廃坑の中に蠢くもの
いろいろと多忙にしている間に1ヶ月がすぎてしまいました
翌朝、東の空が白み始める頃――廃坑脇の粗末な小屋は、ほとんど物音らしい物音もなく静寂に包まれていた。夜半に風が強まり、隙間風が冷たさを増したが、二人の傭兵は何とか体を休めることができた。ランタンの火は既に消えかけており、ほのかな光がかろうじて小屋の内部を照らすだけだ。
ヴァルターがゆるりと瞼を開くと、マサールが先に目を覚ましていた。彼は壁に背を預けたまま、じっと外の様子を窺うようにしている。気配を殺すように息を潜めている姿からは、長年戦場を渡り歩いた者の警戒心がうかがえた。
「どうだ、外は?」
ヴァルターが小声で問いかけると、マサールはわずかに振り向き、苦い顔を見せる。
「特に目立った動きはなし。ただ……夜明け前に、遠くで何かが蠢くような音がした」
マサールは肩をすくめると、手近に置いていた水筒を口元へ運んだ。喉を潤すと、昨夜食べ残した硬いパンを噛み砕きながら言葉を続ける。
「ともかく、夜が明けた。廃坑の中に入るぞ。面倒な連中がゾロゾロ出てくる前にな」
ヴァルターはそう言って、水筒を取り出して一口だけ飲む。水は冷たく、少しばかりすえたような臭いが混じっているが贅沢は言えない。
手早く身支度を整えた二人は、小屋の裏手に繋いでおいた驢馬を確認した。幸いなことに、驢馬はまだ落ち着きを保っている。魔物の気配があまりにも近いと、獣は敏感に騒ぎ出すものだが、今のところはそれほど深刻ではないらしい。
「驢馬はここに置いていくぞ」
「そうだな。荷物もある程度は置いていこう。……悪いな、しばらく待っててくれよ」
マサールが驢馬の鼻先を軽く撫でると、心なしか不安そうに鳴く。その姿に背を向けて、二人は必要最低限の装備だけを肩に掛け、小屋を後にした。
廃坑の入口は、小屋の脇を少し進んだ崖沿いにある。かつては鉱石の採掘で賑わっていたらしく、入り口付近には崩れかけたレールや木製の台車の残骸が無造作に置かれていた。朽ちた看板には「第三坑道」と書かれているが、かろうじえ文字が判別できる程度に風化している。
ヴァルターは看板を見上げ、鼻を鳴らした。湿った土や腐った木材の臭いが鼻を突き、足元には苔や雑草が繁茂している。
ヴァルターは大太刀の柄を確かめるように握り直した。さびれた鉱山跡の暗い口が、まるで二人を呑み込もうと待ち構えているかのように見える。
坑道内は湿気が多く、ところどころ天井から水が滴っていた。視界はぼやりと光る苔と手元を照らすランタンだけだ。
足元にはぬかるんだ土と砕けた岩が散乱し、さらに奥へと続くレールも歪んでいて、歩くたびにギシギシと音を立てる。
壁際に何かの骨が転がっているのが見えた。動物か、あるいは人のものか分からないが、既に白骨化している。
「……もう長いこと放置されたままなんだな」
呟くマサールの声が坑道の壁に反響して、小さな残響となって戻ってくる。嫌な静けさだった。
坑道をしばらく進むと、微かな腐臭が鼻を突くようになってきた。ランタンの灯りの届く範囲は限られているが、視界の端に何か蠢くものが映る。まるで泥のような塊がゆらりと動いた気がして、マサールが警戒を強めた。
「ヴァルター、そっちに何かいるか?」
小声で問うと、ヴァルターは首を横に振る。だが、こちらも耳を澄ませている様子で、視線は闇の奥へと向けられていた。
「いや……だが様子がおかしい」
そう言いながら、二人はさらに奥へ進む。やがて、崩れかけの梁をくぐると、大きく空間が広がった場所に出た。そこは鉱脈を深く掘り下げるために広げた空洞らしく、岩肌がごつごつと露出し、不気味なシルエットを浮かび上がらせている。
その時、マサールが足を止めた。
「待て。あれ、見えるか?」
彼の示す先には、姿勢の悪いまま立ち尽くすように倒れかけた人影――いや、かつて人だった何かがいた。皮膚はところどころ朽ちており、髪も抜け落ちている。あちこちが腐敗しているにもかかわらず、ゆらりと動いていた。
手には錫杖。ボロ切れのような服がわずかに体に引っかかっている。
「死者……いや、リッチか……」
ヴァルターは歯噛みする。死者の類は厄介だ。意志らしい意志はなくとも、気づかれれば執拗に襲い掛かってくる。リッチはその中でも特に手強い。聖者が反転し、命を奪うものとし仮初の命を得たものだ。
やがてリッチはぎこちない動きで首を巡らせ、ランタンの明かりを捉えた。その乾いた眼窩には生気がないが、確実にこちらに反応している。
