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忍び寄るもの

あけましておめでとうございます!



 地面の割れ目や転がる岩が増えてきたあたりで、霧が不気味なほど薄れていった。ベタつくような湿気はそのままだが、視界だけはわずかに開けている。


「ずいぶん歩いてきたつもりだが、まだかねぇ?」


 マサールが愚痴のようにつぶやく。彼は御者台から降りて驢馬を引き、慎重に足元を探りながら前へ進んでいた。


「夕暮れまでに廃坑へ着けりゃいいがな」


 ヴァルターは低い声で返し、相変わらず腰に回した大太刀の柄に手をかけたまま、周囲の異変を察知しようとしている。


 霧が晴れたとはいえ、夕日は雲に隠れがちで、昼夜の境があやふやだ。ときおり遠くで何かが吠えるような声が聞こえるが、正体までは分からない。


「……マサール、止まれ」

「どうした?」

「足跡がある」


 彼が示した地面には、地面を抉ったような足跡がついていた。人の靴とは明らかに違う、大きな鉤爪の獣だ。


「……嫌な予感がするな」


 マサールは焦りを飲み込むようにして、声を潜めながら足跡を見つめる。


「もうすぐ夜だ。妙な魔物が出てこなきゃいいんだが」


 二人は再び歩を進めるが、いつの間にかあたりの空気が妙に重たく感じられた。背中の産毛が逆立つようなピリピリとした感覚が肌を刺す。

ひゅう、と木枯らしのような音を立てて風が一瞬止み、沈黙が訪れた。


「……来るぞ」


 ヴァルターが呟いたその瞬間。

 荒れた地面の陰――崩れかけの岩塊の裏から、何かが低く唸る声が聞こえた。


 大太刀を抜き放つと同時に、黒っぽい塊が岩影から飛び出す。牙を剝き、四つ足で地を蹴る魔物。虎にも似たしなやかな体躯に、背中からは骨のようなトゲが生えていた。


「うわっ、デカい……!」


 マサールが驢馬の手綱を放し、双剣を構える。驢馬は驚いて後ずさるが、この道で逃げ場は少ない。


 魔物は低い姿勢で地面を疾走しながら、一気にヴァルターへ襲いかかった。喉の奥から絞り出すような咆哮が荒野に響き、腐ったような臭気が鼻を突く。


「こいつ……普通じゃねぇな」


 ヴァルターが大太刀を構えるが、相手も狡猾だ。胴体をひねりながら、鋭い爪でヴァルターの側面を狙ってくる。


「ヴァルター、避けろ!」


 魔物の一撃は紙一重でヴァルターの大太刀を弾き、砂煙を上げる。すさまじい衝撃に地面がわずかに震えた。


 魔物は容赦なく追撃に転じる。獰猛な目がヴァルターの首筋を見据え、広げた顎が今にも噛みつかんと迫ってくる――。


 ニヤリ、とヴァルターが笑った。


 姿が、すうっと闇に溶け込むように消える。


「え……?」


 マサールが息を呑む。夕暮れの暗さと、岩肌の黒い影。その狭間にヴァルターの巨躯がまるで一瞬で吸い込まれたように見えたのだ。


 魔物は攻撃の矛先を失い、わずかに視線を泳がせる。そこを見逃すはずもなく、今度はまるで背後から突き上げるようにヴァルターが姿を現す。

 いつ出てきたのか分からない――そのまま大太刀で魔物の側腹を袈裟懸けに斬りつけた。


 ごりっ、という骨が砕ける鈍い音が響き、魔物が苦悶の声をあげてのたうつ。トゲの並んだ背中を地面に打ち付けるように転げ回るが、ヴァルターは一撃の間合いを維持したまま、一気に首筋へ狙いを定めた。


「グルァアッ!」


 殺気を振りまく魔物の咆哮。だが、ヴァルターの動きは鋭く、一瞬の躊躇もない。


 魔物の首が、骨と筋を断ち切られて転がる。熱と血の臭いが混ざり合い、まるで空気が震えるような静寂が訪れた。

 やがて、巨大な体躯は糸の切れた人形のように力を失い、びくりと痙攣して動かなくなる。


「……あんた、まだ手の内を隠してたな?!」


 マサールが二、三度瞬きをしながら、思わず問いかけた。


 ヴァルターは答えず、大太刀を乱暴に振って血糊を払い落とす。


「おい、ボーッとするんじゃねぇ。もう一匹いたらどうする」


 ヴァルターが口を開き、低く唸るような声で叱咤する。マサールはハッとして、慌てて周囲を見渡した。幸い、他に気配はなさそうだ。


「……ああ、すまん。にしても、助かったぜ」

「無駄話は後だ。さっさとこいつを処理するぞ」


 その言葉に、マサールは鼻を鳴らす。「お前も手伝え」と言いたいところだが、ヴァルターが尋常ではない力を振るったのを目の当たりにして、何も言えなくなっていた。


 魔物の死骸を道の脇にずらし、穴を掘った。流れ出た大量の血は土で隠して臭い消しを振る。できるだけ早く処理して先へ進まなければ、他の魔物や死者を呼び寄せることになる。


 やがて、二人はまた歩き始める。風が吹き、斜陽をどんよりとした赤黒い光に変えながら、長い影を引き伸ばしていた。

 ヴァルターは普段通り無口で、マサールも一言も口にしない。血や腸の匂いを振りほどくように黙々と歩ながらも、ヴァルターの背中から漂う危うさを感じていた。


 だが、今は問い詰める余裕も理由もない。廃坑までの道のりは、まだまだ遠い。

 二人は沈黙のまま、死の匂いがこびりついた荒れ地をひたすら歩き続けた。

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