↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

恋愛短編集

話さなかった日の記録

作者: 月見酒
掲載日:2026/01/30

この作品は、

「語られなかった日々」を記録した日記体の短編です。


出来事は少なく、

感情も大きく動きません。

それでも、ページは進み、日付だけが積み重なっていきます。


もし読み進めるうちに、

「これは自分の知っている感情かもしれない」と

思う瞬間があれば、

その感覚だけを持ち帰ってもらえたら嬉しいです。



四月五日


今年の春は、例年より少し遅い気がする。

駅前の桜はもう満開なのに、風が冷たくて、コートを脱ぐ決心がつかない。


朝の電車は相変わらず混んでいた。

急行が通過していくのを、各駅停車のホームから眺める。

大学のある街は、ここより少しだけ賑やかで、少しだけ明るい。


今日は、話さなかった。


研究室の前で、あなたを見かけた。

声をかけようかと思って、結局やめた。

あなたは誰かと話していて、私はそのまま通り過ぎた。


部屋に戻って、日記帳を開く。

まだ白いページが多いのは、少し心強い。


⸻


四月十二日


図書館の窓際の席が好きだ。

午後になると、光が斜めに差し込んで、机の上に影ができる。


あなたは三列前に座っていた。

ノートに書く字が早い。

私は内容よりも、ペンの持ち方ばかり見ていた。


今日も、話さなかった。


その代わり、帰りに寄った喫茶店で、

あなたがいつも飲んでいるのと同じブレンドを頼んだ。


少し苦かった。


⸻


五月三日


ゴールデンウィーク。

大学は静かで、研究室にも人が少ない。


あなたは来ていた。

私は来ていた。


それだけで、十分だった気がする。


今日は、話さなかった。

でも、同じ時間を過ごした。


それは、話した日に近い気がして、

少しだけ日記を書くのをためらった。


それでも、書く。

話さなかったから。


⸻


五月二十日


服の色が変わったと、友人に言われた。

前はもっと明るい色を着ていたらしい。


自分では気づかなかった。

あなたが落ち着いた色を着ていることも、

それを心地よく感じていることも。


今日は廊下ですれ違った。

一瞬、目が合った気がした。


話さなかった。


心臓が少し速くなった。


⸻


六月一日


雨の日。

駅までの道で、傘がぶつかる。


あなたは傘を差していなかった。

小走りで、濡れたまま建物に入っていく。


声をかけようと思った。

「大丈夫?」とか、そんな言葉。


でも、話さなかった。


その代わり、

あなたの肩に残った水滴の位置を、ずっと覚えている。


⸻


六月二十三日


今日は、少しだけ距離が近かった。


研究室のコピー機の前。

あなたが紙を詰まらせて、困っていた。


手伝おうか迷って、結局何もしなかった。


話さなかった。


あとから、後悔とも違う、

名前のつかない感情が残った。


それも、日記に書く。


⸻


七月七日


七夕。

短冊は書かなかった。


願い事は、

書くと失われる気がした。


あなたは白いシャツを着ていた。

いつもより、少しだけラフだった。


今日は話さなかった。

でも、あなたが笑った理由を、

私は勝手に考えていた。


⸻


七月二十八日


暑い。

大学の帰り、アイスを買った。


あなたも同じ店にいた。

同じ冷凍ケースの前で、少し迷っていた。


話せばよかった。

「おすすめはありますか」とか。


でも、話さなかった。


あなたが選んだ味を、

あとで確認した。


⸻


八月十五日


夏休み。

研究室は閉まっている。


あなたはいない。

私はいる。


話さなかった日が、急に増えた。


でも、不安はなかった。

むしろ、書く理由がはっきりした。


⸻


九月二日


後期が始まる。


久しぶりに見たあなたは、

少し日焼けしていた。


どこかに行ったのだろう。

誰と、何をしたのだろう。


考えても、答えは出ない。


今日は話さなかった。


それでも、

同じ空間に戻ってきたことが、嬉しかった。


⸻


九月二十九日


あなたの癖に気づいた。


考え事をするとき、

指で机を軽く叩く。


音はほとんどしない。

でも、私は分かる。


今日は話さなかった。

代わりに、その音を数えた。


⸻


十月十六日


少し寒くなった。


あなたはストールを巻いていた。

似合っていた。


私は、同じような色のものを探した。

買わなかったけれど。


話さなかった。


それでいいと思った。


⸻


十一月三日


学園祭。


人が多くて、

偶然を装えば話せたかもしれない。


でも、私は遠くから見ていた。


あなたが誰かと歩いているのを。

楽しそうに話しているのを。


今日は話さなかった。


胸の奥が、少しだけ痛んだ。


⸻


十二月二十四日


クリスマスイブ。


特別なことはなかった。

研究室も、図書館も、早く閉まった。


あなたはいなかった。


話さなかった。


それでも、

今日は長く日記を書いた。


⸻


一月十日


新年。


あなたに「おめでとう」と言いたかった。

でも、言わなかった。


話さなかった。


その代わり、

あなたが去年より少し落ち着いて見えることを、

丁寧に書いた。


⸻


二月十四日


バレンタイン。


チョコレートは買った。

渡さなかった。


話さなかった。


包装紙の音だけが、

部屋に残った。


⸻


三月二十日


年度が終わる。


研究室で、あなたと目が合った。

一瞬、言葉が喉まで来た。


でも、話さなかった。


この一年で、

私はたくさんの話さなかった日を持った。


それは、誰にも渡さない。


⸻


三月三十一日


最後の日。


日記帳のページが、ほとんど埋まった。


話した日は、ここにない。

書く必要がなかった。


貴方と話した日は、もう必要ない。

私には、話さなかった日々を書く理由がある。


話さなかった日々だけが、私のものだった。


⸻

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


この物語は、

恋が始まる話でも、終わる話でもありません。

ただ、「話さなかった」という選択が

どれだけの時間を内側に残すのかを

静かに記録したものです。


話した日は、共有されます。

記憶も、言葉も、関係性も。


けれど話さなかった日は、

誰にも渡らず、

書いた本人の中にだけ残ります。


この日記が、

あなた自身の「話さなかった日」を

ふと想起させるものであったなら、

それ以上の役割は必要ないのだと思っています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。