街、再び
本日、2回目の投稿です!
夜通し道を急ぎ、霧を抜け、ようやく街が見えてきたのは明け方を少し過ぎた頃だった。行きよりも急いだおかげか、予定よりも早く着いた。高い城壁が朝焼けに縁取られ、遠目からは厳粛な砦にも似た姿を見せている。マサールとヴァルターは、足を引きずるようにして歩みを進めた。途中で驢馬も疲労から速度が落ち、あと少しがやけに遠く感じられる。
近づくにつれ、城壁に設置された見張り台の上で兵士らしき人影が慌ただしく動いているのがわかる。どうやら夜通し警戒態勢が敷かれているようだ。門番たちは、ヴァルターたちを見とめて警戒心を強める様子を見せたが、二人が傭兵――依頼を受けて出て行った連中だと理解すると、いくらか警戒を解いた。
「門を開けろ! 傭兵のヴァルターとマサールが戻ったぞ!」
見張り台から声がかかり、門番の隊長らしき男が城壁の上から覗き込むように顔を出す。彼は二人を遠目に確認しながら、部下たちに指示を飛ばした。ガコン、と轟音をたてて門が開き始める。
門をくぐると同時に、苦み走った顔つきの隊長が二人を見据えた。鎧は埃と疲労の色を帯びているが、目だけはらんらんと光っている。彼もまた、魔物や死者の動きが活発化している状況下で一睡もできなかったのだろう。
「領主か、あるいは神父でもいい。とにかく偉い奴に伝えろ。一刻を争う、さっさとしろ!」
ヴァルターがいつも以上に荒い口調で言う。門番の隊長はその勢いにやや気圧されたようだったが、すぐに気を取り直して頷いた。
「わかった。領主様は夜明け前から騎士団や衛兵を集め、いろいろ作戦を練っている最中だ。神父も一緒にいるはずだぞ。……お前ら、よほどのことがあったんだろうな?」
言外に、“あまり良い報せではない”ことを察している様子だ。荒野から戻る傭兵が、疲れ切った顔で「急いで領主に」と言い出す時点で、既に予感はしているのだろう。隊長は部下に合図しながら、二人の先導を引き受けるように歩き出した。
「ふう……」
マサールは重い息を吐き、疲れた驢馬を引きながら門をくぐる。街の内側には夜明け前の冷たい空気が残りつつも、すでに人々が動き出していた。宿屋の前には宿泊客が集まり、何やら荷車に物資を積んでいる。冒険者や行商人風の者たちが出立の準備を進める声がこだましているが、その表情はどこか暗く、不安を拭えないままだ。護衛を募る声が響くが、人が足りないのか悲壮な声があちらこちらから聞こえてくる。
衛兵の案内で領主館へ向かう途中、あちこちの家の窓が新たに打ち付けられているのが目についた。バリケード代わりなのだろうが、中には扉まですっかり塞がれている建物もある。酷い所では明かりひとつなく、住民がいるのかどうかすら分からない。まるで、夜が来ればいつ死者が押し寄せるか分からないと覚悟しているような景色だった。
領主館の門には甲冑を身にまとった衛兵がずらりと並び、大きな盾を構えている。普段は見かけないほどの厳戒態勢だ。門の向こうからは騎士らしき男たちの怒声が聞こえ、どうやら屋敷の中庭で訓練か作戦会議でもしているらしい。
「門の中まで入れ。領主様に直接引き合わせるように言われている」
隊長が声を張り上げると、門衛たちは素早く道を開けてくれた。金属の擦れる音が、不穏な緊張感をさらにかき立てる。二人と驢馬はそのまま領主館の中庭へ踏み込み、玄関前で足を止めた。
「ここからは執事が案内してくれる。俺は戻って警戒を続けるんでな。ひとまず、ご苦労だった」
門番の隊長が短く告げると、すぐに踵を返して駆け足で戻っていく。ふと背後を振り返れば、石畳の広い中庭には臨時招集の兵士たちが列をなして点呼を受けていた。どの顔も生き生きというよりは険しく、皆が口をつぐんでいるのが分かる。
そこへ、執事らしき年配の男性が慌ただしく駆け寄ってきた。白髪をきっちりと撫でつけた姿は朝から整っているが、その表情は紛れもなく焦燥感に満ちている。
「ヴァルター様、マサール様、急ぎ領主様と神父様がお待ちです。会議中にて、なるべく手短に要点をお伝えいただきたく……」
「わかってる。手短に……とはいかねえかもしれねぇが、まあ努力はするさ」
