一条雅也。
真琴と久遠は湖月堂を後にした。
六月初夏の日差しが降り注ぎ、額にうっすらと汗が滲む。
空の青さも、新緑の瑞々しさも、今日はいつも以上に鮮やかに感じられた。
胸に居座っていた小さな澱のようなものが、すっと溶けていくのを感じる。
――うん、上手くいってよかった。
絶対に、いい企画にしよう。
湖月堂のご夫婦の笑顔を思い浮かべながら、真琴は改めて心の中でそう誓った。
「よかったですね。すぐに理解していただけて、正直驚きました」
「うん。久遠くんが言ってくれたからよ。あのまま進めてたら、お互いに遠慮したままだったと思う。ありがとうね」
「いえ……でも、すごいですね。ああいう関係」
「そう?長い付き合いだからかな。それに、私自身あのお店のファンだし。新作も美味しかったなぁ」
そう言いながら、真琴は紙袋を軽く揺らした。
「ちゃっかり、自分の分も買ってますしね」
「これは私とチームのみんなの分。みんな頑張ってくれてるからね」
実際、残業続きの日々だ。それでも誰一人弱音を吐かずについてきてくれている。
「じゃあ、次。あと一件いくわよ」
「はい」
十分ほど歩いた先に現れたのは、十六階建ての高層ビル。
今回の企画に協賛してくれる企業。いつもお世話になっているありがたい存在。
けれど……。
「神崎さん?」
「あ、ごめんごめん、大丈夫。今日は挨拶だけだから」
「はい」
受付を済ませ、最上階へ向かう。
社長室の前に立つと、真琴は一度深く息を吸った。
エントランス前で、真琴はふと足を止めた。
「あのね、社長……一条雅也社長なんだけど。ちょっと変なこと言うかもしれないけど、気にしないで」
「……はぁ」
意味が分からない、という顔の久遠に、真琴は小さく苦笑する。
悪い人じゃない。ただ、少し……いや、かなり癖がある。
「社長、神崎です。失礼いたします」
ノックをして扉を開けると、穏やかな笑顔が迎えた。
「やぁ。久しぶりだね」
一条雅也。
一八〇センチを優に超える長身に、モデルのような体躯。
涼やかな目元と整った顔立ち。身につけるものすべてが、洗練されている。
「一条社長、お久しぶりです。今回もご協力いただき、ありがとうございます」
「はは、そんな堅苦しくしなくていいのに」
「いえ、大変お世話になっていますので」
「真琴は相変わらずだなぁ」
呼び捨てにされた瞬間、背後で久遠がわずかに目を見開いた。
「……大学時代の同期なの」
そう説明すると、久遠は納得したように小さく頷いた。
「社長。ここはビジネスの場ですから。神崎でお願いします」
「分かってるって。神崎ちゃん」
「“さん”、です」
「はいはい」
楽しそうに笑う一条に、真琴は内心ため息をついた。
「で、出店店舗はもう決まった?」
「はい。こちらがリストと企画の詳細です」
資料を受け取り、一条は目を通す。
「相変わらず完璧だな。俺が口出すところはない」
「そう言っていただけて安心しました」
一条はふと視線を上げ、表情を曇らせた。
「……大丈夫か?」
その一言で、すべて察した。
彼が気にしているのは、相澤真吾……元恋人のことだ。
「大丈夫ですよ。変わりなくやっています」
真琴は微笑んだ。
大学時代、慎吾と付き合う前は、一条と一緒に過ごす時間が多かった。
同じ専攻で、話も合って楽しかった。
けれど、慎吾と付き合い始めてから、自然と距離ができた。
「寂しくなったら、俺が飛んでくからさ」
一条は胸を指で叩く。
「俺のここ、まだ空いてるぞ」
相変わらず軽い。けれど、心配してくれているのは分かる。
「はいはい。ありがとうございます」
そのやり取りを不思議そうに見ていた久遠に気づき、真琴は慌てて言った。
「ごめんね。この人の言うこと、半分以上は冗談だから」
「半分以上って失礼だな……あれ?」
一条が久遠に視線を向ける。
「新しい人か?」
「今日入社したばかりの久遠郁人くん。私のチームで指導することになって」
「久遠……」
一条は一瞬、何かを考えるように視線を落とした。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
その微妙な間に、真琴は小さな違和感を覚えたが、深く追及はしなかった。
企画の確認を終え、二人は社長室を後にした。




