あいつのいない世界 ~デリート~
この世にはたくさんの人間がいるのにもかかわらず、その喧騒は一切として届いていない。
薄暗がりの中、ひっそりと・・・けれども威厳を持って佇む館。
来るものを拒むかのような、しかし何もかもを吸い尽くさんばかりの大きな門。
その前に、男は立っていた。
いつ自分がそこに来たのか・・・男にはそれさえも分からない。
彼の頬は痩せこけていたけれど、その瞳はギラギラとまるで野生の猛獣のように鋭く、傷だらけの体は彼がどんな世界で生きてきたかを容易に想像させた。
「・・・・・・」
男は誘われるように門を開く。
不思議だった。
門から館の扉まで、辺りをきょろきょろと見回しながら歩いたけれど、何も見えなかったのだ。
館の敷地外はただ闇で覆われ、日の光さえもどこから差し込んでいるのか皆目見当がつかない。
果たしてここが本当に今までと同じ世界なのか、自分は異世界に迷い込んでしまったのではないか・・・そう思えてしまう。
時間の流れすら、ここにはあるのだろうか?
けれど、それだけ異質な空間であるも男は何故か何の迷いも無く館の扉を叩く。
ギィ・・・
すると見た目の通り、不気味な音を立てて扉がゆっくり開いた。
「ようこそいらっしゃいました。」
出迎えたのは頭から茶色のローブを被り、その顔が全く見えない・・・けれど声からするに老婆であるだろう人物だった。
だが、”ようこそいらっしゃいました”と言った。
男は思う。自分の来ることが分かっていたのか、と。
そう思ったとき、老婆が不気味に笑って言った。
「ひひ、もちろんですとも。」
男は何も口にしてはいなかったのに、まるでその心が読めていたかのように。
愕然とする男。だが老婆はそんな男の様子には全く気にも掛けずに言う。
「さあ、こちらへどうぞ。お嬢様がお待ちです。」
そう言って館の奥へと案内する。
もちろん男は不審に思ったが、どうしてか素直に従ってしまう。
いや、足が勝手に老婆についていく、というべきか。
「こちらの部屋です。ごゆっくり。」
そう言うと、その部屋の扉を開けることさえする事無く、闇の中へと消えていった。
そういえば、この館も不気味だ。
電気のような文明の産物は一切無く、照明は蝋燭のみ。
しかも、その光も何故か遠くまで届いてはおらず、視界はほとんど自分の周囲に限られる。
またこれだけ大きな館でありながら、他に人の気配は無い。
だのに何故か、ここに来て正しかった・・・そう思う自分がそこにいた。
コンコン。
部屋の扉をノックする。
「どうぞ。」
中から若い女性の声がした。その響きはあまりにも場違いで、逆に驚いた。
全てが不気味で、引き返せない闇のような世界での一輪の花・・・そう形容するべき声だった。
男はまるで引き寄せられるかのように扉を開く。
そしてすぐに目に映ったのは見目麗しい女性・・・いや、少女というべきか。
「いらっしゃい、財前 頼晶さん。」
少女は自分の名前を知っていた。
それはとても脅威なことであったけれども、どうしてか当然のことのように思えて。
少女は、腰まで届くかのような長い、そして何もかもを吸い込むような黒い艶やかな髪を持っていた。
その瞳はまるで全てを見通しているかのような、深い黒。
誰かと比べることなど到底不可能な妖艶な美しさを持ち、けれど近寄りがたい圧倒的な存在感。
一体何者――。
「そんなに怯えないで下さいな。」
自分の心境を読み取ったかのような言葉。
「ここへいらっしゃったのは、あなたが必要としていたから。」
意味が分からない。
「元来、この館は人間には見えません・・・いえ、干渉することは不可能なのです。」
少女の言葉は理解に苦しむ。
「けれど、あなたは必要としていた・・・だから、ここへ足を踏み入れることが可能だった。」
少女の言葉は、一体何を意味しているのか?
