001 出会いと賢者の石 ①
その夜、世界は音を立てて崩落した。
理由も判らぬままに噴出した戦火は、漆黒の帳を朱に染め上げ、数多の生を等しく灰へと変えてゆく。吹き荒れる暴力の嵐の中で、三つの命が野に放たれた。
「どうか……この子だけは……」
途切れそうな熱を振り絞り、母は血に濡れた腕で幼子アルスを抱き締めた。凶弾に貫かれた胸の奥、消えゆく命の灯火を燃やし尽くすようにして、彼女はその小さな存在を聖なる領域へと託す。神が住まうと謳われる冷徹な霊峰――天を突くその頂へと、母の祈りは白銀の雪に紛れて消えていった。
時を同じくして、堅牢なる城塞都市もまた地獄の様相を呈していた。
石造りの壁を震わせる咆哮と、金属のぶつかり合う冷たい音。立ち込める硝煙の中で、若き騎士ガウルは地に伏した父の名を叫ぶ。
「父さん……!」
受け継ぐべき剣はまだ重く、伸ばした手は父の命を繋ぎ止めるにはあまりに無力だった。騎士の誇りと共に崩れ落ちる背中を、無情な炎が照らし出していた。
一方、古の伝承を守護する一族の野営地にも、逃れられぬ災厄が舞い降りていた。
「先生……」
少年ジグの瞳に焼き付いたのは、一族の誇りと秘術をその身に宿し、死地へと赴く大人たちの背中である。託された言葉の重み、そして去りゆく者たちの静かな決意。少年はただ、二度と戻らぬ影を、立ち尽くしたまま見送るしかなかった。
理由なき開戦と同様、終止符もまた唐突に打たれた。
誰の功績とも知れぬまま、狂乱の嵐は嘘のように静まり返り、北の神聖王国、東の魔導帝国、そして南方の貿易連合を擁するこの広大な大陸は、再び偽りの静けさを取り戻していった。
後に残されたのは物言わぬ焦土と、帰る場所を失った孤児たちだけだった。
彼らはまだ知らない。嵐が去った後の静寂こそが、彼らの運命の始まりであることを。己の意志とは無関係に、歯車は静かに、そして確実に回り始めていた。
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それから二十年が流れた。
あの一夜、大地を震わせた衝撃も、天を焼いたと言われる十字の閃光も、今や古びた伝承の頁に押し込められようとしていた。二十年という月日は、悲劇を忘却へと変えるには十分な時間であり、同時に、癒えぬ傷痕を固定化させるにも十分な時間であった。
戦火の中心となった聖堂がかつてそびえ立った地には、今も崩れた石柱が骸骨のように晒されている。修復されることのないその廃墟は、三国の間に横たわる、決して埋まることのない断絶の象徴として、沈黙を守り続けていた。
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「クソ、なんなんだよテメエは……っ!!」
静謐な森林の空気を切り裂く、野卑な怒号。
逃げ惑う小鳥たちの羽音の向こう、三人の男たちが背後の「影」に追い詰められていた。
「なんなんだって言われてもなぁ。お前らには金が掛かってる。俺は金が欲しい。それだけだ」
フードを深く被り、口元を布で覆った男が、陽光を遮るように歩み寄る。
男の背後には、すでに二人の悪漢が転がっていた。周囲に漂う微かな焦熱の臭い――それは、この「影」が、炎を操る魔導の使い手であることを雄弁に物語っていた。
「賞金稼ぎか、テメエ……! たった一人で、俺たちのねぐらを嗅ぎ回ったってのか!」
山賊たちのひとりが、自らを鼓舞するように剣を抜いた。
「へえ、威勢がいいな。お前らは強いのか?」
フードの男は、退屈そうに問い返す。
「聞いて驚くなよ! 俺こそは、この界隈で泣く子も黙る曲剣使いの――!」
名乗りを上げようとした男の足元に、鮮血のごとき紅蓮の魔法陣が描かれたのは、一瞬のことだった。
直後、轟音とともに地面が爆ぜる。
何某かの「名人」であったはずの男は、自慢の剣を振るう暇もなく、無残に宙を舞った。
「……ま、間合いに入らなきゃ、剣なんてただの鉄屑だからな」
男は、昼の暑気と呪文の唱えにくさに辟易した様子で、口元の布を乱暴に剥ぎ取った。
「ああっ……!!」
残された小悪党が、絶望に染まった声を上げる。
「あ?誰だこいつ?」
もう一方の小悪党が悲鳴を上げた男に聞く。
布の下から現れたその肌は、人間とは決定的に異なる、鮮やかな「翠色」。