マサールが乾いた笑みを浮かべつつ答える。執事は安堵と不安が入り混じったような表情を見せ、館の奥へ二人を案内する。
磨き抜かれた廊下を通り、大きな扉を開けて案内された先は、いつぞや二人が通された応接室だ。すでにこの街の領主がソファに腰掛けており、膝の上に地図を広げている。その隣には、神父が神妙な面持ちで佇んでいた。神父は先日と違い、深緑の僧衣をまとい、胸元に簡素な銀の首飾りを下げている。小柄な分、余計にその憔悴した様子が目立った。
「来たか。神父から」
領主は労をねぎらうでもなく、恐る恐る問うように二人を見上げる。頬も落ちくぼんでいて、一睡もしていない様子がありありと伝わってきた。
「悪いな、ギリギリになった。廃坑の中まで行って確認してきたが……予想を上回る最悪な状況だった」
ヴァルターが口を開くと、領主の表情が一気に曇る。マサールは軽く咳ばらいをして、簡潔に報告をまとめて話し始めた。
廃坑の奥で黒い液体が湧き出していること。死者や魔物がその液体に侵され、あるいは生み出されていること。既に廃坑内は手に負えないほどの数の死者と、謎の魔物で溢れかえっていたこと。放置すれば近隣の村や街へも侵食し、いずれ大規模なスタンピードが起きる恐れがあること――。
ひととおりの説明が終わると、領主はテーブルに手をついて力なくうなだれた。やはりか、という諦めにも似た沈痛な響きが、その喉から漏れる。
「そこまで酷いとは……。すでに街道沿いの村でも死者の目撃報告が相次ぎ、昨夜は街近くの森にも魔物が現れた。兵たちが何とか追い払ったが被害は出ている。どうやら、廃坑側だけでなく他のルートからも魔物が回り込んできているようで……」
「黒い水が見つかった時点で時間の問題だな。こっちも急がなきゃ、あっという間に包囲されるぞ」
マサールが肩をすくめて言うと、神父が苦渋の表情を浮かべ、静かに言葉を挟んだ。
「この街の堀は聖水で浄化してありますが、浸透してくる瘴気にどこまで耐えられるか……。それと、廃坑の黒い水は地脈そのものを蝕んでいる可能性がある。下手をすれば、単に‘穴を塞ぐ’だけでは済まぬやもしれません」
「厄介だな。魔術師や司祭を大勢呼べば何とかなるのか?」
ヴァルターが真っ直ぐ神父を見据える。だが、神父は視線を落とし、ため息まじりに首を振った。
「大聖堂や本部から大規模な神官団を呼びたいところですが、他の地域でも魔物被害が増えていて、なかなか応じてもらえないのが実情です。この街に所属する聖職者は私を含め数名ほど。大規模な封印や浄化には、どうしても数が足りません」
「この街に砦や騎士団が常駐しているわけでもない。せいぜい傭兵や冒険者をかき集めるくらいか」
領主は苦しげに眼を閉じる。すでに街の財政は火の車だ。度重なる魔物討伐の依頼費や防衛費用で、余剰などとっくに消えかけている。それでも、ここで金を惜しめば街が滅ぶ。市井の人々が死者や魔物の餌食になるのを黙って見ているわけにはいかないのだ。
沈黙の中で、ヴァルターとマサールは互いに目を合わせることなく、ただ領主と神父の言葉を待った。やがて領主は意を決したように顔を上げ、二人を強い眼差しで見つめる。
「事情は分かった。そなたたちには引き続き、あの廃坑の原因究明と封じ込めに向けて力を貸してほしい。報酬は……何とか都合をつける。ここで死ねば全てが無に帰すからな」
「俺らは傭兵だ。契約の範囲ならやってやるが、ただ突っ込むだけでは成果は望めねえぞ。神父が言うように封印か浄化の手段が必要だ。最低限、廃坑の黒い水をどこかに封じる算段を立てるべきだ」
ヴァルターは依頼を断るつもりはなかったが、無策で突撃する気もなかった。マサールもうなずきながら追随する。
「実際、あの奥まで再突入するには数人じゃキツい。死者がわらわら湧いてくるし、謎の液体をまとった魔物がどれだけいるか想像もつかん。最低でも後衛を担当できる魔術師や聖職者がほしいところだが……」
「ならば、私の弟子を二人ほど同行させましょう。多少の浄化術と結界術は扱えます。それと、冒険者ギルドにも話を通し、援護に回れる者を募ってみては」
