遅すぎた後悔。
相澤真吾は、焦っていた。
営業職として、これまで契約数は常にトップ。
周囲からの期待も大きく、来年の昇進は確実だと言われていた。
――それなのに。
最近は、一件の契約も取れていない。
結婚してからだった。
歯車が狂い始めたのは。
最初は理由が分からなかった。
だが、ここ最近になって、ようやく思い至った。
真琴が、いないからだ。
契約を取るまでの下準備。
相手企業の調査、業界の動向、商品特性、売上規模。
それらを踏まえた提案内容の組み立て。
そのほとんどを、真琴が担ってくれていた。
真吾は、ただ前に立ち、話し、契約を結ぶだけだった。
それを自分の実力だと、疑いもしなかった。
今になって分かる。
あれは、真琴がいたから成り立っていたのだと。
どれほど忙しくても、真琴は文句ひとつ言わず、率先して動いてくれていた。
――だが、愛美は違う。
営業成績が落ち始めた頃、一度だけ頼んだことがあった。
少しでいい、手伝ってほしいと。
「もう!真吾さん!私にできるわけないでしょ。受付なんだよ? 同じ部署の人に頼んだら?」
ファッション誌から目も上げず、愛美はそう言った。
仕事が分からないのは仕方ない。
だが、寄り添おうとする気持ちすらそこにはなかった。
真琴といた頃は、こんな生活ではなかった。
部屋はいつも整っていて、食事は薄味でも体を気遣ったものだった。
仕事で困っていれば、言わずとも支えてくれた。
――俺は、何を選んだんだ?
真琴の、真っ直ぐで飾らなくて、あの笑顔が好きで告白したはずなのに。
いつの間にか、それが「当たり前」になっていた。
もし、あの頃に戻れたら――。
真琴と、もう一度……。
一方、橘愛美もまた、真吾との生活に嫌気がさしていた。
もう無理。早く別れたい。
成績は落ちる一方、昇進どころじゃない。
仕事がうまくいかない苛立ちを、家でぶつけてくる。
欲しいものも買ってくれない。
――使えない男。
やっぱり本命は一条さんかしら。
それに、神崎真琴の弱点も、そろそろ掴まないと。
あぁ、忙しい。
「神崎さん、ちょっといい?」
声をかけられ、真琴の身体が一瞬強張った。
相澤真吾。
部署も違う。用事があるはずもない。
「……何でしょうか?」
「前田商事の件で、少し確認したいことがあって」
仕事なら仕方ない。
真琴は部屋を出た。
――なるべく、関わりたくない。
「話って?」
「真琴……俺たち、やり直さないか」
「……は?」
「分かったんだ。真琴が俺のためにどれだけしてくれてたか」
家のことも、仕事のことも。
俺のことが好きだったからだろ、と。
確かに、あの頃はそうだった。
だが、今は違う。
「あなた、結婚してるでしょ。橘さんがいるじゃない」
「ごめん。あの時は間違ってた。今なら分かる。俺には真琴しかいない」
真琴は言葉を失った。
「そんな話、聞くつもりないから」
立ち去ろうとした瞬間、腕を掴まれる。
引き寄せられ、胸にぶつかる。
「離して!」
最悪だ。
振りほどき、距離を取る。
「もう近づかないで。会いたくも話したくもない」
縋るような視線を背に、真琴は歩き出した。
それからだった。
真吾から、執拗にメールと電話が届くようになったのは。
無視しても、止まらない。
次第に恐怖を覚え始めた頃――。
一条雅也から連絡が入った。
仕事終わりに、飲みに行こうという誘い。
彼なら、話を聞いてくれるかもしれない。
真琴は、静かに息をつき、承諾した。
夜。
二人は庶民的な居酒屋にいた。
「イベント成功、おめでとう。乾杯」
グラスを合わせる。
「大企業の社長が、こんな店でいいの?」
「こういうとこが落ち着くんだよ」
変わらない雅也に、真琴は自然と笑みを浮かべた。
――真吾は、変わってしまったんだよね。
イベントのトラブルの話をすると、雅也は静かに聞いていた。
「分かった。こっちで調べてみる」
「ありがとう……」
少しだけ、胸が軽くなった。
だが、確実に何かが動き始めている。
それを、真琴はまだ知らない。