フードを脱げば、そこには燃えるような赤髪と、天を指すように尖った長い耳が露わになった。
「なんだ、俺を知ってるのか? なら話は早い。抵抗をやめて、さっさと――」
「知らねえのかよ! こいつは最近、界隈の賞金首を片端から狩りまくってる、オークの魔術師……!」
言い終わるよりも早く、足元で再び爆炎が牙を剥く。
意識を失い、折り重なって倒れる悪漢たちを眺めながら、賞金稼ぎ――ジグは、不機嫌そうに眉を寄せた。
「誰がオークだっつの」
一人で生きるようになってから、彼はこの広い世界に、人ならざる「魔」の眷属が数多存在することを知った。その中には、確かに彼に似た翠の肌を持つ種族もいたが、それらと同一視されるのは、彼にとって決して愉快なことではなかった。
「まあ、いい。こいつらを引き渡せば、当分の銀貨には困らないな」
ジグは手慣れた手つきで悪漢たちを縛り上げると、魔導を編み、一羽の伝書鳩に似た幻獣を創り出した。街へと伝言を託し、空へと放つ。
その横顔には、かつて先生の背中を追っていた少年の面影はない。
二十年。
師と別れ、孤独という名の師に鍛えられた彼の魔術は、今やかつての先生が予見した通り、より鋭く、より峻烈な輝きを放ち始めていた。
しかし、その瞳の奥には、今もあの一夜の光景が、消えぬ残火のように焼き付いたままであった。
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悪党たちを乗せた馬車の揺れに身を任せ、ジグは貿易連合国が誇る白亜の港町へと舞い戻った。
潮の香りと、欲望が煮凝ったような熱気が肌に纏わりつく。金貨の音こそが神の託宣よりも重んじられるこの国の空気は、翠の民である彼にはいささか息苦しかったが、他人の出自に無関心な連中の気質は、隠遁者同然の彼にとって都合の良い隠れ蓑でもあった。
(次は、どこに行くか……)
掌の中で、先ほど手にしたばかりの硬貨を弄ぶ。鈍い銀光を眺めながら歩を進めていたジグの視界に、ふと、人だかりを割るような異質な「清冽さ」が飛び込んできた。
行き交う人々が、抗いがたい引力に引かれるように、一人の人物に目を留めている。
「こいつは真実、天からの授かり物ですぜ! 他所じゃあ金に糸目をつけたって拝めやしない逸品だ!」
脂ぎった商人の声が、一人の旅人に浴びせられていた。
「そうなのですか?」
応じる声は、鈴を転がすように澄んでいる。
(……御しやすいカモが、押し売りに捕まったか。気の毒なことだ)
ジグは内心で毒づきながら、素通りしようとして足を止めた。旅人の背越しに覗いた品物は、確かに目を引く装飾が施されている。
「ええ、そりゃあもう! これひとつあれば、毒も、眩暈も、死に至る高熱さえも忽ち癒やすって寸法よ!」
商人が掲げた宝石には、確かにそれらしい魔法陣が刻まれていた。だが――。
(……阿呆らしい。出がらしの茶葉にも劣る)
ジグは背を向けようとした。だが、旅人の「そんなに素晴らしいものなのですか?」という無垢な問いが、彼の耳を捉えて離さない。
「クソ……ッ」
頭を乱暴に掻き、ジグは商人の前に踏み出した。
「おい、おっちゃん。その石に刻まれた陣は本物だがな、肝心の魔力が空っぽだ。ただの石ころを万能薬と偽って売るのは、後で自分の首を絞めることになるぞ?」
ジグの声は、独りで生きてきた歳月の分だけ粗野に響いた。それは、かつて少年だった頃の丁寧な口調をなぞるたびに、去りゆく師を思い出してしまう自分への、無意識の防壁でもあった。
「あ、あっはは……。いやあ、こいつはうっかり。魔力が抜けているとは気づきませんでしたな!」
商人は愛想笑いを浮かべながら、蜘蛛の子を散らすような速さで荷をまとめ、路地裏へと消えていった。
「チッ……わざとだな」
ジグは軽く悪態をつくと、隣の旅人に向き直った。
「お前もだ。こんな街で商人の口車に乗ってたら、命がいくつあっても足りねえぞ」
説教じみた言葉を捨て置き、彼は踵を返した。
「あの……!」
「礼ならいらねえ。俺の気まぐれだ」
呼び止める声に、ジグはぶっきらぼうに足を止めた。
だが、間近に歩み寄ってきたその人物を見、ジグは不覚にも息を呑んだ。
目深く被ったフード越しに見える顔立ちは、息を止めるほどに整っている。繊細な輪郭、夜の湖のように深い瞳。そして何より、その人物から漂う気配は、男であることを示していながらも、女よりもなお幻想的な美しさを湛えていた。
