忍び寄る悪意。
神崎さん……気持ちよさそうに眠っている。
久遠は、静かに寝息を立てる真琴の顔を、しばらくじっと見つめていた。
毅然として、誰に対しても真っ直ぐで。
いつも強く、迷いのない姿しか見てこなかった神崎さんが、こんなふうに無防備に眠っている姿を見るのは初めてだった。
放っておけなかった。
一人で帰らせたくなかった。
一人にさせてはいけない、そう思った。
彼女を引き止めたのは、間違いなく僕の我儘だ。
久遠は、自分の中に芽生えた初めての感情に戸惑っていた。
これまで、特定の誰かにここまで心を乱されたことはない。
他人に優しくすることはあったが、それは円滑に物事を進めるための仮初めのものだった。本心では、他人に深く興味を持ったことなどなかった。
ただ、うまく回ればいい。
そう割り切って、人と関わってきた。
――けれど。
神崎さんを見ていると、考え方が変わる。
仕事への情熱。仲間への思いやり。
一人ひとりと真正面から向き合い、真剣に接する姿。
僕とは、まるで正反対の人だ。
彼女と一緒に仕事をするようになってからだ。
仕事にやりがいを感じるようになったのも、仲間を見る目が変わったのも。
……だから父は、僕を神崎さんの下に就かせたのか。
神崎主任の指導のもとで働くようになったのは、父の判断だった。
このことは、誰にも話していない。
父との関係を公にしたくなかったし、それ以上に、彼女に余計な先入観を持たせたくなかったからだ。
「お風呂、お先に失礼しました」
湯上がりの彼女は、驚くほど魅力的だった。
湿った肌、火照った頬。
艶やかなその姿に、思わず息をのんだ。
僕の服を着ている彼女が、やけに可愛く愛おしく見えた。
けれど……彼女は、相澤真吾に傷つけられ、今も心が弱っている。
こんな気持ちを悟られたら、嫌われてしまう。
そう思って、必死に冷静を装った。
だから酒に頼った。
けれどペースが早かったのは彼女の方で……。
酔った彼女は、自分のことをたくさん話してくれた。
大学二年の冬。
何度も告白され、相澤真吾と付き合い始めたこと。
結婚も考えていた矢先、浮気現場を目撃し、心ない言葉で切り捨てられたこと。
そして今も、執拗に続く連絡に悩まされていること。
聞けば聞くほど、怒りが込み上げてきた。
なんて身勝手な男だ。
他人に執着しないはずの自分が、ここまで強い怒りを覚える。
それはきっと……神崎さんが関わっているからだ。
多分、僕は神崎さんのことが好きなんだ。
すべてを話し終えた彼女は、子どものように眠ってしまった。
「……飲ませすぎたな」
テーブルに伏せた彼女を起こさぬよう、久遠はそっと抱き上げ、寝室へ運ぶ。
布団をかけ、その寝顔を見つめる。
「……まるで子どもだ」
思わず微笑みがこぼれた。
可愛い。
抱きしめたい衝動を必死に抑え、久遠は彼女の髪をそっと撫でる。
「おやすみなさい、真琴さん」
翌朝。
――やってしまった。
目覚めた瞬間、真琴は久遠のベッドにいることを理解し、頭を抱えた。
頭痛と共に、後悔が押し寄せる。
あれから二人でワインを飲んだことまでは覚えているけど、その後がまるで思い出せない。
恐る恐るリビングへ向かうと、久遠はすでに起きて朝食を用意していた。
「おはようございます。頭、痛くないですか?」
その自然な態度に、真琴は少し救われる。
「少し……頭が痛いかも。ごめんね、私がベッドお借りしちゃって」
「大丈夫ですよ。それよりコーヒー飲めますか?食べれそうだったらお粥もどうぞ」
「うん。ありがとう。」
淹れたてのコーヒー。
優しい味のお粥。
心まで温まるようだった。
「私…なにか変なこと言ってなかった?あまり記憶が無くって……」
「何もなかったですよ。神崎さん疲れていたのか、すぐ寝てしまいましたから」
「ならよかった……」
食べ終え準備を整えると、久遠に何度もお礼伝え、マンションを出た。
そしてタクシーで自宅へと向かった。
会社へ向かうと、異様な空気が漂っていた。
「何……これ……。」
エントランスに壁一面に貼られた写真と張り紙。
写っていたのは、自分と一条雅也。
そして、黒々と書かれた文字。
『神崎真琴は枕営業をしている』
心臓が嫌な音を立てる。
雅也に抱きしめられているかのような写真が複数枚。
その写真に覚えがあった。
これはあの時の……雅也と飲みに行った時の写真だ。
私が躓いて倒れそうになったのを、雅也が受け止めてくれた時のもの。
しかも撮られた写真は、運悪くホテルの前。
この写真を見るまでは、何処で躓いたのかも分からないくらい気にも止めていなかった。
まさか写真にとられていたなんて……。
必死に否定しても、疑いの視線は消えない。
「僕は神崎さんを信じます」
久遠の言葉に、かろうじて立っていられた。
けれど、噂は社内だけに留まらなかった。
クライアントからの担当変更の要請。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
私は、どうすればいいの……。




