久遠郁人。
「ごめんね、びっくりしたでしょ?」
「ちょっと驚きはしましたけど……仲がいいんですね」
「そうねぇ。仲がいいというか、もう腐れ縁みたいなものよ。一条社長の言うことは気にしないで。いつも冗談ばかりだから」
「……そうなんですね」
久遠はそれ以上何も言わなかった。
会社に戻るころには、真琴も久遠も、うっすらと汗をかいていた。
「ごめんね、暑かったでしょ。戻ったら少し休憩していいから」
そう言った、そのときだった。
「神崎さん!」
びくり、と全身が強張る。
振り向かなくても分かる。――橘愛美だ。
「外回りですか? お疲れさまです」
にこやかに微笑むその姿に、真琴は視線を伏せた。
……どうして、わざわざ声をかけてくるの?
「お疲れさま」
それだけ言って立ち去ろうとしたが、愛美は構わず言葉を重ねる。
「少し時間が経っちゃいましたけど、この前はお忙しい中、私たちの結婚式に来てくださってありがとうございました」
微笑みを崩さないまま、続ける。
「来ていただけないかも、って思ってたんです。神崎さんお忙しそうですし、それに……色々あったから」
――色々?
思わず拳を強く握りしめた。指先が震える。
人の恋人を奪っておいて、どうしてそんな顔で、そんな言葉を投げられるの?
どうしてこんなにも普通でいられるの……?
「あら?」
背後の久遠に気づいた瞬間、愛美の表情が一変した。
ぱっと花が咲いたように明るくなる。
「神崎さんの後輩さんかしら? 初めまして。橘愛美、二十歳です。この会社で受付をしています」
上目遣いで久遠を見つめる。
ああ……この表情。男たちが一瞬で虜になるのも無理はない。
「久遠郁人です。よろしくお願いします」
だが、久遠の態度は変わらなかった。
浮き足立つこともなく、視線も穏やかなまま。
愛美も、少し戸惑ったように目を瞬かせている。
「何か分からないことがあったら、いつでも聞いてくださいね」
――受付と営業で、接点なんてほとんどないのに。
真琴は怪訝に思いながら二人を見ていたが、愛美は気づかない。
久遠だけを見つめ続けている。
「行こう、久遠くん」
「はい」
背中に視線を感じながら、エレベーターに乗り込んだ。
……まだ胸がざわついている。
どうして声をかけてきたのか。
どうして、あんな笑顔でいられるのか。
何も分からない。
「あの人……結構、面倒そうな方ですね」
久遠の一言に、思わず足を止めた。
「え?」
「珍しいね。あんなに可愛くて、男性陣はみんな橘さんのこと好きなのに」
「そうですか? 少なくとも自分の好みではないです」
きっぱりとした口調に、真琴は思わず二度見した。
「久遠くん、変わってるね。じゃあ、どんな人がタイプなの?」
軽い気持ちで聞いたつもりだった。
「自分をしっかり持っている人ですかね。責任感があって、落ち着いた女性がいいです」
「……そうなんだ」
意外だった。
若いから、見た目の可愛さを重視するタイプだと思っていたのに。
それでも、彼が橘愛美に靡かなかったことに、少しだけ安堵する自分がいた。
これ以上、自信を失いたくなかったから。
「さ、早く行って、涼みましょ」
「はい」
――美味しい。
配られた湖月堂の和菓子を口に運びながら、久遠は思った。
神崎真琴――不思議な人だ。
仕事ができて、皆を引っ張るリーダーなのに、どこか温かい。
情が深くて、人を大切にするような人だ。
湖月堂でも、家族のように接していた。
あのご夫婦も、彼女を娘のように思っているのが伝わってきた。
本人は無自覚なのだろう。
その温かさゆえに、無条件で人に信頼され、愛されていることを。
彼女を悪く言う人間はいない。
――いるとしたら、橘愛美くらいだろう。
自分は、簡単に人を信用するタイプではない。
けれど、彼女と一緒にいると、不思議と居心地がいい。
この見た目のせいで、寄ってくる女性は多い。
皆、同じ目をして、同じ調子で話しかけてくる。
それが正直、少し疲れる。
だが神崎真琴は違った。
一人の人間として、後輩として、変わらず接してくれた。
それが新鮮だった。
そして――一条雅也。
どう見ても、彼は神崎真琴に好意を抱いている。
あれほど分かりやすいのに、本人はまるで気づいていない。
それにしても助かった。
今は、自分の正体を知られるわけにはいかない。
それから、橘愛美。
彼女と神崎真琴の間には、確実に何かがある。
態度も、視線も、棘を隠そうともしない。
――ああいう女は、嫌いだ。
本能的に、そう感じていた。
橘愛美には、注意が必要だ。