「……いえ。私も、あの石に魔力がないことは解っていたのですが……。角を立てずに断るにはどうしたものかと、思案していたところで」
「あ……? 分かってたのか?」
ジグは面食らった。魔法陣の真贋だけでなく、その中身の空ろさまで見抜くのは、並の魔導士にできることではない。
「はい。本当に、ありがとうございました」
フード越しに溢れた微笑みは、港町の濁った光を一瞬で浄化するほどに清らかだった。
彼は優雅に一礼すると、流れるような足取りで雑踏へと消えていった。
「……変な奴」
調子を狂わされたジグは、自らの頬を撫で、温かい残り香だけが漂うその背中を見送った。
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翌朝、ジグは港町の喧騒が凝縮されたギルドの門を潜っていた。
潮気と安酒、そして血の臭いが混じり合う大広間。旅の資金を稼ぐため、片手間にこなせる獲物を探そうとしたジグの目に、昨日以上の違和感が飛び込んできた。
猛獣狩りや賞金首の首級を求める、殺気立った荒事専門の掲示板の前に、あの「美しい旅人」が立っていたのだ。
案の定、酔いも冷めやらぬ粗野な男たちが、獲物を定める狼のような卑しい笑みを浮かべて彼を囲んでいる。
「ガハハ! だったらオレたちと組めばいい。金も女も、望むままに手に入るぜ!」
下品な誘いに対し、旅人はあろうことか、澄み切った瞳を向けて「何のお仕事をされているのですか?」と無邪気に問い返している。
(……救いようがねえ)
ジグは己の不運を呪うように天を仰いだ。だが、その足はすでに、場違いな清流へと向かっている。
「わりいけど、こいつは俺の連れだ。他を当たってくれ」
ジグは男たちの背後に割り込み、ぶっきらぼうに言い放った。翠色の肌と赤髪、そして隠しきれない実力者の気配に、男たちは舌打ちをしながら去っていく。
「お前なあ……あんな連中、まともに相手するもんじゃないって、見て分からねえのか?」
「ですが、悪い人たちではありませんでしたよ」
その言葉に、ジグは眩暈を覚えた。どこをどう見れば、あの下卑た輩が「悪くない」ように映るのか。この旅人の世間知らずぶりは、もはや呪いの域に達している。
「……で、お前は何を企んでるんだ。こんな掲示板の前で」
「実は、この仕事が気になって……」
差し出された依頼書を覗き込んだジグは、思わず胸焼けを覚えた。
【崩落した地下施設の調査:大型の猛獣と遭遇の危険あり】
暗く、埃っぽく、何が飛び出すか分からない。ジグが最も忌避する、割に合わない「面倒事」の典型だ。
「なんでこんな仕事なんだ。お前がやるようなもんじゃないだろ」
「それが、この場所から『何か』を感じると教えてもらったものですから。精霊に」
「精霊だあ?」
「はい。それに、ノエマにも、様々なものを見聞きしてきなさいと言われましたし」
創世の三神がひとり、慈愛の女神ノエマ。その名が軽々と口にされた瞬間、ジグは今日何度目か分からない頭痛に襲われた。
精霊の囁きを聞き、神の名を親友のように呼ぶ。この男を放っておけば、次に目を離した隙に、何処かの暗い穴蔵で野垂れ死ぬのが関の山だろう。
(……遭遇してしまったからには、何とかしてやりたいと思ってしまうものだからね)
脳裏に蘇る、あの懐かしい先生の別れ際の声。
二十年前、世界が戦火に見舞われた夜、自分を一人残して消えていった大人たちの背中。
「わーかったよ! お前、俺と組め!」
「良いのですか?」
「ああ、いい。お前みたいなのが一人でこんな穴蔵に入ったら、二度と日の光は拝めねえ。俺が付き合ってやる」
ジグは旅人から強引に依頼書を奪い取ると、受付へと向かおうとした。
「あの」
呼び止める声に振り返ると、旅人はフード越しに、朝日よりも眩しい微笑を浮かべていた。
「ありがとうございます。……そういえばまだ、名前を伝えていませんでした。アルスです」
差し出された白く繊細な手。ジグは一瞬、自分の無骨で翠色の手がそれを汚してしまうのではないかと躊躇ったが、すぐに観念してその手を握りしめた。
「……ジグだ」
殺伐としたギルドの片隅で、翠色の魔術師と、人ならざる美を湛えた青年が交わした握手。
それは、二十年の歳月を経て再び動き出した、世界の因果が噛み合う音のようであった。




