盤面の支配者、河川敷へ
歓声が、割れるように響いた。
ピッチ中央、青いユニフォームの10番が片足でボールを止める。
──清川高校、原田友之。
かつて“盤面の支配者”と呼ばれた司令塔。
味方の動き、敵の癖、ピッチの風。
すべてを把握して、試合を操った。
全国準決勝、残り十秒。
原田の右足から、一本のスルーパスが通る。
味方が抜け出した、その直後だ。
背後からスライディングが飛んできた。
原田の右膝が、鈍い音を立ててねじれた。
ピッチに倒れながら、
原田「……勝った」
歓声が、スタンドを揺らす。
その歓声と共に、彼のサッカー人生は幕を閉じた。
──十年後。
昼下がりの河川敷。
ベンチに座った原田は、缶コーヒーを片手にタバコをくわえていた。
無精髭にヨレたTシャツ。
グラウンドでは、小学生の試合が行われている。
原田「……まあ、こんなもんだろ」
無意識にボソリとつぶやく。
ボールが転がるたび、目がわずかに動く。
相手チームの10番が抜け出す。
華奢な体に似合わぬ切れ味。
原田の目が細まった。
原田(うまい。だが、シュートは雑だ)
10番が振り抜く──
だが、ボールは大きく枠を外れ、観客席へ。
転がった先は──原田の足元だった。
原田は立ち上がりもせず、右足を出す。
ピタリ。
吸い込まれるように、ボールが止まった。
周囲が一瞬、静まる。
子どもたちが目を丸くして見ている。
原田はタバコをくわえたまま、軽くボールを蹴り返した。
そのトラップは、まるで“昔の残響”のように滑らかだった。
原田(……身体が、まだ覚えてやがる)
美里「おじさん、もしかしてサッカー上手なの?!」
原田「まぁ、昔かじってたよ」
目を輝かせた少女──美里が言った。
美里「やっぱり! 今のトラップ、プロみたいだったよ!」
原田「サッカーかじってるやつなら誰でもできる」
美里「今ね、弟のチーム応援してるんだけど──」
美里は指を伸ばしてグラウンドを指した。
美里「監督がぎっくり腰でいなくて負けそうなの! 相手の10番めちゃくちゃ上手いし! 代わりに監督やってよ!」
原田「は?」
タバコの灰が膝に落ちる。
原田「いや、俺はそういうの──」
美里「だって、さっきの止め方見たら絶対上手いもん!」
原田「……知らねえよ。他を当たれ」
美里「お願い! 一回でいいから! もう負けちゃうの!」
原田「はあ?」
美里「ちょうどハーフタイムだし、いい作戦をちょろっと教えてよ!」
原田「そんな都合のいい作戦なんか──」
美里「いいから来て!」
美里が原田の手を引いた。
驚くほど強い力だった。
タバコの火が落ち、川風に消える。
原田(……サッカーからは足洗ったつもりだったんだがな)
気づけば、原田はグラウンドの脇に立っていた。
美里「今からこのオジサンが勝つ作戦教えてくれるから!!」
原田(おいおい……冗談じゃねえぞ)
十数人の小学生が、好奇と不安の入り混じった目でこちらを見ている。
「え、え、この人どっかのコーチ?」
「姉ちゃんの知り合い?」
「……なんか怖いんだけど」
原田
美里「いいから黙って聞く!!」
子どもたち「はい!」
美里の声が河川敷に響く。
その勢いに、子どもたちがピシッと姿勢を正した。
原田はこめかみを押さえ、ため息をつく。
原田「……まったく、なんなんだお前は」
美里「監督代行さん!」
原田「勝手に役職つけんな」
原田は視線を相手ベンチに戻した。
敵陣の10番が軽くステップを踏む。
原田「点差は」
子ども「0-1で負けてます」
原田「その一点はあの10番か」
美里「そうです。10番のドリブルに抜かれてそのまま……」
原田「よし、ならその10番にボールを持たせろ」
