010 ごうつく商人の見果てぬ夢(前編)
「うひゃあ!誰か!誰か助けてくれんか!」
三人が街道を進んでいたある日、静寂を引き裂くかのような悲鳴が聞こえた。声は男のものだが、その切実な嘆きは、まさに命の灯火が消えかかっているかのようだった。
「おいこの守銭奴野郎! てめえ生きて帰れると思うなよ!」
「ひゃ……っ! なんじゃ、ワシはただ商売をしただけや!」
「うるせえ! こんなクソみてぇなもん押し付けやがって!」
「クソやて!? それ気に入って買ったんはあんたやがな!」
声のした方向にジグたちが駆けつけると、商人とおぼしき小太りの男と、数人のごろつきが揉み合っていた。ごろつきどもはそれぞれ抜き身の武器を手にしており、一触即発の空気が漂っている。
「口の減らねえ奴だな! いっぺん痛い目見ねえとわからねえか!」
「減りまへん! ワシやて自信持って売っとるんや!」
「この野郎!」
「ひゃっ!」
ごろつきの一人が激昂し、刃を振り上げる。
高く掲げられた刃が太陽の光を鈍く反射し、商人目がけて振り下ろされようとしたその時――。
ジグの放った風の魔術が不可視の突風となって、ごろつきたちを襲った。突然の暴風に煽られた彼らは無様に体勢を崩し、商人の首を狙った刃は虚空を泳ぐにとどまった。
「わりいけど、人斬りを見逃すってのも後味悪いんでな」
「諦めろ。お前たちでは勝てん」
低く、けれど威圧感のある声とともに、ジグとガウルが歩み出る。
ごろつきたちはさっと三人を観察した。顔を隠している華奢な男はともかく、翠の肌の魔術師と、岩のように図体のデカい重戦士には逆らえそうもない。
彼らは商人に捨て台詞を吐きながら、一目散に退散していった。
「……大丈夫でしたか?」
「いやあ……! 神様っているもんやねえ……! 助けてくれる人が出てきてくれはるなんて!」
アルスが声をかけると、商人は己の強運を確信したかのように目を潤ませて礼を言った。もっとも、その言葉の裏には「助けてくれた人」への感謝よりも、「助かった自分」の幸運を祝う響きが混じっていたが。
商人はさっと一行を見渡す。ごろつきたちと同じように。
(顔を隠しとる兄ちゃんは可能性あるけど、この魔術師と傭兵からは金の匂いがせえへんな……。この旅人に物を売るのは無理か……)
商人は即座にそう判断した。彼はどんな窮地にあっても、金を愛し、計算することを忘れない。
「何売りつけて恨み買ったんだよ、おっちゃん」
「いややわ、おっちゃんなんて! ワシはマードック言いますねん」
「どんなものを売っているんですか?」
「いやあ! よく聞いてくれはりましたわ!」
マードックはジグたちの前に、流れるような手つきで商品を広げた。まるで手品のようである。
実際、彼はこの鮮やかな手並みと捲し立てる売り文句だけで、戦乱の世さえ生き抜いてきたのだ。
「……で、何売ったんだ?」
ジグはいくつか品物を手に取り、眺めながら尋ねた。
品物は決して粗悪品というわけではないが、どれも独特の――言ってしまえば怪しげな雰囲気を纏っている。
「魔法剣や! 魔法が使えん奴でも握るだけで刀身に魔術がピカッとくるやつやで! ほれ、ここにももう一本!」
「……んん……」
ガウルの耳がその売り文句にぴくりと反応しかける。だが、彼は悟られないよう喉の奥で唸るに留めた。この手の商人は、少しでも興味がある素振りを見せると、骨までしゃぶり尽くすまで離さないことを知っていたからだ。
「……これ、もしかして自作ですか?」
「せやで! 全部ワシの手作りや!」
「すごいです。発明家でもあるんですね」
「いやー! お兄さん褒め上手やわ、照れてしまうわ!」
いつの間にかマードックとアルスは話が盛り上がり始めていた。好奇心の塊であるアルスほど、彼にとってやりやすい客はいない。
「手作りねえ……」
ジグは魔法剣を一本、手に取って握ってみる。
確かに刀身に魔術の光が灯るが……それはせいぜい、肌寒い夜に暖を取れる程度の微かな炎を纏っているに過ぎない。実戦で魔物を斬るには、あまりに心もとない代物だ。さっきのごろつきどもは、これを買わされたというわけだ。買う方も買う方だが、売る方は相当な剛の者である。
「……何故、商人がこんな所に一人でいる? 普通なら護衛の一人も雇うはずだが」
ガウルが不審げに問う。
「心配あらへん! ワシ、こう見えて魔術使えますねん! ホレ!」
マードックが指先から火を出す。
