名前のない違和感
数日後――。
「久遠さん、おはようございます」
小走りで久遠の前に立ち、満面の笑みを浮かべて挨拶をしたのは、橘愛美だった。
「おはようございます」
「午後から暑くなるみたいなので、気をつけてくださいね」
きらきらとした視線を向けながら話しかけてくる。
だが久遠は、いつもと変わらない淡々とした返事を返すだけだった。
「……はい。ありがとうございます」
それ以上会話を続けることなく、その場を離れる。
背中に視線が突き刺さる感覚があった。振り返らなくても分かる。――まだ、見られている。
苦手だ。
心の底から、そう思った。
周囲の反応を見る限り、彼女は男性社員の間では人気があるらしい。
神崎真琴の言っていた通りだ。
だが自分にとっては、できるだけ関わりたくないタイプだった。
扉を開けると、神崎真琴がこちらに気づき、いつもの変わらない笑顔を向けてくる。
「久遠くん、おはよう!」
その声を聞いた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。
「おはようございます」
裏表のない笑顔。
まだ数日しか一緒に仕事をしていないが、ひとつだけ確信していることがある。
――この人は、真っ直ぐだ。
仕事に対しても、人に対しても。
愚痴を言わず、誠実で、誰に対しても態度を変えない。
年齢や立場で線を引かず、必要とあらば上司にも臆せず意見をする。
だからこそ、皆から信頼されているのだろう。
「あ、今日の午後から一条社長が来るから、久遠くんも同席してくれる?」
「はい、分かりました」
また、あの人か……。
正直、少し気が重い。
「久遠さん、おはようございます」
別の女性社員が声をかけてくる。
「おはようございます」
少し離れた場所で、ひそひそと話す声が聞こえた。
「今日もカッコいいよね」
「ほんと、王子様みたい」
……聞こえている。
最近知ったのだが、どうやら自分は“王子”と呼ばれているらしい。
正直、恥ずかしすぎる。
仕事には少しずつ慣れてきた。
それどころか、今は楽しいと感じている。
これまでは、与えられたことを淡々とこなすだけだった。
だが今回は違う。
この企画を成功させたい、皆とやり遂げたい――そう思える。
それは内容以上に、チームの雰囲気が大きかった。
中心にいるのは、やはり神崎真琴だ。
素直に、すごい人だと思った。
――その日の午後。
一条雅也が会社を訪れた。
企画の最終確認のためだ。
会議室に案内され、三人が席に着く。
「お忙しい中ありがとうございます」
神崎が丁寧に頭を下げる。
「ほんと、俺は忙しいんだけどな」
背もたれに体を預け、一条は軽く手を振りながら言った。
「……ほんと、あんたってムカつく」
思わず本音をこぼす神崎。
一条は楽しそうに笑っている。
久遠には、そのやり取りがどこか特別なものに見えた。
この一流企業の社長に、あんた呼ばわりできる人間はそういない。
だがなぜか、胸の奥がもやつく。
――トントン。
ノックの音とともに、扉が開いた。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
橘愛美だった。
また、か。
久遠は気づかれないほど小さく息を吐いた。
神崎の表情が一瞬、強ばる。
「一条社長!今日は直々にお越しくださったんですね。お会いできて嬉しいです!」
上目遣いで、一条を見つめる愛美。
その顔は、先ほど自分に向けられたものと同じだった。
――分かりやすい。
一条の返事は短かった。
「あぁ……」
構わず話を続けようとする愛美を、一条が手で制した。
「悪いが、これから大事な会議だ。出てもらえるか」
「……はい」
肩を落とし、愛美は退出していった。
「さて。邪魔者もいなくなったし、続きをやろうか」
「邪魔者って……」
神崎が思わず吹き出す。
久遠も、笑いそうになるのを必死にこらえた。
少なくともこの場にいる三人は、橘愛美に対して同じ感情を抱いている。
それだけは、はっきり分かった。
会議は問題なく終わった。
「当日はよろしくな、神崎サン」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「……元気そうだな」
一条が、少しだけ複雑な表情で言う。
「もちろんです。この企画、必ず成功させますから」
きっと一条は、神崎の過去も、表情が曇った理由も知っている。
自分には踏み込めない、二人だけの時間と絆がある。
胸の奥が、またざわついた。
――この感情は、何だ?
まだ名前をつけられないその違和感が、久遠の中で静かに広がっていた。




