天上の序言
メフィストフェレスに関しては私の趣味全開です。
黒髪男装無表情少女系悪魔で人類否定主義。
最高じゃないですか?
あと、ファウストとの出会い以降はもう少し柔らかい文体にしたいと考えています。
天上での出来事だから固めに書いたというのもありますし...
天の高みに、三柱の天使が姿を現した。
ラファエル、ガブリエル、ミカエル。彼らはゆったりと、力強い声で謳い始める。
神の使いに過ぎない彼らにとって、神が作り賜うた世界の美しさを賛美することこそ、自らの存在理由であり、祈りそのものだった。
ラファエルは穏やかに響く声で「天体の運行の完全性」を謳い、ガブリエルは澄み渡る声で「地上から仰ぐ星々の移ろいと美しさ」を謳い、ミカエルは信仰のように力強い声で「破壊と新たな創造の秩序」を謳った。
彼らはただただ讃える。
神が創成した、「変わりなく」美しい世界を。
そして、主は静かにその賛美を聞いていた。
その様子は、まるで既に何度も繰り返されてきた音楽のように、馴染み深く、安らかで、そしてどこか――定型的だった。
神は、否定しない。
否定する理由がないほどに、この賛美は正しく、清らかで、整っている。
それでもその沈黙の奥には、ほんの僅かに、言葉にしがたい“余白”があった。
それは、完成されたものだけでは埋まらない静寂。
秩序の中に差し込む、目立たぬ微かな“ほつれ”。
賛美は正しい。しかし――それだけでは、何かが足りない。
天使たちは気づかない。
それが彼らの生きる、“気づかないという正しさ”だからだ。
主は、何も言わなかった。
だが、その沈黙はやがて訪れるであろう“声”のために場所を空けているようだった。
「……また、ご視察ですか。今回も変わりなく地上をご覧になったご様子で。お疲れさまでございます、主よ。」
声は柔らかく、乾いていた。
だがその語尾には、礼儀とも皮肉ともつかぬ揺らぎが含まれていた。
気づけば、主の隣に少女が立っていた。
彼女の姿は、まるで初めからそこに存在していたかのようで、不思議と違和感がない。
だが同時に、この場においてはあまりにも異質だった。
黒髪は肩の下で静かに流れ、目元は涼しく整っている。
顔立ちは幼い。だが、そこに漂う空気は無垢ではなかった。
素肌に直接まとっているのは、薄手で白いリネンのシャツ。
透けるほどに軽く、布地はわずかに身体の線を浮かび上がらせている。
特に胸元は、まだ膨らみきらぬ柔らかな起伏をうっすらと浮かべ、
それが衣服によって隠されるでもなく、見せつけられるでもなく、
ただ“ある”というだけの、奇妙に無防備な存在感を放っていた。
細く華奢な体つきに男物めいたそのシャツが纏われ、微妙なアンバランスさが異質感をさらに際立たせていた。
脚は細く、立ち姿にはどこか品があった。
ただ、その品格は天使たちのそれとは異質だった。
神聖でも堕落でもない。
もっと中途半端で、目を逸らしづらいもの――まるで、この天上においてのみ“よく目立ってしまう”影のような存在だった。
彼女の名は、メフィストフェレス。
呼ばれたわけでもないのに、その場に現れ、名乗るまでもなく、彼女は“そこにいるべきもの”として静かに口を開いた。
「……わたしのことも、覚えていてくださったのですね。召使いのひとりとして、また名を連ねておきます。」
語調は淡々としていた。
礼儀正しいと言えなくもないが、どこか芯を食った響きがあった。
「相変わらず、天使たちは私の存在には無関心のようで。まあ、それも悪くありませんが。」
わずかに目線を滑らせ、けれど誰とも視線を交わさず、彼女は続ける。
「わたしは、愛嬌を振りまくのは得意ではないので。」
声に感情はなかった。
だが、そこには感情の“なさ”そのものを際立たせるような、極めて人間的な間があった。
「して、メフィストフェレスよ。お前はなぜここへ来たのだ?」
主からの問いかけに、嬉々として答えるメフィストフェレス。
「主よ。あなたが、あの“人間”に執着しておられる理由が、わたしにはいまだ理解できません。あれは、愚かで、傲慢で、進化と退化の区別もつかない。理性という名前の毒を与えられて、結局はそれを獣以下の方法で振り回している。――なぜ、あなたほどの存在が、あれを“愛する”ことができるのか。」