だが、その練度は素人の域を出ず、せいぜい獣避けか、野営の火種にするのが関の山だろう。ジグはマードックの底知れない、どこか空虚なまでの自信に辟易し始めていた。
(……うーん……。どうにも金は持ってなさそうやな……)
マードックは三人と会話しながら、品定めを怠らなかった。彼にとっての時間は、すなわち商機である。
そろそろ丁重に礼を言って引き上げようか、と考え始めた時、彼は一つ閃いた。
(金はなさそうやけど、腕は抜群そうや。せやったら……)
三人がそれぞれの商品を眺める様子を盗み見ながら、彼は新たな「儲け」の予感に、一人内心でほくそ笑んでいた。
----------
「……あんさん達、えらい腕が立つようやけど、なにか仕事かしてはりますのん?」
「……いや、今は何もしてねえけどよ」
マードックの問いかけに、ジグは警戒を強めつつ答えた。
ここ最近、どうにも「割に合わない」面倒事に遭遇する頻度が高すぎて、彼は心底疲弊していたのだ。できれば次の金稼ぎは、三人で適当な賞金首でも狩って、手っ取り早く済ませたいと考えていた。アルスがどこまで戦力になるかは未知数だったが。
気付けば、先ほどまで道に広げられていたマードックの商品は、鮮やかな手つきであっという間に片付けられていた。彼は損切りの判断も早い。ジグたちが「客」にはならないと見るや、瞬時に「仕事の交渉相手」へと切り替えたのだ。
「せやったら、ワシの手伝いをちょいとやって貰いたいんやけど……」
「手伝い?」
「お宝や! ここにワシが大金叩いて手に入れた、三枚の秘蔵の宝の地図があんねん!」
マードックは懐から三枚の古びた紙片を取り出し、誇らしげに高々と掲げた。
お宝の話を始めた途端、人生の清濁をすべて飲み干したかのような彼の濁った瞳は、たちまち純粋な少年の輝きを帯びる。
「……三枚もあったら、もはや秘蔵ではないと思うが」
「お宝……とは、具体的にどのようなものなのですか?」
「知らへん。それも含めて探すんや!」
ガウルは、この手の人間が苦手だった。
金への執着と根拠のない情熱が一つの鍋で煮込まれたような人間は、とにかく厄介だ。一度火がついた彼らを止めるのは並大抵のことではない。マードックが掲げる紙片は、風を受けて大海原を往く帆のように、頼りなく、けれど力強くひらめいていた。アルスはそれを珍しそうに眺めている。
「なーるほど……。そのお宝を独り占めしたくて、護衛もつけずに一人でいたのか」
「せや! でもやっぱ、一人やと手が足りんねん」
「中身が何かもわかんねーものに、なんでそこまでやるんだよ」
「そら兄ちゃん、決まってますがな。浪漫やがな!」
ジグは頭がズキズキとしてくるのを感じた。日差しが強いせいか、マードックの理解不能な熱情にあてられたせいか、自分でも判然としない。
「なあ、ええやろ? 金ならちゃんと出しますさかいに」
マードックの、縋るような、それでいて搦め手から攻めるような声が三人を取り囲む。まるで獲物を狙う蛇のようだ。
ふと見れば、近くの木陰では蜘蛛が巣を張り、哀れな羽虫が捕らえられたところだった。
「金って言われてもなあ……。俺たち、今は一応の蓄えはあるし」
「せやかて兄ちゃん達、そのボロボロの装備、買い替えなあきませんやろ?」
「……ぐっ……」
「特にそこの戦士の兄ちゃんなんて、剣がもう鉄くずなりかけですやん。全部買い替えるか修理したら、金はいくらあっても困らへんと思うけどなあ」
「……う……」
痛いところを突かれ、ジグとガウルは同時に唸った。
仕事は何かしら常にしているとはいえ、旅を続ければ資金は着実に減っていく。何より、装備の新調はしばらくしていない為に、特に前線に立つ二人の武具はかなり傷んでいた。
「悪い話やないと思うねん。報酬も、とりあえずこんだけ出しますから」
ジグの手にずしりと重い袋を乗せ、続けざまにガウルの手にも同等の重みを預ける。
二人はもはや、首に蛇を巻き付けられた獲物も同然だった。風の向くまま行くあてのない旅路を考えれば、活動資金を積み増しておきたいというのは、あまりに切実な事情であった。
「……わかったよ。その宝とやらを『探すだけ』ならな」
「……! おおきに、兄ちゃん達!」
「……本当にあるかは保証できんぞ」
「ええのええの! それも含めて浪漫やから!」
「あるといいですね、お宝」
