話さなかった日の記録
この作品は、
「語られなかった日々」を記録した日記体の短編です。
出来事は少なく、
感情も大きく動きません。
それでも、ページは進み、日付だけが積み重なっていきます。
もし読み進めるうちに、
「これは自分の知っている感情かもしれない」と
思う瞬間があれば、
その感覚だけを持ち帰ってもらえたら嬉しいです。
四月五日
今年の春は、例年より少し遅い気がする。
駅前の桜はもう満開なのに、風が冷たくて、コートを脱ぐ決心がつかない。
朝の電車は相変わらず混んでいた。
急行が通過していくのを、各駅停車のホームから眺める。
大学のある街は、ここより少しだけ賑やかで、少しだけ明るい。
今日は、話さなかった。
研究室の前で、あなたを見かけた。
声をかけようかと思って、結局やめた。
あなたは誰かと話していて、私はそのまま通り過ぎた。
部屋に戻って、日記帳を開く。
まだ白いページが多いのは、少し心強い。
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四月十二日
図書館の窓際の席が好きだ。
午後になると、光が斜めに差し込んで、机の上に影ができる。
あなたは三列前に座っていた。
ノートに書く字が早い。
私は内容よりも、ペンの持ち方ばかり見ていた。
今日も、話さなかった。
その代わり、帰りに寄った喫茶店で、
あなたがいつも飲んでいるのと同じブレンドを頼んだ。
少し苦かった。
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五月三日
ゴールデンウィーク。
大学は静かで、研究室にも人が少ない。
あなたは来ていた。
私は来ていた。
それだけで、十分だった気がする。
今日は、話さなかった。
でも、同じ時間を過ごした。
それは、話した日に近い気がして、
少しだけ日記を書くのをためらった。
それでも、書く。
話さなかったから。
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五月二十日
服の色が変わったと、友人に言われた。
前はもっと明るい色を着ていたらしい。
自分では気づかなかった。
あなたが落ち着いた色を着ていることも、
それを心地よく感じていることも。
今日は廊下ですれ違った。
一瞬、目が合った気がした。
話さなかった。
心臓が少し速くなった。
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六月一日
雨の日。
駅までの道で、傘がぶつかる。
あなたは傘を差していなかった。
小走りで、濡れたまま建物に入っていく。
声をかけようと思った。
「大丈夫?」とか、そんな言葉。
でも、話さなかった。
その代わり、
あなたの肩に残った水滴の位置を、ずっと覚えている。
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六月二十三日
今日は、少しだけ距離が近かった。
研究室のコピー機の前。
あなたが紙を詰まらせて、困っていた。
手伝おうか迷って、結局何もしなかった。
話さなかった。
あとから、後悔とも違う、
名前のつかない感情が残った。
それも、日記に書く。
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七月七日
七夕。
短冊は書かなかった。
願い事は、
書くと失われる気がした。
あなたは白いシャツを着ていた。
いつもより、少しだけラフだった。
今日は話さなかった。
でも、あなたが笑った理由を、
私は勝手に考えていた。
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七月二十八日
暑い。
大学の帰り、アイスを買った。
あなたも同じ店にいた。
同じ冷凍ケースの前で、少し迷っていた。
話せばよかった。
「おすすめはありますか」とか。
でも、話さなかった。
あなたが選んだ味を、
あとで確認した。
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八月十五日
夏休み。
研究室は閉まっている。
あなたはいない。
私はいる。
話さなかった日が、急に増えた。
でも、不安はなかった。
むしろ、書く理由がはっきりした。
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九月二日
後期が始まる。
久しぶりに見たあなたは、
少し日焼けしていた。
どこかに行ったのだろう。
誰と、何をしたのだろう。
考えても、答えは出ない。
今日は話さなかった。
それでも、
同じ空間に戻ってきたことが、嬉しかった。
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九月二十九日
あなたの癖に気づいた。
考え事をするとき、
指で机を軽く叩く。
音はほとんどしない。
でも、私は分かる。
今日は話さなかった。
代わりに、その音を数えた。
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十月十六日
少し寒くなった。
あなたはストールを巻いていた。
似合っていた。
私は、同じような色のものを探した。
買わなかったけれど。
話さなかった。
それでいいと思った。
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十一月三日
学園祭。
人が多くて、
偶然を装えば話せたかもしれない。
でも、私は遠くから見ていた。
あなたが誰かと歩いているのを。
楽しそうに話しているのを。
今日は話さなかった。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
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十二月二十四日
クリスマスイブ。
特別なことはなかった。
研究室も、図書館も、早く閉まった。
あなたはいなかった。
話さなかった。
それでも、
今日は長く日記を書いた。
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一月十日
新年。
あなたに「おめでとう」と言いたかった。
でも、言わなかった。
話さなかった。
その代わり、
あなたが去年より少し落ち着いて見えることを、
丁寧に書いた。
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二月十四日
バレンタイン。
チョコレートは買った。
渡さなかった。
話さなかった。
包装紙の音だけが、
部屋に残った。
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三月二十日
年度が終わる。
研究室で、あなたと目が合った。
一瞬、言葉が喉まで来た。
でも、話さなかった。
この一年で、
私はたくさんの話さなかった日を持った。
それは、誰にも渡さない。
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三月三十一日
最後の日。
日記帳のページが、ほとんど埋まった。
話した日は、ここにない。
書く必要がなかった。
貴方と話した日は、もう必要ない。
私には、話さなかった日々を書く理由がある。
話さなかった日々だけが、私のものだった。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この物語は、
恋が始まる話でも、終わる話でもありません。
ただ、「話さなかった」という選択が
どれだけの時間を内側に残すのかを
静かに記録したものです。
話した日は、共有されます。
記憶も、言葉も、関係性も。
けれど話さなかった日は、
誰にも渡らず、
書いた本人の中にだけ残ります。
この日記が、
あなた自身の「話さなかった日」を
ふと想起させるものであったなら、
それ以上の役割は必要ないのだと思っています。