「来るぞ!」
ヴァルターが叫ぶと同時に、リッチは奇声を漏らしながら、こちらに向かって引きずるように歩き始めた。それは歩くというよりは、両手を突き出しながら地面を引きずるようにして動く、と言ったほうがいいのかもしれない。
マサールは素早く短剣を抜く。ヴァルターもまた、大太刀を構え、いつでも一撃を叩き込めるように身を低くした。
「時間をかけている暇はねぇぞ」
「わかってる」
死者の指先は妙に長く変形しており、鋭い爪が岩肌をかきむしるゴリゴリという音が耳障りに響く。さらには、奥の暗がりからも複数の足音が混ざり始めた。
「くそっ、まだ他にもいるのか……!」
マサールが舌打ちしたとき、リッチが勢いよく腕を振りかざしてきた。マサールはそれをいなすように身をひねり、双剣を勢いよく死者の首元に突き立てる。
「沈んでろ!」
リッチの口から、世界を呪うような怨嗟の声が漏れた。乾いた眼窩が、ぐるりとマサールのほうを見たような気がした。リッチはまだ何かを呟いているが、獣のうなりのようでいて金属が擦れ合うような不快な音にしかきこえず、マサールは思わずリッチを蹴り飛ばした。
急所をついたのか、リッチは立ち上がれないようだった。ガクガクと体をゆらしてじきに沈黙したが、マサールは恐ろしくなってトドメを刺すように脳天に剣を叩きつけた。
だが、まだ終わりではない。奥の方で複数の影が蠢くのが見える。その中には腕や足が異常に肥大化したもの、あるいは全身を泥のような液体で覆われたかのような姿の死者も含まれていた。
「一気に突破するぞ。マサール!」
「了解!」
ヴァルターは大太刀を振り上げると、迫り来る死者をまとめて薙ぎ払う。腐肉を削る感触が不快に腕に伝わるが、そんなことを気にしている余裕はない。マサールも死者と死者の隙間を縫うように駆け抜け、短剣や蹴り技を織り交ぜて敵の動きを止めていく。
やがて、二人は空間の奥へと抜ける狭い通路を見つけた。木製の柱や梁がところどころ折れかけており、危険な雰囲気を醸し出しているが、進むしか道はなさそうだ。
通路をさらに進むと、徐々に空気の質が変わってきた。冷え切った空気の中に、嫌に湿り気を含んだぬるい風が混ざり始めている。耳を澄ますと、どろりとした水音が微かに聞こえた。
「これは……、」
ヴァルターが言葉を呑み込むように呟く。マサールも同じ感触を抱いているらしく、足取りが自然と慎重になっていた。
さらに奥へ進むうち、壁面や床が妙に黒ずんでいる場所が増えてきた。まるでコールタールのような、あるいは油のようなべっとりとした液体がへばりついている。その黒い液体からはかすかな湯気のようなものが立ち上り、時折ぴちゃり、ぴちゃりという水音が聞こえる。
「なんだこれ……?」
マサールは気味悪げに呟き、指先が触れないようにランタンをかざして様子を探る。黒い液体は一定方向に流れ出しているように見え、まるで水脈に沿うかのように地面に広がっていた。 ふと足元を見やれば、小さな生き物――昆虫のようなものや小動物の死骸が、黒い液体に半ば溶け込むようにして転がっている。ところによっては、死者の腕や足の一部までもが溶けかかっているのか、奇妙に融解した状態だ。
嫌な胸騒ぎを覚えながら、二人は進む。その先で、大きく崩れた坑道の壁が見えた。どうやら地殻変動か何らかの衝撃で大穴が開いたらしい。その穴の中から、どぼどぼと真っ黒な液体が湧き出していた。
「地脈が食われている……?」
ヴァルターが信じられないものを見るような目で言う。黒い液体は坑道内を這うように流れ出し、そこから不気味な瘴気のようなものを放っている。辺りの岩肌や廃材にこびりつき、時には死者や魔物にもまとわりついて、それらの動きを活性化させているかのようだった。
「見るからにヤバそうだな」
マサールは短剣を収め、しっかりと鼻と口を布で覆う。それでも、鼻腔を刺す腐敗臭と嫌な酸味が混じった空気が肺を満たしてくる。息をするだけで気力を削がれるような不快感があった。
その時、近くの岩陰から小柄な魔物が姿を現した。全身が黒い液体に覆われ、元の姿形が何だったのかすら判別できないほどぐちゃぐちゃになっている。頭部らしき部分には数本の触手のようなものが生え、口からは粘液を垂らしている。
「うわっ、こいつは初めて見るタイプだ」
