第1話 瑠璃色の乙女~『真珠の言葉』が咲く頃に~ラッキーチャンスと、乙女の驚き 1
作中で重大要素の『真珠の言葉』、その始まりの物語です。
六月のバラが美しい季節、ある午後の事だった。
いつものように、ガーデニングに精を出していた乙女は、驚いてシャベルを持つ手を止めた。
「まあ!何事かしら?」
家の前を、ジェイムズが、素足で駆けて行ったのだ。
「あんなに慌てて靴下も履かずに、一体、何だっていうの?上だけ、めかし込んで、お医者様を呼びに行ったのかしら?だけど、裸足で?髪も、ぐちゃぐちゃにうねっていた。さっぱり分からない」
どこに向かったのか、見当もつかない。全くお手上げだった。
しかし、常識も何もかなぐり捨てて、家を飛び出したのは明白だ。
「いずれにしても、何かあったんだわ。こうしちゃいられない。ひとっ走りして、クリスに聞いてこなくっちゃ」
乙女の午後は、台無しになってしまった。
百合の球根は、今しがた植え終えたばかりで、向日葵の種は、これからだった。
今年は、五月にひいた風邪が長引いて、植え付けが、すっかり遅くなった。
いつもなら、種もとっくに蒔き終えている。
乙女は、急いで家の中に入って、ガーデニングの作業服を脱ぎ捨てると、紫色のローブを手早く羽織った。
それから肩下のブロンドをツインテールに整えると、柄の丸い杖を掴んで、ロッキングチェアに丸まっていた子豚を呼んだ。
「キティ、出掛けるわよ。クリスを訪ねなくちゃ」
キティという名前は、子豚が、本当は子猫であるという事を忘れない為に付けられた。
乙女が、魔法に失敗して、黒い子猫を黒い子豚に変えてしまったのだ。
それ以来、何度も挑戦しているが、子豚は、子豚のままだった。
「やーれやれ、またか。君に心配されるクリスが気の毒だよ。毎回、早とちりなんだから」
キティは、文句を言いながらも、本物の猫のように、ストンっと床に着地した。
そして、乙女の足元に寄って言った。
「それで?今度は何があったの?向日葵の種は、蒔き終わった?」
「種どころじゃないのよ。ジェイムズが、靴も、靴下も履かずに、走り過ぎたのよ。これは、ただ事ではないわ。クリスに何かあったのよ」
「箒で行くの?」
「いいえ。昨晩、壊したばかりよ。ジェイムズのように走るしかないの。あああ、じれったい!!さあ、行くわよ!!」
一人と一匹は、丸太小屋から飛び出して、深い森に入った。
ジェイムズとクリスは、年若い姉弟だ。
乙女は、森の入り口に住んでいるが、二人は、森の奥で暮らしていた。
二人とも、人づきあいが苦手で、愛想がいい方でもない。
しかし、乙女とクリスは、なぜか馬が合い、長年の付き合いだ。
ジェイムズも、乙女の事は慕っている。
二人は、乙女が魔法使いだと知っているが、怖がったりしない。
子豚が、本当は子猫でも、バカにして笑わなかった。
クリスの瞳は、乙女と同じ瑠璃色だが、他は、何もかも正反対だ。
背は低くぽっちゃりして、黒髪を、ひっつめている。
赤い屋根の家は、レンガ造りで、二人の亡くなった父親が建てたものだ。
乙女は、勝手口に立つと、勢いよくベルを鳴らした。
そして、家の主が出迎える前に戸を開けて、キティと中に入った。
クリスは、暖炉の前に座って、白い子猫を遊ばせていたが、立ち上がって微笑んだ。
「あら、いらっしゃい」
「ええ、久しぶりね。あなたが、元気で良かったわ。何かあったのかと心配したのよ。だって、ジェイムズが、裸足で駆けて行ったんだもの」
挨拶も、そこそこに、乙女は切り出した。
「お皿だけ出してあるのね?それも、三人分?焼き菓子は用意してあるけど、手作り菓子ではないわね」
乙女は、暖炉から離れたテーブルを見つめて聞いた。
「気心の知れたお客が見えるの?私、お邪魔かしら?」
「特別なお客様ではないから、気にしないで。会いたいなら、ジェイムズが戻って来るまで待てばいいわ。もう一皿、用意しましょうか?」
クリスは、くすりと笑って椅子を勧めたが、乙女は首を横に振った。
「そんな図々しい事は出来ないわ。だけど、そのお客って、誰なの?」
好奇心に駆られて聞くと、クリスの唇が、おかしそうに歪んだ。
「ジェイムズの一目惚れ相手よ。私が、根負けして、『連れていらっしゃい』と許可を出したものだから、すっ飛んで行ったの。外套も羽織らずに」
乙女は、呆気に取られた。
(あのジェイムズが、一目惚れ!?女性恐怖症なのに??)
「一体、何があって、そうなったの?何より、問題は、ジェイムズよ。本気なの?」
仰天しすぎて喋れなかった乙女は、やっと声が出せた。
「本気らしいわよ。だって、一緒に暮らしたいって言うんですもの」
クリスは、落ち着き払っていたが、乙女は、一瞬天を仰いだ。
(隕石でも降って来るんじゃないかしら?結婚なんて一生しないと息巻いていた男が!まさか一目惚れするなんて!一緒に住みたいだなんて!天地が引っ繰り返ったようだわ。でも、こんな重大なことを話してくれなかったなんて、酷いじゃない?)
乙女は、腹を立てて、クリスを咎めた。
「どうして、いの一番に教えてくれなかったの?一言、相談してくれたら、私が断固反対してあげたのに!」
「あら、だって、風邪をひいて寝込んでいたでしょう?」
クリスが肩をすくめて言うと、子猫のシロも、ミャアと小さく鳴いた。
「ジェイムズが言うには、町で出会って、一目惚れしたらしいの。それからというもの、しつこいくらい、私に許可を求め続けたものだから。いい加減うんざりして、ついさっき、『連れていらっしゃい』と言ってしまったの。娘の事は、とりあえず見てから決める事にしたの。虹色のバスに乗って来るらしいから、町のバス停まで、あの恰好で走っていったのよ。町の人たちに噂されるでしょうね。ついに気が狂ったと思われるのがオチよ」
真相を知った乙女は、瑠璃色の瞳を見開いて捲し立てた。
「まあ!どうして、私の回復を待ってくれなかったの!?ちょうど今日、ガーデニングに復帰したのよ。あああ、あなた、何て浅はかな事をしてしまったの!?どんな娘が来るのか分からないのよ!?ジェイムズは、粘り強い性格だもの。家の中に入れたが最後、きっと娘は居座るわ。恐ろしい決断を下してしまったのよ。許可を出すなんて、とんでもなく愚かな選択をしたわね」
悲観的な予想を述べられても、クリスが、気をそがれる事はなかった。
「もう決めてしまったの。それに、何かあったとしても問題ないわ。だって、私には、頼もしい友人がいるんですもの。いざとなったら、ヒキガエルにでもして頂戴」
「まあ!時々ね、あなたの事、魔女より魔女らしいって思うのよ」
乙女は、目を丸くした後で、にんまり笑った。
「いいわ。私のヒキガエルを楽しみに待たせて貰うわね」
「ええ。どうぞ。キティちゃんのお夕食も用意しましょうね」
クリスが、楽しそうに台所へ向かうのを、キティは、抜け目のない金色の瞳でじっと見つめた。