神父がそう提案すると、領主はすぐに執事へ指示を出した。冒険者ギルドや商人ギルドとも連絡を取り合い、大がかりな討伐隊の編成を呼びかける算段だ。もっとも、ただでさえ他地方の依頼が山積みで、人材は不足気味。どれだけ集まるかは未知数だろう。
「早ければ今夜か、遅くとも明日には一次的な討伐隊を編成して廃坑へ向かわせる。そなたたちは先導役になり、内部の構造や黒い水の存在を説明してくれ。準備はいいか?」
領主の問いかけに、ヴァルターとマサールは互いに顔を見合わせるでもなく、小さくうなずいて応えた。二人とも疲労困憊ではあるが、やるしかないという諦念にも似た覚悟は固まっている。ここまで来て逃げ出しても行き場はないし、放置すればいつか自分の身にも危機が及ぶだけだ。
「わかった。必要な物資や装備を整えるから、手を回してくれ。俺らも死にたくねえんでな」
マサールはそう言ってから、「あと馬か騎獣があると助かるんだが」と付け足す。廃坑の近くまで行くのにも荒野を通らねばならず、魔物の襲撃リスクが高い。できれば足の速い馬がほしいが、数は限られているだろう。
「わかりました、できる限り準備しましょう。そなたたちも、一度宿かどこかで体を休めてはどうです? 朝まで荒野にいたのではないか?」
神父が心配そうに声をかけると、ヴァルターは言葉少なに応える。
「休めるうちに休むさ。しっかり眠って、夜には動けるようにしておく」
領主は地図を机に戻し、神父と執事に目配せしてから二人を見やった。その視線には、もはや威厳や優雅さなどなく、一人の指揮官としての責務と疲労だけがにじんでいる。
「では、夕暮れにまた集まって最終確認を行おう。今はとにかく休め」
それは領主からの精一杯の激励でもあった。傭兵である彼らに多くを望むのは酷だが、もはや頼れるのは経験豊富な戦士か、少数の聖職者くらいしかいない。魔物や死者、まして黒い水の怪異が相手では、そこらの新米冒険者では逆に死者を増やしかねないのだ。
「了解だ」
ヴァルターとマサールは頭を下げると、執事に促されて応接室を後にした。心なしか足取りは重い。激闘と長距離移動の疲れが体中を蝕み、さらに廃坑の光景が頭を離れない。二人の間には沈黙が流れ、灰色の憂鬱だけがもやのように漂っている。
途中、館の廊下で出くわしたのは、商人ギルドの使者らしき男たちだった。彼らもまた血相を変えて駆け込んできたらしく、執事に呼ばれて執務室へ案内されていく。あるいは街の防衛資金や、商隊を護衛する人員を確保するための交渉なのだろう。どちらにせよ、街が一丸となって動くにはもはや時間がない。
館を出ると、外はすっかり朝日が射し始めていた。中庭で訓練する兵士たちの掛け声が響き、厳しい顔つきの騎士らが剣を携えて動き回っている。まるで戦時下の砦か城塞都市のような物々しさだった。
「あー……腹減ったな。とりあえず飯と休息が先だろ、ヴァルター?」
玄関前で小さな伸びをしたマサールが、苦笑交じりに提案する。
「まあ、そうだな。腹くらいは満たしておかねぇと、やってられん」
「そういうとこは同感だぜ」
傭兵暮らしを続ける中で染み付いた感覚がある。戦場へ赴く前にしっかり食い、休む――それだけで生存率は大きく変わるのだ。二人は中庭の脇を通り抜け、まだ営業を始めたばかりの宿屋へ向かった。
街には既に朝の空気が満ち、商人や職人が店を開け始めている。だが、笑い声や活気は乏しく、どの顔も何かを案じているように暗い。子供の姿もわずかに見えるが、大人の後ろに隠れるようにして歩いている。いつ襲撃されてもおかしくない――そんな不安が街全体を覆っていた。
「……こりゃどんよりしてんな。廃坑が片付いたとしても、この空気はしばらく晴れねえだろ」
マサールが呟く。傭兵仲間の中には、この街から早々に逃げ出してしまった者もいるかもしれない。危険な仕事を避け、次の小競り合いが起きている国境地帯へ流れていく――それもまた、傭兵の選択だ。
「少なくとも、俺たちはもう契約しちまった。今さら尻尾巻いて逃げるわけにもいかねえさ」
ヴァルターは通りの先に目をやりながら、低く吐き捨てる。彼の片眼には相変わらず冷たい光が宿っているが、内心は気が逸るのを抑えているのだろう。いつだって、戦場が近付けば彼はその気配を漂わせる。血と硝煙に満たされた場所を思い出すかのように。