マサールが反射的に身構える。その魔物は甲高い鳴き声を上げると、地面を這うように高速で近寄ってきた。人型の死者とは動きの質がまるで違う。滑るように移動し、壁を蹴って跳躍すると、そのまま二人に向かって飛びかかろうとする。
ヴァルターが素早く大太刀を横に払い、勢いのまま魔物を叩き落とす。その一撃は確かに命中したはずだが、黒い液体がクッションのように衝撃を吸収したのか、魔物は完全には崩れなかった。地面に落ちると、ぐちゅりという音を立てて再び形を整え始める。
「引くぞ、マサール! 二人だけでどうにかなる量じゃねえ!」
ヴァルターは黒い液体が湧き出る大穴を最後に一瞥し、その様子を頭の中に刻む。もしこれは局地的な問題で止まるものではなく、このまま外へ広がれば街に大量の死者と魔物が溢れ返る可能性もある。いわゆるスタンピード――大侵攻の兆しだ。
マサールが魔物に注意しながら一歩後退する。ヴァルターも追随し、二人は来た道を辿って戻り始める。黒い液体の生む腐敗臭は離れるにつれて少しずつ薄れていくが、その代わりに死者の影がまた道を塞ぎかけていた。
「急げ、やつらが本格的に追ってくるぞ!」
ヴァルターがそう叫ぶと同時に、マサールは最後の手段として残していた聖水瓶を、死者の群れに向かって投げつける。瓶が割れ、中の液体が飛び散ると、死者たちは一瞬動きを鈍らせた。腐った皮膚が焼けるように煙を上げ、呻き声がこだまする。 その隙に二人は通路へ走り込んだ。
荒い呼吸をこらえながら、マサールとヴァルターは必死に駆ける。ほどなくして、最初に死者と遭遇した広い空間に戻ったが、ここにも死者の残骸や魔物の気配が漂っていた。
死者たちの呻き声や魔物の甲高い鳴き声が背後から追ってくるのが聞こえる。声だけではなく、引きずるような音や、岩肌をひっかく音も響き渡っていた。
足元の瓦礫に何度もつまづきそうになるが、意地で踏ん張る。地下にこもっていた湿り気が徐々に薄れ、鼻を突く腐敗臭も弱くなっていく。やがて、坑道の入り口付近に差し掛かると、外からの光がわずかに差し込んでいるのが見えた。
「……出口だ!」
淡い光が、二人の瞳に飛び込んでくる。眩しさと安堵感が同時に胸に湧き上がり、ようやく地上へ生還できるという希望が見えた。
廃坑から転がりでるように飛び出すと、二人は後ろを振り返りながら足を止めた。奥にはまだ死者や魔物が蠢いているだろう。
一刻も早く街へ戻り、事態を報せなくてはならない。最後に廃坑の暗い口を睨むように見つめ、ヴァルターは吐き捨てる。
「面倒なことになりやがった」
足早に立ち去る二人を見送りながら、廃坑の奥深くではなおも黒い水がどろどろと湧き出していた。それは地底から溢れ出る瘴気そのものであり、死者や魔物を産み出す原動力と化している。いずれ、このまま放置すれば、近隣一帯を飲み込む大侵攻の火種となるだろう。
朝日が昇り始めた荒野の景色の中、二人は無事に小屋へと戻った。驢馬は何も知らずのほほんとしており、いつでも出発できる状態だった。
「……お前が無事で良かったぜ」
マサールが驢馬の背を軽く叩き、手早く荷物をまとめる。一方、ヴァルターは周囲に魔物や死者の気配がないか警戒を続けている。遠くの荒れ地に視線を走らせても、大きな動きは見受けられない。
「すぐに街に戻って、報せなきゃな」
「ああ」
マサールは頷き、改めて廃坑の方向を振り返る。遠目にはただの岩壁が見えるだけだが、その奥には言いようのない闇と黒い水が渦巻いている。死者や魔物を呼び寄せる瘴気は、いずれ大きな惨事をもたらすに違いない。
「長居は無用だ」
ヴァルターの合図で、二人と驢馬は早足に荒野を後にした。傭兵として“依頼を完遂”するためには、まず報告が不可欠だ。手ごわい敵を前に、力不足を感じたからこそ引き返す――それは敗北ではなく、正しい判断の一環である。
二人の脳裏には、廃坑で見た黒い水と、闇の底で蠢く怪物たちの光景が焼き付いている。あれが廃坑の奥だけで収まっているうちはまだいいが、万が一、外へ流れ出すようなことになれば……
「……考えたくねえな」
マサールが唇を噛みしめる。彼にしては珍しく、軽口すら出てこないほどの事態だったのだ。あの湧き出る黒い水を見ただけで、嫌悪感と不吉な想像が次々と湧いてくる。
ヴァルターは口を噤む。想像だけでもうんざりする。
黒い水がもたらす脅威が、スタンピードへと繋がっていく可能性は非常に高い。まさに時限爆弾のように、闇は静かに拡大しつつある。
マサールとヴァルターは、激しい疲労感を抱えながらも、ただひたすらに街を目指し足を進めた。