麒麟の巫女の秘密
翌朝、ほのかは黒斗に「ちょっと出かけてくる」と言ったものの、彼は昨日の今日だったためになにも言い返すことなく、彼女が別荘を出るのを見送っていた。車を出してくれた運転手だけはオロオロとしている。
「よろしかったのですか?」
「ちょっと麒麟の巫女に挨拶したいと思っただけだから気にしないで。あいつも……勝手に気に病まないといいのだけれど」
何度も無理だ駄目だと言ったし、ついでに抗議にも行ったというのに、それでもなお、「大丈夫」と押し切られてしまったのだ。だからこそ、今度こそ撫子に文句のひとつでも言わないと気が済まないでいた。
(痛かったのはあたしのほうなのに……黒斗のほうが今にも死にそうな顔してさ……あいつにそんな顔させたかった訳じゃないのに)
それでもほのかは、口を吸われたときにできた唇の腫れはそのまんま残していた。どのみち撫子に見せなければならなかったのだから。
瑞樹邸にはあっさりと面会の許可が下り、撫子のいる部屋にも通された。彼女は茶室でお茶を点て、先日と同じように暖かく迎えてくれた。
彼女は綺麗な瞳でじっとほのかの腫れぼったい唇を見た。
「これは……」
「やっぱり無理なんですってば。五行相剋の克服なんて……」
「……簡単に克服できるはずなんですが」
「口吸っただけでこれですけど!?」
「……いえ。体液を交換したら互いの持つ五行が混じり合って、拒絶反応なんて起こしようもないはずなんですが、まだなにもしてなかったんですね?」
そのあからさまな指摘に、ほのかは絶句した。
「ええ……っ!?」
「そもそも玄冥様が知らないとは思えないのですが……おふたり、そこまで互いに遠慮なさっていましたか? 子作りすると宣言していたのですから、わたくしが太鼓判を押した後、試したのだとばかり思っていましたが」
「してません。そういうこと、一切していません」
ほのかは黒斗の言葉を思う。彼がこのことを知っていたとしたら、ほのかが怖がっているのを気遣って手を出さなかったに他ならない。無理矢理にでも事を及んで克服できたのなら、手っ取り早いのだから。
ほのかがプルプルと震えている中、撫子はやんわりと言った。
「……むしろ、あまりにも即物的な五行の一族の中で、気持ちが通うまではなにもしないというのは美徳だと思います。そう自分のことを思いつめないでくださいませ」
「でも……あたし、黒斗に対して悪いことしたと……思って……」
「本来、異形が一族から出現するまでは、婚姻を厳選するなんて手段は持ち合わせていませんでした。ですが、異形が陰陽師から現れるようになってから、結婚相手を選ばなければならなくなりました。そうしなければ、悲劇は何度も起こりますからね」
「そうなんですけど……」
そのとき。撫子は急に自身の着物の帯を緩めはじめた。それにほのかはギョッとする。
「あの……撫子様?」
「……異形が生まれる悲劇は、なくさなければなりませんから。だからこそ、迷いが生じるのだと思います。五行の一族が血を残さない限り、異形を倒すことはできませんが。五行の一族の婚姻を間違えたら、悲劇しか生まれませんから」
彼女は自身の着ていた友禅を脱ぐと、襦袢の帯を解き、太股をさらす。
その太股を見て、ほのかは絶句した。
「撫子様……これは」
「……わたくしは異形ですから。幸い、まだ理性は残っておりますが、いつ理性の糸が切れるかわからない不確かな存在ですわ」
彼女の太股には、びっしりと鱗が付いていた。それは魚のものによく似ている。
「わたくしは明治より前から瑞樹家に存在しますから」
「……明治より前って……」
「年を取りませんの。異形となったら、人の世の理から完全に外れてしまうらしくて。それは寂しいものですわね。異形が暴れ回っているのも、人の姿を取ることができず、人から生まれたにもかかわらず、どうやっても人の世の理に戻ることができないからでしょうね……気が狂ってしまったほうが、幸せなこともございますから」
その撫子の言葉に、ほのかは答える言葉が見つからなかった。
「……あたしは、黒斗になんと言えばいいんでしょうか」
「おそらく、玄冥の方のほうがあなたに対して執着しておりますから。あなたに拒絶されることをなによりも許しがたくて手を出せなかったのでしょう。あなたの決心が固まってから伝えなさいませ。ただし、決心が固まってなければ、あの方は余計に自身を誤魔化そうとするでしょうね」
「それはやだなあ……」