ほどなくして、二人が入った宿屋は以前から馴染みの場所だった。このあたりの傭兵の間で御用達の宿屋だ。食事も美味い。
「あんたら、ちょうど良かった!」
宿屋の女将が二人を見つけるなり、いきなりこちらへ駆け寄ってきた。小太りの女将は息を切らしながら、その奥では調理場の火加減を気にする様子もないほど忙しそうだ。昼間の宿泊客に加え、夜通し街に留まった冒険者や商人らが押し寄せているらしい。
「悪いけど、今日は満室だよ。でもあんたたち、街を守ってくれるんだろ? 何とかして裏手の物置を片付けてベッドを置いたんだ。そこに寝るなら使っとくれ。朝食も作り置きならあるけど、簡素なもんだよ」
「助かるよ。そんなこと言って、前来た時だって女将さんの軽食以上に美味いもんなんて、この街にはなかったさ!」
マサールが笑って礼を言い、ヴァルターは黙ったまま奥へ進む。宿屋の一角にはテーブルと椅子が並んでいるが、ほとんど満席だった。すぐ近くでささくれだった言葉を交わす冒険者がいる。聞き耳を立てるつもりはなかったが、「黒い水」「死者」「廃坑」といった単語が自然と耳に飛び込んできた。
「ひどい有様よね。領主がよほどの報酬を提示してるらしいけど、それでも命が惜しいって連中は尻込みしてるわ。外に出るたび死者に襲われるんじゃ、たまったもんじゃない」
「報酬が安いっつったって、街が消耗してるんだ、仕方ねえだろ。選り好みできるやつはさっさと出ていくさ」
そんな会話が飛び交う中、女将が盆を持ってやってきた。硬いパンと豆の煮込みスープ、薄切りのハムが数枚盛られた皿をテーブルに置き、申し訳程度の酒が入った小さな木瓶を一緒に差し出す。悪くないが、決して豪華な朝食ではない。
「酒は今しがたの残りだよ。酔うほどじゃないかもしれないけど、ないよりマシでしょ?」
「助かる」
ヴァルターは大して興味もなさそうに木瓶をひっかけて、一口すすった。渋い味が口に広がるが、今のところそれほど不快でもない。
無言でパンを千切り、スープを口に運ぶ。マサールもそれに倣って黙々と食べ始めた。疲労困憊の体にとっては、暖かい飲み物と固形物だけでも救いになる。しばし二人は誰とも口を利かず、空腹を埋めることに専念した。
「……ヴァルター、お前ベッド使えよ」
食事を終え、裏手の物置に入ってみると、そこには粗末なベッドがひとつだけ置かれていた。他は掃除道具や倉庫の道具が雑多に積まれており、とても二人で横になれるようなスペースはない。マサールはため息をつきつつ、ヴァルターを促した。
「そうさせてもらう」
ヴァルターは遠慮なくベッドに横になり、すぐに寝息を立て始めた。マサールも限界であったのか、小屋の隅で体を丸め、すぐに眠りに落ちたのだ。
数時間後、窓の隙間から射す西日が物置の埃を照らし始める頃、二人は宿の女将の声で叩き起こされた。
「ごめんよ、傭兵さんたち。領主様がまた会議を開くんだとさ。早めに館へ来てほしいって伝言が入ってる」
「……もうそんな時間か」
マサールが体を起こし、伸びをすると背中がパキパキと音を立てた。まだ寝足りないが、やることがある以上、起きなくてはならない。ヴァルターも黙って床に足を下ろし、大きく息を吐くと、テーブルの上に置いてあった装備品を手に取った。
とりあえず顔を洗い、また軽く何かを腹に入れるか、それとも館へ直行するか――そんなことを考えながら宿を出ると、通りはまたしても騒然としていた。薄暗い曇り空のもと、衛兵が人々に呼びかけ、酒場の前やギルドの近辺でも何やら険悪な雰囲気が生まれている。
「大丈夫かね……俺たち、本当に」
「知らん」
ヴァルターの翡翠色の隻眼が冷たく光る。この先どれほどの危険が待ち受けていようと、逃げる道は既に閉ざされている。街もまた、この二人に大きな期待を寄せざるを得ないのだ――死者と魔物、そして黒い水の真相を暴き封じるために。
――かくして、廃坑の調査と封鎖へ向けて、再び物語の歯車は回り始める。スタンピードの影は刻一刻と近付き、街全体を飲み込まんと迫っていた。