「・・・あなたの、望みは?」
的を射た台詞。そう、財前には確かに望みがあった。
少女は、その美しい笑顔のまま言葉を紡ぐ。
「ここは、闇の望みのあるものだけが訪れることの出来る館。すなわち、あなたにはそれがあるということ。言って御覧なさい・・・心の奥にある、醜いばかりの闇の願いを。」
財前は愕然とした。
何故なら、少女の言葉は紛れもなく今の彼の心情そのものだったからだ。
「どうしたの?まさか、今更それに怯えているとでも?」
――まさか。
ここまでに至って、怖れることなどあるわけも無い。
だから、財前は言った。
「ある男を、俺の目の前から消し去って欲しい。」
「・・・それは、星崎 唯人さんですか?」
もう驚かない。
彼女があいつを知っていても、今更驚きはしない。
「ああ、そうだ。あいつを、俺の目の前から消し去って欲しい。」
「どうして?」
少女は、分かっているだろうにそう尋ねる。
「あいつさえいなければ、俺は真っ当な人生を歩めたんだ。あいつさえいなければ、俺は普通の幸せを得ることが出来たんだ・・・あいつさえいなければ・・・・・・っ!」
「それはあなたの逆恨みではないの?あなたの努力が足りないからこそ、あなたは惨めな生き方しか出来なかったのではないの?」
確かに、少女の言葉は正しいかもしれない。
けれど、財前はもうそんな優等生的な言葉では引き返せないところまで来ていたのだ。
「あいつさえいなくなれば、俺は・・・っ!」
財前と星崎は幼馴染だった。
だが、その人生はまさに光と影。
星崎が企業の経営に成功すればするほどに、財前は陰口を叩かれ、裏の世界で生きていく以外に生きる術はなく。
星崎は財前を親しく思い、幹部として登用しようとするもそれが財前には惨めに思えて拒否する。
しかし彼にそれほど優れた能力はなく、闇の世界で傷だらけになって生きるしかなかった。
まさに、逆恨み。
自分のことを誰よりも心配し、誰よりも大切に思ってくれた親友に対して自分が抱いた感情は、ただ憎しみのみ。
自分が上手く生きることに失敗したのを彼のせいにして。
自分のことを最も信じてくれた人物を無意味に憎んで。
ただ、彼がいなくなることを望んだ―――
「・・・分かりました、あなたの願いを叶えましょう。ただし、それにはそれなりの報酬を頂きます。その望みと等しい、同じ重さを持つものを。」
等価交換――そう言いたいのだろうか?
「構わないさ。今更、失うものなど無い。なんでも好きに要求するがいいさ。」
すると、少女は微かに笑って言った。
「分かりました。では、あなたの望みを叶えましょう。」
妖艶・・・それ以外に形容しがいの無い笑み。
それを少女は浮かべた。
そして―――右目が、赤く染まった。
まさに、血の色。
不気味・・・いや、それ以上に、背筋がゾッとするほどの・・・それほど畏怖を覚える色だった。
「もう願いは叶いました。報酬も受け取りました。この目の色が変化を見せたのが何よりの証拠。」
それだけ、彼女は言った。
表情を少しも変えずに。
「ホントか?」
分かっていたけれど、そう尋ねざるを得ない。
「ええ。もう星崎 唯人さんはあなたと同じ世界に存在していません。」
何故か否定することなどこれっぽっちもする気の起きない少女の言葉。
だから、財前は言った。
「ありがとう。・・・それで、報酬は何を?」
そう、報酬を受け取ったと言うけれど、それが何なのかは皆目見当もつかない。
「それは、企業秘密です。」
そう言った少女の笑顔は、初めて年相応に見えた。
「そういえば、君の名前は?」
部屋を出て行くときに、財前はそう尋ねた。
「私の、ですか?・・・私の名前は、リリス。」
「リリス・・・なるほど、ぴったりだ。」
妙に納得してしまう少女の名前。
「リリス、また会えるかな?」
財前はそう尋ねた。
しかしリリスは淡々と答える。
「それは無理でしょう。あなたはもう二度とこの館を訪れることは出来ません。」
「そうか・・・残念だ。君ほど美しい女性には会ったことは無いのだけどな。」
すると、リリスは言う。
「お褒めに預かり光栄です。ですが、まだあなたは気付いていないようですけれど、いずれ私を恨むことになるでしょう。」
「?」
財前にリリスの言葉は理解できない。
「まあ構わないさ。では、また会えることを願って。」
そう言った財前。
しかし、リリスは不敵な笑みを浮かべた。
