子の手を、万感の想いを込めて握り締めた。
「何を仰るのですか! 俺もここで、共に戦い……!」
「聞くのだ、ガウル」
父の峻烈な眼差しが、息子の言葉を力尽くで遮った。
「……この城を落としたのは、帝国ではない。政治闘争という名の、悍ましき欲望に眼を眩ませた……我が国の同胞だ」
その言霊は、ガウルの心臓に熱鉄のごとき衝撃を叩き込んだ。外では魔導兵器の咆哮と、崩れゆく石壁の断末魔が響き渡っている。
ラザールは、握り締めた息子の手が、いつの間にか一人の戦士としての逞しさを備えていることに、人知れず誇りを感じていた。
「生き延びろ、ガウル。命さえあれば、道は何度でも拓ける……お前ならば、新たな生き方を見つけ出し、己の道を拓くことが出来るはずだ」
ガウルは溢れんばかりの涙を堪え、父の身体を強く、強く抱きしめた。
「父さん……。俺は……いつだって、父さんの背中を追い、尊敬していました」
ラザールはその言葉を、生涯で最も美しい手向けとして受け取り、最後の力を振り絞って息子を抱き返した。
「さあ、行け!」
父の咆哮に背を蹴られ、ガウルは闇の中へと躍り出た。
向かう先など知る由もない。帰るべき王都ヴァイスホルンも、今は底知れぬ落とし穴に過ぎないのだ。
燃え盛る城塞都市を背に、夜の帳へと溶けゆくガウルの背中。彼は涙を風に散らし、ただただ、運命という名の虚無の中を駆け抜けていった。
命の灯火が消えゆく刹那、ラザールの脳裏には、都に残した妻と、幼き次男アッシュの笑顔が去来した。
――どうか、この毒牙が、あの柔らかな日々を喰らい尽くすことだけはありませんように。
降りしきる硝煙の雪の中、王国騎士のひとりであった男は、静かに、その波乱に満ちた生涯の幕を閉じた。




