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ますますやりたくねぇ仕事

まにあっ……た!

 


 街を出てから、霧が立ち込めた街道に驢馬の足音だけが響いていた。朝焼けが薄ぼんやりと霧を染めているが、先行きの不透明さをさらに際立たせるようだった。ヴァルターは黙々と先頭を歩き、マサールは御者台で手綱を握りながら周囲に目を光らせている。


「なぁ、ヴァルター」


 マサールが霧の中を見つめながら口を開いた。


「廃坑ってのは、そんなにヤバい場所なのか? お前も少し緊張してるように見えるぜ」


 ヴァルターは振り返らずに答えた。


「知らねぇ。だが、地脈が乱れてるってのは厄介だ。死者や魔物だけじゃなく、もっとおかしなモンが出てきても不思議じゃねぇ」


 その言葉に、マサールは眉をひそめた。


「おかしなモン、ねぇ……あんたでも勝てないような?」


「勝てるかどうかじゃねぇ。問題は、どれだけ面倒な目に遭うかだ」


 ヴァルターは心底、面倒臭そうな声をしてマサールに答えた。


「あんたがそう言うなら、そうなんだろうな」


 マサールは苦笑しながら手綱を軽く引いて、ヴァルターの後ろにぴったりと続いた。


 昼過ぎ、街道沿いの枯れ木が並ぶ場所に差し掛かった頃、周囲の空気が変わった。霧が急に重く感じ、音が遠のいていくような感覚が二人を包み込む。


「止まれ」


 ヴァルターが低い声で命じる。


 驢馬も急に耳を伏せ、後ずさりするようにして止まった。ヴァルターは手をかざして周囲を探る。風もなく、ただ湿った冷気だけが肌にまとわりついてくる。


「何かいるか?」


 マサールが短剣を手にしながら問いかけた。


「多分な。だが、姿を見せないってことは、狙いを定めてるってことだ」


 ヴァルターの声は、いつも以上に静かだった。


「静かすぎるな」


 マサールが、霧の中へ向ける視線を細めた。いつもなら遠くの鳥の囀りや、風が葉を撫でる微かな音が聞こえても良いはずなのに、今は自分たちの呼吸音さえ重く沈んでいるように感じる。


「お前は荷車から降りるな。驢馬と一緒に少し下がれ」


 ヴァルターは背を向けたまま、マサールにそう言い残すと、まるで周囲の空気に溶け込むような静かな動作で大太刀に手を掛けた。その仕草が、マサールには異様なほどゆっくりに見えた。


「わかったよ」


 マサールはそっと手綱を引く。驢馬は短く鼻を鳴らし、嫌々ながらも数歩後退する。その動きが僅かに霧を揺らし、湿った冷気がマサールの頬にまとわりついた。


 ヴァルターは前方から片時も目を離さない。視界は悪い。だが、戦場に生きた彼の目は、生者死者問わず獲物を狙う殺気を感じ取ることに長けていた。

 霧の向こう――わずかに濃淡が揺れる。その瞬間、ヴァルターの瞳がわずかに細められた。


「……そこか」


 返事をする者はいない。だが、次の刹那、霧の帳を斜めに裂くように黒い影が跳んだ。それは人型をしていた。いや、人の形を保とうとしているような、歪な存在だった。乾いた枝のような四肢、蝋細工が溶けたような顔面の中央に、赤く瞬く虚ろな眼窩。まるで先刻死者として現れたものたちをさらに歪めた、実験作のような風貌だった。


 ヴァルターは声も上げずに大太刀を抜く。一閃。

 血も声もない。ただ、刃が霧を切り裂く音と、不気味な存在の腕が宙を舞う様がマサールの目に飛び込んできた。だが、倒れない。一本失った腕を気にも留めず、影は不自然に跳ね回り、ヴァルターの背後を取ろうと蠢く。


「な、なんだ、あれ……!」


 マサールは驢馬を繋ぎ直し、短剣を握り直した。荷車から離れるなとは言われたが、ただ見ているだけで良いとは言われていない。

 震える手を抑え、マサールは霧中に目を凝らす。そいつは死者なのか? それとも魔物なのか? どちらにせよ、放っておけばヴァルターが危ない。


「落ち着け、マサール……ここで動いてヴァルターの邪魔になるのが一番まずい」


 自らを戒めるように胸中で繰り返し、マサールは一度深呼吸をする。ヴァルターがあの化け物を捌く隙を作ること、それが今の自分の役目かもしれない。


 ヴァルターは霧に霞む視界の中、足音さえ感じ取りにくい状況で、相手の動きを読むことに全神経を傾けていた。相手は狡猾だった。斬り落とした腕からは体液どころか魔力の澱んだ気配すら感じない。ただ、邪悪な意志が形を成した「何か」。