「それは決して出来ないけれど・・・願わくは、あなたの望みが澱み無く叶っていることを。」
ゆっくりと・・・開くときと同様に、ただ古臭い静かな響きと共に扉は閉じられた――
気が付くと、そこはただの路地裏だった。
何の変哲も無い、汚いだけの薄暗い見捨てられた世界。
今までの事がまるで夢であったかのように、辺りは日常だった。
だが、しかし――
それが紛れも無く現実だったことは疑う余地も無い。
これで、あいつのいない世の中で生きていけるのだ・・・
やっと、自分を自分として価値を認められる。
まっとうな世界に、日の光の指す場所で呼吸をすることが可能になるのだ。
かつて無いほどの開放感、高まる高揚感。
それは希望に満ちていた。
―――ところが。
「・・・っ!?」
路地裏から抜け出し、眩いばかりの世界に足を踏み出した財前の視界に飛び込んできたものは。
「そんな・・・・・・星崎?」
そう、星崎 唯人がそこにいた。
「あの女・・・っ!?」
何も変わっていないじゃないか・・・星崎はいつものように笑っている。
何一つ変化の色を見せない姿。
彼は、仕事仲間だろうか、スーツに身を包んだ男と会話をしながら財前の近くへと歩いてくる。
そう、何もかも変わっていない。
騙されたのだ。望みを叶えるなど、はなはだしい。
少女の戯言に付き合わされただけだったのだ。
・・・だが、そこで些細な異変に気付く。
「・・・?」
星崎は自分がそこにいることに全く気付かない。
そんなはずは無い。
目の前に・・・視界の中に確かにいるのに。
会話に夢中になっているのか?
いや、そんなことは無い。
星崎のことは誰よりも良く知っている。
たとえ誰かと会話をしていようとも彼は常に周りを見渡しているのだ。
だのに・・・・・・
「わ、ちょ、ちょっと待て!」
財前がそこにいることなどお構いなしに、星崎は歩みを進める。
まるで、”そこに誰もいない”かのように。
「ぶ、ぶつかる!?」
スッ。
「え?」
すり抜けた。
「え、え?」
そう、まるで幽霊であるかのようにすり抜けたのだ。
「な・・・・・・?」
星崎はそのまま何にも気付かずに去っていってしまった。
「?」
何がどうなっているのか分からない。
その時。
スッ。
「!?」
また違う人が財前の体をすり抜けた。
「な、なんだ?」
スッ、スッ、スッ。
その道を行く人行く人が例外なく自分の体を通り抜けてゆく。
「ちょ、ちょっとあんた・・・」
次にすり抜けた人に声を掛けてその肩を掴もうとした。
ところが。
スッ。
それさえも、やはりすり抜けた。
「おい、どうなって・・・」
それで、ようやく自分こそが異質な存在になっていることに気が付いた。
「冗談だろ・・・?」
しかし、その問いかけに答える者はただの一人としているはずもなく。
「お、おい、誰か・・・」
当然、それに振り向く者さえも。
「誰か、答えてくれぇぇ!」
その叫びは、青い空に無常に響くだけだった。
カチャ。
リリスは、老婆の淹れた紅茶を一口飲んだ。
「お疲れ様でした。」
そう老婆が労う。
「大したことではありません。それにしても、本当に人の心の闇は底の無いほど深いものですね。」
表情一つ変えずに言うリリス。
すると老婆が不気味な笑いと共に言った。
「いひひ、しかしお嬢様も人が悪い。財前 頼昌の願い・・・『星崎 唯人のいない世界に生きたい』、それをあの様な形で叶えるとは・・・」
冷静に答える。
「労力の問題です。どこにいるかも分からない者に手を下すよりも、目の前の者を操作するほうが楽でしょう?」
その表情は少しも変化を見せない。
すると老婆はやはり不気味な笑いを浮かべて言う。
「いひひひひひ・・・それが財前 頼昌の望みとは言いがたいですがね・・・」
「知りません。はっきりと言わない方が悪いのです。」
まだ半分以上も残っている紅茶をそのままに、席を立つリリス。
窓際に置いてあった鉢の元へと近づく。
「また少し成長しましたか?」
まだ双葉が出たばかりの、芽吹いて間もない緑を眺めてそう呟く。
その表情は少しだけ年頃の少女のものであった。
「心配せずとも、人間の心の闇は尽きることを知りません。その花が咲き乱れる日もそう遠くは無いでしょうな。」
リリスは老婆のその言葉に、どこか少しだけ寂しそうな顔をして。
「・・・一体、おまえが咲かせる花は何色なのでしょうね?」
そう、頼り無さ気な双葉に語りかけた。