名状しがたき出来事
リリリリリ………
夜の道に、震えるようなムシの声が響いている。
湿った夏の空気の中に、どこか遠くから絶え間なく続くその声がじっとりとまとわりついてくる。
懐中電灯の光が、足元に丸い輪を落とした。草むらの影が風にあおられて、ゆらゆらと揺れる。
その揺れが、まるで何かがひそんでいるかのように見えて、背筋がぞくりとした。
カナカナカナ……
今度は違うムシの声。甲高くて透き通るような音が、空気を裂くようにして響いた。
さっきの低い声と重なりあって、耳の奥にまとわりついてくる。不気味だ。
やっぱり夏の夜の音は、どこか底知れないものがある。
テケリ……リ…… テケリ……リ……
そのときだ。妙な音が耳に入った。
金属を引きずるような、聞いたことのない気味の悪い響き。ムシの声でもなければ、風の音でもない。
思わず懐中電灯の光をくるりと周囲に向ける。でも、なにもない。闇と、草と、木の影だけだ。
「お、おい……えーっと……」
声をかけようとしたが、隣の人物の名前がすぐに出てこなかった。
えーと…… 同じ部活で別のクラスの、あの……誰だっけ。ほら、あいつだ。口数の多い……。
「……立花、おまえ、今なんか聞こえたか?」
ようやく名前を思い出して口にする。立花が、横でニコッと笑みをうかべて首をかしげた。
「え? 何が? ムシの声ばっかりだよ」
こどもっぽい軽い口調。いたずらっぽい調子。この場の不気味さなんて何も感じていないみたいだ。
鈍感は気楽でいいな。
「べ、べつに怖くなんかねえよ、俺は」
口ではそう言ってみるが、汗ばんだ手のひらが懐中電灯を握る力を強くしていた。
手書きの地図を取り出して、懐中電灯で照らす。肝試しのコースをもう一度確認する。道は間違ってない、はずだ。
最初のチェックポイントは墓石の並ぶ区画。そこで数え切れないほどの石塔と、名の消えた墓標の間を抜ける。
次に小さな祠。苔むした屋根の下に、奇妙な渦巻き模様の石板が置いてあった。それを地図に書き写した。
お地蔵さんの前の分かれ道。そこを右へ曲がって、今は雑木林の中に入っている。
時おり頭の上で葉がガサガサと鳴り、闇の中で何かが動いているように感じる。
道の両脇には大きな木の根が張り出して、つまずきそうになる。
根元には、壊れた賽銭箱や、古びた破魔矢が捨てられていた。
肝試し用に誰かが置いたのか、それとも昔のまま放置されたものか……。
どこかで、かすかに水の流れる音がする。近くに小さな沢でもあるのか。
湿った空気と、土と腐葉土の匂いが鼻につく。視界の端で、白っぽいものが動いた気がして、慌てて光を向けるが……やはり何もいない。
「うん。……でも、立花。一人になると危ねぇから、俺のそば離れんなよ」
もう一度念押し。自然と言葉が強くなる。
「えー? ぼくは一人でも平気だけどなぁ?」
肩をすくめて、立花が言う。その飄々とした態度が、どうにもイラつく。ふざけやがって。
俺はお前と違って繊細なんだよ。
「うるせぇ。とにかく離れんな。いいな? 本当に!」
「はいはい。わかったって」
心からわかってるのかどうか怪しい返事。でも、今はそれ以上問いただす気にもならない。
さっさとゴールの神社まで行ってしまいたかった。
懐中電灯の明かりが、不規則な形の影を地面に落とす。
歩くたびに揺れ、ねじれて、まるで別の何かがそこにいるようだ。
……気のせいだ。そうに決まってる。
ぴとっ……
「うわっ!」
「どうしたの?」
「な、なんか……ほっぺたに冷たくて柔らかい……変なのが当たった……!」
「え? でも何もないよ?」
立花が不思議そうに顔を覗き込む。
だが、確かに感じた。ぷるんとして、ぬめっとして……
こんにゃくみたいな、妙な感触。
「えんがちょ、えんがちょだ!」
反射的に手を構える。両手の親指と人差し指で輪を作り、クサリのようにつなげる。
それを立花に突き出した。
「えんがちょって、両手の人差し指をくっつけるんじゃなかったっけ?」
「うるせぇ!! 俺はこうなんだよ!! 早く切れ!!」
立花は苦笑いしながら、右手を手刀の形にして、俺の指の輪をシャキンと切る仕草をした。
俺はそれに合わせて、両手をパッとほどく。
これでオーケー。えんがちょってのは、悪い縁や気を切るためのおまじないだ。
子どもの頃から、困ったときにはこうやって何度も切ってきた。今回も、きっとこれで大丈夫なはずだ。
俺はふぅっと深く息を吐いて、一歩踏み出そうとした。
「あれ? ……立花? どこ行った……?」
隣にいたはずの立花が消えている。声をかけても返事はない。
俺は懐中電灯を周りを照らしてみた。けれども、光の輪の中にも、その外にも、立花の姿はなかった。
かってに一人で先にいったに違いない。
「お、おんどれー……ほんまに裏切りやがったんかい、たちばなぁ!」
つい、妙な関西弁が口をついて出た。怒りと恐怖が入り混じって、声の調子がおかしくなる。
でも、立ち止まっていられない。早く抜けなきゃ。
前方にいくつかの懐中電灯の光が見えた。先に着いた連中だ。
先頭の愛川がこちらを振り向く。
「おそいぞ剣崎。ビビって泣いてたんじゃないか? それとも道に迷ってたか?」
「うるせぇ……途中で立花がいなくなったんだよ。先にゴールしたんだろ?」
俺がそう言うと、愛川の表情が少し曇った。
「……立花? 誰それ? 今回の肝試しは、全員が一人ずつ回ってただろう。誰かと一緒にいたやつなんていないよな」
「……え?」
その瞬間、俺の心に氷のような冷たさが広がった。
――俺は……いつから、立花のことを仲間だと思っていたんだ……?