忍び寄る影。
「あぁ!ムカつく!」
即日解雇となった橘愛美は、自宅で荒れていた。
「神崎真琴も……一条も……絶対に許せない!」
怒りに任せて、ソファに置いてあったクッションを投げつける。
クッションはガラス製の置物に当たり、そのまま床へと落下した。
次の瞬間、けたたましい音とともに砕け散る。
愛美の怒りは、少しも収まらなかった。
――全部、神崎真琴のせい。
このままで済むわけがない。
窓際に置かれたタンス。その一番下の引き出しを開ける。
中には、数枚の写真が入っていた。
「私をこんな目に遭わせたんだから……絶対に許さない」
歪んだ感情を孕んだ瞳で、愛美は写真を見つめていた。
その日の夜。
相澤真吾が帰宅した。
乱暴に開け放たれた玄関の扉が、重い金属音を響かせる。
「愛美! 愛美! いるんだろ! 返事しろよ!」
バッグを床に叩きつけ、怒鳴るように名前を呼ぶ。
部屋は真っ暗だったが、玄関には今朝履いて出た靴があった。
リビングに足を踏み入れると、灯りもつけず、暗闇の中に愛美が立っていた。
「どういうことだ! 会社中で噂になってるぞ!お前が会社のパソコン使ってデータを改ざんしたって……本当なのか!?」
「……本当よ」
俯いたまま答える愛美。
髪が顔にかかり、その表情は見えない。
「マジかよ……クソッ!」
「……」
「なんでそんなことした! 俺まで笑い者じゃねぇか!まさかお前がこんなヤバい女だったなんてな!
明日からどんな顔して会社に行けばいいんだよ!」
怒りをぶつける真吾。
その言葉に、愛美は顔を上げた。
「知らないわよ! あんたが能無しだからでしょ!」
「はぁ!? 何だよ、その言い方!仕事も家事も、何ひとつまともにできないくせに!今までのお嬢様キャラは嘘だったのか? 騙されたよ!」
「騙される方が悪いのよ!結婚する前は“愛美ちゃん” “愛美ちゃん”ってあんなデレデレしてたくせに!結婚したら急にケチになって、あれしろこれしろうるさいのよ!」
「結婚したんだから当たり前だろ!いつまでも恋人ごっこしてられるか!何もしなくていいって言ったけど、最低限のことはやれよ!」
積もり積もった感情が、一気に爆発した。
「……別れましょう!」
だが、それは真吾も同じだった。
「あぁ。離婚だ」
結婚から、まだ一年も経っていなかった。
離婚後。
真吾の社内での立場は、一気に落ちた。
元妻の不祥事、仕事の不調。
かつて“営業部のスター”とまで呼ばれていた姿は、見る影もない。
悪い噂ばかりが耳に入る。
それは、プライドの高い真吾にとって耐え難い屈辱だった。
――なんで、こんなことに。
真琴……お前さえ戻ってくれば、俺はまた輝ける。
そう信じて何度も連絡を入れるが、返事はない。
一度の過ちくらいで、すべてが終わるはずがない――。
「まだ連絡来てるんですか?」
鳴り止まないスマートフォンを見て、久遠が言った。
「……うん」
「今は特に危ない時期です。何をするかわかりません。よかったら家まで送りますよ」
「大丈夫。そこまで酷いことはしないと思うから……」
そう言いながらも、真琴の胸には不安が残っていた。
21時。
仕事を終え、真琴は会社を出た。
夕方から増えた着信には目を向けなかった。
自宅前に差しかかった時、足が止まる。
「……真吾?」
暗がりの中に立つ、見覚えのある影。
ヨレヨレのシャツ、疲れ切った顔
一緒にいた頃の彼とは、まるで別人だった。
「なんで家の前にいるの……?」
「なんで電話に出ない! メールも無視して!」
強い口調に、真琴の身体がびくりと震える。
「もう、何の関係もないでしょう……」
「大学の頃からずっと一緒だっただろ!?一度の過ちくらいで、全部終わりかよ!俺は愛美と別れたんだ! もう問題ない!戻ってこいよ、真琴!」
「……問題ないって……」
腕を掴まれた瞬間、恐怖が走る。
「痛い! 離して!」
「俺を無視するな! 昔に戻ろう!」
その時――。
「その手、離してください」
久遠郁人が、真吾の腕を掴み上げた。
「離せよ!」
「離すまで離しません」
「……分かったよ!」
手が離れ、真琴は息を呑んだ。
「嫌がる女性の腕を掴むのは、犯罪です」
「……犯罪?」
その言葉に、真吾は一瞬怯む。
「……今日は帰る」
吐き捨てるように言い、背を向ける真吾。
掴まれた腕が、じんじんと痛む。
――怖かった。
震えが止まらない。
「大丈夫ですか?」
久遠がそっとジャケットを肩にかける。
「……ありがとう」
赤く残る手の跡を見て、久遠は静かに言った。
「一人にしませんから……。行きましょう」
呼んだタクシーに乗り込み、二人は夜の街へと消えていった。