 死者は基本的に倒せば動かなくなる。だが、コイツは違う。魔力の塊を切り崩しているだけのようで、本体がどこにあるのか掴みにくい。


「めんどくせぇな」


 ヴァルターは鼻を鳴らし、後ろ向きに一歩、じりりと足をずらした。相手の反応を探るように。すると闇色の影がひゅっと低く身構え、奇妙に首を曲げた。その一瞬、ふとヴァルターは背後にいるマサールの鼓動を感じ取る。これは賭けだが、やるしかない。


「マサール、荷車脇の火打ち石と油袋! 霧に散布しろ!」


 低く通る声で指示する。いきなりの指示にマサールは面食らったが、すぐに意味を察した。

 油を袋をつまんで霧状に撒けば、空気と混ざり合い、火打ち石で火を起こした時に一時的な光の壁や閃光代わりになる。

 要するに、目くらましだ。


「了解! やるぜ!」


 マサールは荷物箱を漁り、油袋を取り出す。道具に使う粗悪な油だが、火はよくつく。火打ち石を握りしめ、短剣を置いて両手を空けた。


 ヴァルターはその間にも、黒い影の攻撃を紙一重で避けていた。影の攻撃は不規則で、読みづらいが、一度目を凝らせばなんとか反応はできる。しかし時間はかけられない。奴は徐々に間合いを詰め、ヴァルターの防御を崩そうとしている。


 マサールは、油袋に息を吹き込んでから握りしめ、少しずつ散布していく。口をすぼめた袋は霧吹きのように霧状の油を吹き出す仕組みだ。

 隙を見て、マサールは手元で火打ち石を構える。


「ヴァルター、行くぞ!」


 マサールの叫びに合わせ、ヴァルターはあえて踏み込み、影の懐へと入った。その瞬間、再度影が襲い掛かり、ヴァルターの前髪を掠める。紙一重で避けながら、ヴァルターは構えた大太刀を下から上へ、強引に振り上げた。


 目論み通り、相手は攻撃に集中しすぎて後退が遅れた。大太刀の先端が影の下顎を削り取るように切り裂く。


「今だ!」


 マサールは火打ち石を叩き、散布した油霧を一瞬の火花で点火させる。バチッという短い音とともに、霧を透かすような橙色の光が小さく弾け、燃え上がる。大爆発ではなく、まるで薄暗い部屋の中で燐寸を擦ったときのような、一瞬の閃光だった。しかし、光と熱気は霧に混ざり、一定の範囲内で揺らめく濃淡を生む。


 影はその小さな閃光に反応するかのように動きを鈍らせた。

 足をもつれさせ、虚空を掴むように腕を振る。


「もらった」


 ヴァルターは一息で間合いを詰め、上段から一撃、今度は真っ二つに断ち割る。ギシリ、と軋むような音を立て、影はその場で崩れた。


「倒せたか?」


 マサールが声をかける。火花が落ち着いても、相変わらず霧は立ち込めている。だが、さっきまで漂っていた重苦しい殺気は薄れていた。


 ヴァルターは無言で影が崩れた跡を確認する。そこには、ひび割れた仮面のような物が残っていた。まるで、人の顔を真似て作った粗雑な彫り物――否、人間を素材に魔術で捻じ曲げたような代物だった。中には腐りかけの肉片が黒く凝固し、赤い石の欠片が埋まっている。魔力結晶かもしれない。


「これは……」


 ヴァルターは顔をしかめる。普通の死者ではない。人為的に弄られた存在、あるいは魔物と人が混ざったような、タチの悪い「作品」かもしれなかった。


「ヴァルター、お前が言ってた『面倒なモン』って、やっぱこういうことか?」


 マサールは湿った岩の上に腰掛け、息を整えながら尋ねる。


「だろうな。地脈が乱れれば、自然と死者や魔物だけじゃなく、こういう奇怪な存在も生まれる可能性があるってことだ。それを利用する奴がいるなら尚更な」


 ヴァルターは大太刀を振って血と腐汁を払い、荒く拭って鞘に収めた。その声音は思った以上に疲れていた。


「おいおい、ますますやりたくねぇな、この仕事」


 マサールは自嘲気味に笑い、手の震えを誤魔化すように指を鳴らした。油臭さと、焼けた霧の匂いがまだ鼻につく。


「だが、戻るわけにもいかねぇ」


 ヴァルターはくぐもった声で言い、足先で仮面の破片を転がした。

 破片はあっけなく砕け、内部にあった赤い石は干からびた血の塊のように崩れ去った。


 霧は相変わらず濃いが、先へ進むしかない。

 二人は驢馬を宥め、再び街道を進む。

 この先、廃坑に近づけば近づくほど、似たような存在が待ち受けているかもしれない。

 それでも、報酬と己の行く当てを求めて、ヴァルターとマサールは足を止めなかった。


 霧の向こうには、より深い暗闇が控えている――そんな予感が、二人の背中を冷たく撫でていた。



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