二人が苦渋の決断を下す横で、アルスはいつものように穏やかにマードックを応援し、当のマードックは金儲けと浪漫の両方の予感に胸を躍らせていた。
朝陽が四人を等しく照らし出し、また新しく、そして騒がしい一日が始まることを告げていた。
----------
「三枚ともこの周辺の地図に見えるが」
「この大きな木の絵は、あそこのことかもしれませんね」
ガウルとアルスは、マードックから借り受けた紙片を顔を寄せ合って見比べながら、目的地を絞り込んでいた。
三枚の地図はどれも手書きの稚拙なもので、不思議なことに目印はこの周辺の平原に点々と記されている。正確な縮尺もなければ方位磁針の絵もない、販売されている地図とは程遠い代物だ。
「あんた、この地図を誰から買ったんだ?」
「そらもう、首都アル・ハミドでやがな! 『自分にはもう必要ありませんから……』言うてた奴から、ワシが買い叩いてもらわせてん」
「さっきは大金使ったって言ったじゃねえかよ……」
少年のように瞳を輝かせながら、大人の底知れぬ強欲さを平然と口にするマードック。その言動は、もはや「違和感」すら一つの味として成立している完成された料理のようだった。
マードックは、何やら事情があって慌てていた王都の男から「それならワシが助けてやる」と豪語し、二束三文でこれらを買い叩いたのだ。彼自身、それは立派な救済処置だったと信じて疑っていない。
「一枚目は、あれ……か?」
「描いてあるものと、よく似てはいますね」
少し先を歩くガウルとアルスが、一枚目の「お宝」の目印にたどり着いたようで声を上げる。
初めての宝探しという体験に、アルスの背中からは好奇心が溢れ出している。対照的にガウルの背中には、金という現実的な誘惑に屈したことへの、重戦士としての矜持と葛藤が滲んでいた。
「……っつっても、何もねえぞ」
ジグが二人の隣に立ち、周囲を見渡した。
辺りは穏やかな平原が広がっているだけで、珍しい岩もなければ不自然な盛り土もない。どこにでもある、ありふれた風景だ。
(……ただの野営に適した場所を記しただけの紙切れを掴まされたんじゃねえだろうな)
ジグがそう思い始めた、その時だった。
少し離れた場所で、這いつくばって地面を調べていたマードックの悲鳴が聞こえた。
「うひゃ! 兄ちゃん達、助けてーな!」
駆けつけると、数匹の獣がマードックを取り囲んでいた。牙を剥き、今にも飛びかかろうとしている。
「……? 何か様子がおかしくないか、こいつら」
「ああ。だがまあ、とりあえず片付けるか」
ジグが指先から炎を炸裂させて威嚇し、ガウルが襲いかかってきた数匹を大剣の腹で軽く叩き伏せると、獣たちは千鳥足で退散していった。
獣たちの動きは、ジグたちが感じた通りひどくぎこちない。まるで見えない何かを追いかけているような、あるいは夢でも見ているかのような足取りだった。
「大丈夫ですか?」
「ひゃー、おおきに兄ちゃん達。……痛たっ、商売人は体が資本やからな、気をつけなあきまへん」
アルスが手を貸し、マードックは礼を言いながらも、すぐに周囲を油隠なく見回して立ち上がった。彼にとって、立ち止まることは商機の損失に他ならない。
「……! これは……! あー……。でも、これかいな……」
マードックが足元に何かを見つけ、一瞬歓喜の声を上げたが、それはすぐに深い失望へと変わった。
彼の前には、鮮やかな色を帯びた美しい植物が群生していた。よく見るとあちこちに齧られた跡がある。先ほどの獣たちは、これを食べたのだろう。
「なんなんだ、これは」
「これ……綺麗ですやろ? でもこれ、食べたら幻覚見ますねん。質の悪い毒草や。お宝や思たのに……」
「あ、でもこの植物。ちゃんと煮込んで幻覚成分を取り出した後に、しっかり乾燥させて粉にすれば、すごく効く解熱剤になりますよ」
「え!? ほんまか、兄ちゃん!?」
失望に肩を落としていたマードックが、ガバッと顔を上げた。
アルスは霊峰で暮らしていた頃、この植物をよく目にしていた。女神と共に過ごしていた時、彼女の知恵を借りてよく薬を作っていたのだ。
(……変なアレンジを加えて、また怪しい薬を作りそうだな……)
アルスから製薬方法を熱心に聞き出しながら、どこからともなく取り出した袋に植物を次々と放り込むマードックを見て、ジグは遠くない未来、この大陸のどこかで「マードック印の怪しい万能薬」が流通する不吉な予感を覚えるのだった。
当のマードックは、幸先の良い滑り出しと「新たな商品の知識」という利益に満面の笑みを浮かべ、夢中で収穫を続けていた。
