選択を間違えた日。
橘愛美と結婚して約二ヶ月が過ぎた。
結婚を報告したとき、周囲の反応は分かりやすかった。
誰もが口を揃えて「羨ましい」と言った。
それもそのはずだ。
橘愛美は、会社の顔とも言われる受付嬢。
男性社員の間では、知らない者のいない“マドンナ”的存在だった。
小柄な体に、潤んだ大きな瞳。
透明感のある白い肌に、淡く色づいた頬。
艶のある唇と、肩口でふわりと揺れる髪。
甘い香りと、柔らかな声。
彼女が微笑むだけで、場の空気が和らぐ。
まるで天使みたいだと、本気で思った。
——俺も、その一人だった。
当時は真琴と付き合っていた。
だからどうこうしようなんて考えていなかった……はずだ。
ただ、挨拶を交わすだけ。
すれ違うだけで、なぜか胸が少し高鳴る。
そんな“一瞬の幸せ”をくれる存在。
……あの日までは。
ある休日、真琴に買い物を頼まれ、文句を言いながらコンビニへ向かっていた。
「なんで俺が休みに買い物なんだよ……。せっかくの休日なのに」
ブツブツ独り言をこぼしながら歩いていると、前方が妙に騒がしいことに気づいた。
人だかり。
十人以上はいるだろうか。
「……なんだ?」
輪の中心を覗いた瞬間、心臓が跳ねた。
——橘さん。
だが次の瞬間、状況がただ事ではないと分かった。
彼女の腕を掴んでいる、見た目からして異様な男。
伸びきった髪で表情は見えず、ヨレヨレの服。
どう見ても普通じゃない。
不審者だ。
橘愛美は必死に腕を振りほどこうとしていた。
「やめてください!警察呼びますよ!」
「お前のせいで人生めちゃくちゃなんだよ!このバッグも時計も、俺が買ってやったんだろ!」
——は?
どう見ても、そんな高価なものを買える男には見えない。
完全に頭がおかしい。
普段ならこんな面倒なことには関わらない。
でも、相手は橘さんだ。
……正直思った。
これはチャンスじゃないか、と。
「ちょっと!やめてください!彼女、困ってるじゃないですか!」
男が振り向く。
「誰だお前!まさか……愛美の新しい男か!?」
「違います!とにかく手を離してください!」
次の瞬間、男が拳を振り上げた。
とっさに身をかわす。
男はバランスを崩し、そのまま転倒した。
地面に頭を打ち、呻き声を上げる。
——俺は何もしてない。
勝手に転んだだけだ。
「今だ……!橘さん、走るよ!」
手を引き、人混みを抜けて走った。
とにかく、あの男が見えなくなるまで。
しばらく走り、ようやく立ち止まる。
「大丈夫?ごめん、急に走らせて」
「だ、大丈夫です……。助けてくださって、ありがとうございます……」
息を切らしながらも、丁寧に頭を下げる。
——可愛い。
こんな状況なのに、そう思ってしまう自分がいた。
近くの喫茶店に入り、向かい合って座る。
大きな瞳。
守ってあげたくなるようなか弱さ。
——真琴とは、正反対だ。
「本当にありがとうございました」
涙を滲ませるその姿に、胸が締めつけられる。
「……もう少し、一緒にいてもらえますか?」
「もちろんだよ」
予定はなかった。
いや、一瞬だけ真琴の顔が浮かんだけれど……。
仕方ないだろ。
こんな怖い思いをしたんだから。
「あの……相澤真吾さん、ですよね?」
名前を呼ばれ、驚いた。
「俺のこと覚えてるの?」
「はい!いつも素敵な笑顔で挨拶してくださるので」
下の名前まで覚えられている。
正直、それだけで舞い上がった。
「相澤さん、優しくてかっこよくて、女子社員の間で人気なんですよ」
——そうなのか。
しかも、橘愛美が。
俺を、そう見ていた?
「私も、ずっと素敵だなって思っていました」
頬を染め、視線を伏せる。
……可愛すぎる。
「連絡先、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
それが、始まりだった。
正直、あのときは浮かれていた。
みんなの憧れだった橘愛美と繋がれたことが。
真琴のことは、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
でも、正直に言えば——
あの頃の真琴との関係は、もう“慣れ”だった。
安心はあっても、ときめきはなかった。
愛美との出会いは、
忘れていた感覚を、思い出させた。
——恋愛って、きっと、こういうものだったんだ。