「そして朱明の方。あなたは玄冥の方をどうお思いで?」
それにほのかは反応に困った。腐れ縁であり、学府にいたときはお世辞にも仲がいいとは言えなかった。
「あいつ、あたしの欲しかったものを全部持っていましたから。それに腹が立ったしムカつきました」
「嫌いも執着の一種ですものね」
「あいつはあいつで、あたしに対して自分の欲しかったものを全部持っていると言ってきて。訳がわかりません。あたしたち、互いにないものねだりをしているみたいで」
「そのことをゆっくりとお話しなさいませ……」
そう言いながら、撫子は着物を正し、茶の湯に戻った。ほのかは彼女が点てた抹茶をごちそうになったのだが。
茶室の外が騒がしくなってきた。
「撫子様、そちらに朱明の方はいらっしゃいますか!?」
「はい、いらっしゃいますよ。朱明の方」
「はい! どうかなさいましたか!?」
「……異形が出たと。今、玄冥の方が出ていますが、数が足りなくて!」
「あの馬鹿……っ!」
ほのかは腰の刀を気にした。きちんと持っている。立ち上がり、撫子に礼をする。
「話し合える余地があるのかわかりませんけど、なんとかしてきますね」
「お気を付けて。異形も今は気を立っているようですから」
「ええ?」
「……こちらが占おうとすると阻まれて、わたくしも実情はよく読めません。ただ玄冥の方は得物が不得手でしょう? あなたがお手伝いに行かなければ手が足りないやもしれません」
「はい!」
こうして、ほのかは瑞樹邸を飛び出し、車を走らせて現場へと向かったのである。
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ほのかと黒斗が初めて顔を合わせたのは、陰陽寮の学府に入学したときである。その年は拝み屋や市井の陰陽師が多い中、五行の一族が入学したのは比較的数が限られていた。
ほのかはせっかく仲良くなった八雲とはぐれてしまい、途方に暮れて学府内を散策していた。
「すーみーまーせーんー、こーこーどーこーでーすーかー!?」
大きな家には慣れているはずだが、陰陽寮の学府には様々な術式が施されており、ただの土地勘や物覚えだけでは行きたい場所に進むこともできず、その術式をひとつひとつ確認しながら進まなければならなかった。
しかし元々朱明の一族は得物に術式を込める家系であり、術式を使ってどうこうする家系ではないため、こうやって術式を使える人間を探しながらでなかったら目的地にすら辿り着けなかったのである。
(学府の術式って、うちの家全然不利じゃん! あたしだって術式使いたかったなあ……)
彼女は術式をほとんど使うことができない。陰陽師としては魑魅魍魎や怨霊を屠ればそれでいいのだから、術式の習得はあまり関係ないのだが、当時の彼女ではそんなことわかるはずもなかった。
心細くなり、だんだん涙目になってきたところで、ふわりと真っ白な長い髪が目に留まった。学府の制服たる水干を着ている、性別不明な同年代。
「あ、あのね! あなた! ここどこか知ってる?」
「……ここから先は神を起こす術式の研究機関だが。あちらは天文台。あちらは寮」
「すっごいね、そこまでわかるんだ!? 同い年っぽいのにすごい!」
「……別に。あなたは……朱明の人か」
帯刀許可が降りている陰陽師はそう多くはなく、刀を提げていたら朱明の人間だとひと目でわかる。それにほのかは「えへへ」と笑う。
「ごめんね、寮に戻りたいけど帰れなくって……案内してもらえないかな?」
「……いいけど」
「ありがとう! あたし朱明ほのか! あなたは!?」
「……玄冥黒斗」
「玄冥! すっごい家の人だね」
いくら同じ五行の一族とはいえども、それぞれ司っている五行の力が違うのだから、学府に来るまではそこまで交流がある訳でもない。ほのかの母は市井の拝み屋だったから、余計に物珍しかったのだ。
ほのかは一生懸命おしゃべりしたが、黒斗は素っ気なかった。だんだん「もしかして嫌われてる?」と思いはじめた中。やっと黒斗が不機嫌な理由に気付いた。
寮は当然ながら男子と女子に別れている。
「女子はあっち。じゃあ」
「……玄冥、男の子だったの?」
思わずほのかが言った言葉で、黒斗は顔を真っ赤にしてきつく睨み付けてきた。
それにほのかは「しまった」と思ったが、もう手遅れだった。ふたりの仲が卒業間近ではすっかりとギスギスしたものに変わってしまったのは、どう考えても初対面の印象が最悪だったからにならない。