----------
マードックは、毒草でパンパンに膨らんだ袋を愛おしそうに抱え、鼻歌まじりに歩いていた。遠路はるばる首都からやってきて、二束三文で買い叩いた地図。それがこれほどまでに「実り」をもたらすとは。彼は今、己の商才という名の神に深く感謝していた。
「これは期待できまっせ……! ほんまもんの『お宝』だって、この先にあるかもしれん……!」
「お宝って、具体的にどういうのだよ」
少年のように目を輝かせるマードックに、ジグは半眼で問いかける。
見つかったのは、たまたまアルスが活用法を知っていただけの、現地人なら見向きもしない野草だ。それを「お宝」と言い切れるこの商人のメンタルは、ある種、鋼よりも硬いのではないかとジグは戦慄すら覚えていた。
「そらもう、お宝いうたら決まってますやん! 秘伝の調合書に、古の魔術を記した古文書や!」
「……ん、んん……っ」
『古の魔術』
その単語が鼓膜を叩いた瞬間、ジグの長く尖った耳が、抗いようもなくぴくりと跳ねた。
幼少期から魔術の深淵に焦がれてきた彼にとって、その響きはどんな高級な蜂蜜よりも甘美で、理性を溶かす毒となる。マードックは無意識のうちに、相手が最も欲しがる言葉を釣り針に仕掛ける、天性の「商売人」であった。
「次は、あの場所でしょうか……」
「……だな。書かれている岩の形に酷似している」
ジグが内心で「古の魔術……」と悶絶している間に、アルスとガウルは二枚目の地図の核心部を特定していた。そこは平原の中にぽっかりと現れた、木々が円を描くように生い茂る、ひっそりとした小森だった。
「いかにもって感じだが……やっぱり、見たところは普通だな」
三人は茂みをかき分け周囲を調べるが、またしても「金銀財宝」の類は見当たらない。やはりこの地図、ただの地質調査か何かのメモ書きではないのか。ジグの疑念が頂点に達しようとしたその時、期待を裏切らない「いつもの悲鳴」が響いた。
「ひゃっ! 兄ちゃん達、助けてーな!!」
駆けつけると、案の定、マードックが数体の小鬼にジリジリと詰め寄られていた。どうやらこの森は彼らの格好の隠れ家だったらしい。
「宝の地図じゃなくて、ただの『危険地帯地図』だったんじゃねえのか、これ」
「……まあいい。魔物なら、遠慮はいらんな」
ジグの手から放たれた雷撃が先頭の小鬼を消し飛ばし、その光に目が眩んだ残りの個体を、ガウルが大剣の一振りでなぎ倒す。あっという間の掃討劇だった。
「大丈夫ですか?」
「いやっ! おおきに兄ちゃん達! おかげでまた寿命が延びたわ!」
アルスが手を貸し、マードックは転がるように立ち上がると、泥を払う間もなく地面を這いずり回り始めた。
「……お! コイツは! ……って、なんや、これかいな……」
巨木の根元に群生する、肉厚で不気味なほど緑が濃い植物。マードックはそれを引き抜き、齧るまでもなく顔をしかめた。
「なんですか、それは」
「これ……見た目だけは食べ応えありそうやろ? せやけどこれ、めっちゃ苦くて粘ついてて、泥食うてるみたいやねん。おまけに無理して食うたら、一晩中トイレから出られへんようになる毒草や……。ハズレや、大ハズレや!」
地面に叩きつけられようとしたその植物を、ガウルが横からひょいと拾い上げた。
「……この植物なら、すり潰して煮詰め、軟膏にすれば良い傷薬になるぞ」
「え!? ほんまか、兄ちゃん!?」
マードックの目が、今日一番の輝きを見せた。
「ああ。傭兵稼業の独り旅では重宝した。粘り気が強いおかげで、傷口を外部の汚れから完全に遮断してくれる。軽い擦り傷や切り傷なら、一晩で塞がる」
(……さっきの解熱剤と、この傷薬軟膏……)
ガウルから「秘伝の製法」を熱心に聞き出し、先ほどの毒草袋に次々と獲物を放り込んでいくマードック。その背中を見ながら、ジグは確信した。
そう遠くない未来、この大陸の裏市場で、効果の定かでない独自の「マードック印の怪しい秘薬」が、法外な値段で出回るであろうことを。
「浪漫や……! これもまた、一つの浪漫やで!」
満面の笑みで袋をパンパンにする商人と、それを微笑ましく見守るアルス。そして、なぜか達成感を感じ始めているガウル。
ジグは一人、空を仰いだ。
「……あと一枚。あと一枚で終わりだかんな……」
西に傾き始めた太陽が、欲望と浪漫を詰め込んだ四人の影を長く引き伸ばしていた。




