暴かれた歪み。
「……橘愛美さんに……教えました……」
その言葉に、場の空気が一瞬で凍りついた。
「……どうして?どうしてパスワードを教えたの?
しかも、なぜ橘さんに……」
第三者にパスワードを教えることは禁止されている。
それを破った理由が、どうしても理解できなかった。
中村は俯いたまま、小さく息を吸い込んだ。
「実は……相澤さんと結婚される前、僕たち……付き合っていたんです」
「……え?」
思わず声が漏れた。
真琴は言葉を失う。
中村さんと、橘愛美が……?
「付き合っていることは、周りに知られると恥ずかしいから内緒にしてほしいって……橘さんに言われていました。
期間は短くて、二ヶ月ほどでしたが……確かに、付き合っていました」
震える声が、その事実の重さを物語っていた。
「でも……どうしてパスワードまで教えたの?」
「パソコンの使い方を教えてほしいって言われて……。それに、『本当に私のことが好きなら、信頼の証として教えてほしい』って……」
真琴は思わず大きくため息をついた。
話を聞く限り、橘愛美が数字を書き換えた可能性は限りなく高い。
けれど――決定的な証拠がない。
「……わかったわ。話してくれてありがとう。でも、もう誰にもパスワードは教えないで。すぐに変更してちょうだい」
「はい……本当にすみませんでした……」
深く項垂れる中村の肩に、真琴はそっと手を置いた。
確かに、中村にも落ち度はある。
けれど、もしこれが橘愛美の故意によるものだとしたら――。
決して見過ごせる問題ではない。
だが、証拠がなければ、責任を問うこともできない。
中村から少し離れ、真琴と久遠は小声で話し合った。
「証拠はありませんが……ほぼ橘愛美の仕業と見て、間違いないでしょうね」
「でも、何のために?パスワードを聞いたのは、まだ真吾と付き合う前なんでしょう?」
「……相澤さん?」
はっとする。
真吾と自分の過去を、まだ久遠には話していなかった。
「私と真吾……相澤真吾は、大学時代から付き合っていたの」
「そうだったんですね……。以前、橘さんと神崎さんが話しているのを見て、なんとなく確執があるように感じていました」
真琴は苦笑した。
「大学時代からずっと一緒だったけど……浮気現場を目の前で見てしまってね」
「あぁ……」
久遠は言葉を濁し、複雑な表情を浮かべる。
「もう気にしてないから大丈夫。でも……橘さんがパスワードを聞いたのは、私とは関係ない時期よね。それなのに、どうして……」
真吾を奪うための嫌がらせなら理解できる。
けれど、中村と付き合っていた頃に、わざわざパスワードを知る必要があった理由が見えない。
「……相澤さんは、関係ないと思います」
「どういうこと?」
「橘さんは、前々から神崎さんを意識していたんじゃないでしょうか。そして今回、このタイミングでイベントを失敗させようとした」
「……でも、私は橘さんとほとんど接点がないわ。
挨拶するくらいで、深く関わったこともない……」
「嫉妬、だと思います」
久遠は静かに言った。
「皆に慕われている神崎さんの存在そのものが、気に入らなかったんじゃないですか」
理解しきれないまま、胸の奥に不安が沈んでいく。
「……とにかく、今後は橘愛美に注意してください」
「……うん」
数日後――。
一条雅也から、真琴のもとに電話が入った。
「今、少しいいか?」
「うん、大丈夫。どうしたの?」
「この前の発注ミスの件……誰の仕業か、分かった」
真琴は息を呑む。
「受付に橘愛美って女性がいるだろ。彼女の仕業だ」
やはり、という思いと、確信が胸を締めつけた。
「今からそっちに向かう」
「……わかったわ」
一条が動くということは、
決定的な証拠が揃ったということだ。
――事態は、いよいよ表に出ようとしていた。
それから二十分ほど経った頃だろうか。
一条雅也が、真琴の勤める会社に姿を現した。
一条が来る時間を見計らい、真琴は一階へ降りてきていた。
エントランスに現れた一条の姿を見つけ、彼の元へ向かおうとした――その瞬間。
すっと横をすり抜ける影。
一足先に、橘愛美が一条のもとへ駆け寄った。
真琴は思わず足を止め、その場に立ち尽くす。
「一条社長、お久しぶりですー!」
ぱっと花が咲いたような、眩しいほどの笑顔。
大きな瞳を輝かせ、全身で喜びを表現する愛美。
……この笑顔に、みんなが虜になるんだよね。
少し離れた場所から二人を見つめながら、真琴は思った。
この笑顔の裏で、彼女はいったい何を考えているのだろう、と。
「橘さん……だったかな?」
一条は、軽く微笑みながら名前を呼んだ。
「覚えていてくださったんですね!嬉しいです!」
愛美ははしゃぐように声を弾ませる。
その様子とは対照的に、一条は終始落ち着いたままだった。
——やっぱり。
真琴にはわかっていた。
あの笑顔は、あくまで“仕事用”のものだということを。
そしてもう一つ。
長い付き合いだからこそ分かる。
……雅也、かなり怒ってる。
表情には出ていないが、今の一条は明らかに感情を抑えている。
「君に、少し話がある」
「お話ですか? 何でしょう?」
愛美は身を乗り出し、さらに瞳を輝かせた。
——もしかして……。
愛美は思った。
胸が高鳴る。
わざわざ会いに来てくれた。
もしかしたら……告白?
そんな期待を膨らませながら、愛美は一条の次の言葉を待った。
「先日のイベントの件だが……」
「……?」
予想とはまったく違う言葉に、愛美は一瞬、固まった。
「イベント……ですか?」
声のトーンが、はっきりと落ちる。
表情もわずかに引き攣った。
「あの日、配布予定だったノベルティが、半分しか用意されていなかった。そのことは知っているよね?」
「……どうして私にそんな話を?」
愛美の動揺は、隠しきれていなかった。
「その発注書を意図的に改ざんし、数量を半分にした。……それは、君の仕業じゃないのか?」
一条の言葉が落ちた瞬間。
その場の空気が、一気に凍りついた。
愛美も。
そして、成り行きを見守っていた数人の社員たちも。




