夜の廃坑
夕焼けもとっくに沈みきった頃、荒野はしんとした闇に沈んだ。
どこを見ても瓦礫と岩、乾いた土が広がるばかりで、風が止むと辺りは妙に寒々しく、ざらざらとした静寂に包まれる。ヴァルターとマサールは幾度か足を止めて方角を確かめながら、ひたすら先へと進んだ。
暗黒の空には星すらほとんど見えず、月も薄雲に隠れているのか、輪郭さえ分からない。足元を照らす灯りすらなく、二人は頼りない手探りで岩陰を回り込み、冷たい地面を踏みしめ続ける。驢馬も不安げに鼻を鳴らすたび、その振動がどこかへ拡散して行くようだった。
「結局、日没までに廃坑には着けなかったな」
マサールが低く唸るように言う。疲労だけでなく、先ほどの魔物との戦闘で体中が怠い。腹も減っているが、こんな真っ暗闇の中でじっくり休むわけにもいかない。
「下手に野宿するより、廃坑の入口まで行ったほうがマシだ。どうせ夜を越すなら、少しでも背中を預けられる壁があるほうがいい」
ヴァルターが視線を上げ、目印になりそうな地形を探す。古い地図によれば、廃坑には資材倉庫か作業小屋があるはずだ。そこを一晩の宿にするしかないだろう。
やがて、隙間風が鳴くような音を頼りに、傾いた柵と何かの看板のようなものが見えてきた。マサールが駆け寄ってみると、板切れにはすすけた文字がいくつか残っているが、ほとんど読めない。
「どうやらここが廃坑の入口みたいだな……」
「資材小屋か休憩所が残ってるかもしれねぇ。探すぞ」
柵を迂回するように歩くと、奥に廃れた小屋の影が浮かび上がった。木の扉は虫食いの穴や割れた板が目立ち、屋根は半ば崩れかけている。けれど、砂や風雪が凌げるだけでも御の字だ。
「おい、まずは中を確かめよう。魔物の寝床になってたら笑い事じゃ済まねぇ」
マサールが双剣を構え、そろそろと扉の残骸に手をかける。キィと嫌な音を立てながら、扉がわずかに開いた。中から鼻を突くような埃の臭いが漂い、湿った暗闇にむせ返りそうになる。
ヴァルターは大太刀の柄に手をかけたまま、低く身構えて小屋の内部へ足を踏み入れる。床の板は軋み、ところどころに穴が開いていたが、今のところ魔物が潜んでいる気配はない。
薄暗い中を一巡り確認すると、使い古された道具らしき残骸が転がっているだけで、生き物の気配はなかった。
「ここなら、なんとか夜を明かせそうだな」
マサールが安堵の息をつく。驢馬も戸口で立ちすくんでいるので、小屋の隅へ繋いでやることにした。屋根に穴があるとはいえ、外よりはマシだろう。
「俺は小屋の外をちょっと見てくる。魔物の足跡がないか確かめたい」
ヴァルターが大太刀を提げ直し、暗がりに溶け込みそうな気配で出て行く。
マサールは荷物を壁際に下ろし、急いでランタンを取り出した。埃まみれの床を少し掃き、寝床になりそうなスペースを確保する。
しばらくしてヴァルターが戻ってくると、二人は手短に状況を報告し合った。外には魔物らしき足跡は見当たらないが、この時間帯で油断はできない。念のため扉に木の破片をあてがい、入り口を少しでも塞げるようにした。
「ここで夜を明かすのは賢い選択かもな。焚き火を外でやるより、隙間風だけに気をつければ少しは安全だろう」
マサールが息を吐き、ようやく肩の力を抜く。疲労で足が棒のようになっており、もう限界に近い。
「任務は明日だ。夜中に廃坑へ入ってもいいことはねぇ」
ヴァルターは素っ気なく言い捨て、壁にもたれるようにして腰を下ろす。
薄闇の中で、工具や木箱の残骸が静かに浮かび上がる。壁の隙間から冷たい風が吹き込むたび、ランタンの炎が頼りなく震えた。
「とにかく、命拾いしたぜ。魔物や死者に外でやられちまうより、ここに隠れられるだけマシだ」
マサールが硬いパンと干し肉を取り出し、ささやかながら夜の糧に手をつける。驢馬にも少し水を与え、宥めるように背を撫でた。
「……寝る順はどうする?」
ランタンを見つめながらヴァルターが低く問いかける。
「俺が先に。今起きてても役にたたねぇわ」
「二時間経ったら起こすぞ」
「わかった」
互いに納得し、マサールはランタンの灯をぎりぎりまで絞り、毛布を被って壁を背に丸くなる。ヴァルターは大太刀を脇に置き、いつでも動けるよう軽く瞼だけ伏せた。
夜気は厚く、外で吹く風の音がときおり板壁を揺らす。埃っぽい匂いと、微かな土の湿りが鼻を突くが、暗闇の荒野をさまようよりは遥かに安全だ。
こうして廃坑の小屋は、かりそめの宿となった。どこかで蠢く死者や魔物の気配を感じながらも、しばしの安息を求める傭兵たち。
ランタンの揺れる小さな炎にかき消されながら、静かに浮かんでは消えていた。