言い終えると、メフィストフェレスは口を閉ざした。
返答を期待しているというよりは、理解されないことを前提にした問いだった。
主はしばらく沈黙していた。
その眼差しは変わらず穏やかで、天の彼方を見るように、遠くを見つめている。
やがて、低く、穏やかに口を開いた。
「……ファウストを、知っているか。」
メフィストフェレスはわずかに首を傾けた。
その名に聞き覚えがあったのか、それとも――興味を装ったのか。
「あの学者ですか。」
言葉には、ほんのわずかな皮肉が混じっていた。
「知っています。飽くことなく知を求め、結果、何ひとつ手にできない。あれも、“例の一人”ですか?」
主は小さくうなずいた。
「あれは、わたしの僕だ。」
メフィストフェレスの目が細くなる。
「なるほど。あれが、あなたに仕えているのですね。意外です。」
目元には笑みのようなものが浮かぶ。だが、温度はない。
「自分でも、何を求めているのか分からず、高みを目指しては地を這い、快楽を追っては空を見上げる。あんな不安定な存在が、あなたの下に。」
メフィストフェレスは静かに言い終えた。
声の調子は一定で、嘲るでもなく、感情の揺れを込めるでもない。
ただ、“分からない”という事実だけが、そこにあった。
しばらく、何も言葉は交わされなかった。
主は天使たちの賛美が消えたあとの静寂の中に、そっと息を吐くように口を開いた。
「……あれは、まだ途中にあるだけだ。」
メフィストフェレスがわずかに眉を寄せた。
言葉に続きがあるのか、それとも、それがすべてなのかを測るように。
主は視線を遠くへ向けたまま、淡々と続ける。
「いまは、夢中で彷徨っている。けれど、やがてあれは、自らの奥にある静けさへと辿り着くだろう。その魂にまだ根があるかぎり、導くことはできる。」
「……希望的観測に聞こえますが?」
「そうかもしれない。だが、種を見れば、芽吹きも実りも予測できる。それを待つ者の目には、もう成長の全てが見えているのだ。」
主の声は優しく、揺るがなかった。
まるで“時間”という概念すら、彼にとっては揺るぎのない静止の一部であるかのようだった。
メフィストフェレスは、答えずに目を伏せた。
それは同意ではない。けれど、反論するほどの熱もない。
代わりに、声だけが空気を裂く。
「では、賭けますか?」
その声音に、ほんのわずか、色が乗っていた。
表情は変わらないまま、声だけが熱を帯びる。
その微かな違和が、かえって彼女の興味の深さを物語っていた。
主は即答しなかった。
否定もせず、ただ静かに彼女を見つめる。
その眼差しは、見下ろすでも、見透かすでもなく、まるで相手の選択そのものを尊重しているようだった。
「よいだろう。人が地上にある間は、迷い、揺らぐのが常だ。その不安定さに価値がないとは、わたしは思わない。」
メフィストフェレスは視線を逸らさなかった。
「……本当に、あの人間に可能性があると?」
「あると思っているのではない。あることを、知っている。」
その言葉に、少女の形をした悪魔は小さく息を吐いた。
それが嘲笑か、諦念か、あるいはどこか懐かしさに似たものかは、誰にも分からなかった。
「……なら、やってみせましょう。あなたが“僕”と呼ぶその魂を、わたしの手の届く場所まで引きずり下ろしてみせます。」
言葉に抑揚はなかった。
けれど、ほんの一瞬、視線がわずかに泳いだ気がした。
それは空気の揺れにも似て、何も言わない主に、なにかを探すような仕草だった。
「成功したら、あなたにも分かっていただけるかもしれません。――人間という種が、どれほど不安定で、愚かで、救いがたい存在か。」
その声も変わらず静かだった。
ただ、語尾にわずかに残った音の余韻が、消えずに引っかかっていた。
まるで、言い切ったはずの言葉が、自分の耳にすら馴染みきっていないかのように。
主は何も答えず、ただその言葉の向こう側を見つめていた。
その視線が、どこまで届いていたのか。
それを知る者は、天使たちの中にもいなかった。
沈黙。
それは対話の終わりではなく、天上という舞台に、ゆっくりと幕を引くための余白だった 。
そして次の瞬間には、彼女の姿はもうなかった。
黒い影が立っていた場所には、何も残されていない。
ただ、天の高みに、静寂だけが戻っていた。