美里&子どもたち「え?!」
美里「え、ちょっと! 上手い相手にボール持たせたら、もっと点取られちゃうでしょ!」
原田はポケットからタバコを取り出しかけて、やめた。
原田「やつらのベンチを見てみろ。あの10番がお山の大将ってやつだ」
10番が軽く腕を振ると、隣の選手が慌てて水を差し出す。
ベンチの空気が、わずかに張りつめていた。
原田「10番がボールを持ったら二人ですぐに囲め。前半見た感じ、あいつはボール持ったらほぼ全部ドリブルで強引に抜きに来る」
子ども「二人なら取れる」
原田「そうだ。で、取られたらムキになって、またすぐボールよこせって怒鳴る」
美里「……じゃあ、そのときは?」
原田「また同じことをすればいい。そうすれば、これ以上の追加点は見込めない」
少年たちが顔を見合わせる。
原田「要するに、あいつの自信を折れ。得点より効く」
美里「じゃあ、同点にするには?」
原田「相手の攻撃がすぐ終われば、それ以外はこっちの攻撃だ。攻撃の時間が増えれば自然と点は入るだろ」
美里「よし! その作戦で行くよ!」
子どもたち「はい!」
笛が鳴る。試合再開。
相手の10番が得意げにボールを持つ。
美里「二人で行け!」
すぐに二人が囲み、10番はドリブルを仕掛けるが抜けない。
足元に焦りが出た。
強引に二人の間を抜こうとするが──
美里「とった!!」
ボランチの少年が滑り込み、ボールを弾き出した。
砂煙が上がり、歓声が上がる。
子どもたち「ナイスカット! 前、空いてる!」
スルーパス。
FWが走り出す。
相手DFの足がもつれる。
GKとの一対一──
シュート。
わずかにゴールからズレる。
美里「あー惜しい!!」
美里が頭を抱える。
だが、原田の表情は変わらない。
原田「……いい。今ので十分だ」
相手の攻撃。
相手10番「よこせ!」
またもや相手10番にボールが渡る。
原田「見てみろ。イライラしてんだろ」
10番の動きに焦りが混じっていた。
さっきよりもトラップが大きい。
味方へのパス要求も、怒鳴り声に変わっている。
美里「囲めー!」
二人の少年が一気に寄せる。
10番は再び強引に仕掛け──
ボールが足から離れた。
原田「そこだ!」
一人がスライディングでカット。
転がったボールを拾ったのは、先ほど惜しくも外したFW。
美里「いけぇぇぇ!」
FWが全力で走り抜ける。
相手DFは追いつけない。
ゴール前。右足一閃。
──ネットが揺れた。
歓声が、河川敷を揺らす。
少年たちは歓喜し、美里は思わず跳ね上がった。
美里「やったぁぁ!!」
原田はタバコをくわえたまま、腕を組む。
口元に、わずかな笑み。
原田「……だから言ったろ。自然と点は入る」
風が川面を撫で、煙が空に流れた。
その瞳には、十年前の“盤面の支配者”の光が戻っていた。
終了間際、さらに追加点が決まる。
笛が鳴った。試合終了。
子どもたちが歓声を上げて走り回る。
美里「オジサン、本当にありがとう!」
原田「まあ、暇つぶしにはなった」
美里「オジサン! 今度、私の高校の試合見に来てよ!」
原田「は?」
美里「マネージャーやってるんだ、清川高校で!」
原田「行かねえよ。俺も暇じゃねえんだ」
原田はポケットを探りながら、自販機の前に立つ。
原田「……あっ、小銭が……」
チャリン、ガシャン。
美里「貸し一個ね! 絶対来てよ!オジサン!」
美里が手を振りながら立ち去る。
原田は缶コーヒーを受け取り、ため息をついた。
原田(……清川ねぇ)
川風が頬を撫でる。
屈めた拍子に、壊れた右膝がじくりと疼いた。
十年前の記憶が、ゆっくりと蘇る。
原田(あと俺はオジサンじゃねえ。まだ27だ)




