プロローグ ―江戸崎無動院通夜物語―
書きたいと思いながら構想だけ膨らませたまま結局5年も過ぎてしまったので、投稿し始めました。
初投稿なので、至らぬ点などあると思いますが、ご指摘いただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。
「『安穏』とは『安逸をむさぼり怠惰にふける心情』ではない。(中略)『泰平と安穏』という願いは、たんに戦乱をまぬがれることよりもはるかに広くまた根源的な、しかも現実的な願望のこめられた言葉であり、戦争がないというだけでなく、生きていくことの豊かさをも含む、もっと幅広い奥深い意味をもっていた。」
横田冬彦『天下泰平 日本の歴史16』(講談社学術文庫、2009年、初出2002年)、14頁~15頁より引用。
――元和二年(1616年)8月某日・常陸国信太郡江戸崎
常陸国(現在の茨城県)の南部、霞ケ浦の入り江に面した、この地――江戸崎――には、無動院という天台宗の寺院が存在する。江戸幕府の手厚い庇護を受け、地域でも長年にわたって信仰を集めてきた、この寺院は、交通の便の良さもあり、つねに多くの参拝者を集めていた。
しかし、今日のこの日は、いつものように賑わいを見せる門前も、閑散としている。しかも、門前や境内のあちこちには、いかめしく武装した、近隣の江戸崎奉行所の役人や、近くの諸大名家の武士が立っている。日々を江戸崎の町に過ごす庶民も、かれらの厳しい警戒を前にして、つい殺気立った雰囲気にのまれてしまう。
どうしてこんな状況になっているかというと、それもそのはず、前の征夷大将軍の妻・宝春院と、幕府の厚い信任を得る僧侶・天海の2人が、この無動院を訪れるからである。
2人とも、無動院と江戸崎には縁が深く、元亀・天正の頃から慣れ親しんできていた。政治の動きに左右されがちな身とあっては、なかなか都合もつかなかったが、忙しい生活の合間を縫って、よくこの地に来ていた。今日も、今年の4月に死去した、徳川家康の葬儀に関連する諸々が、ひと段落したことを受けて、やってきたのだった。
榎浦と呼ばれる霞ケ浦の入り江を、多数の警備船を引き連れた大型船が、遡航してくる。かれらの乗った船である。入り江の出口に近い、古戸の町を過ぎ、統天寺という、現在の将軍家・土岐家代々の菩提寺を横目にしながら、ゆっくりと船着き場に近づいてくる。
岸壁には、江戸崎奉行の栗林久長・師山常貞、隣領となる大名家の名代たち・小田友清(土浦藩)と滋野満重(関宿藩)、信太庄惣奉行の庁野康清、江戸崎町名主の鈴木道俊、古戸町名主の仙田新左衛門尉など、実に多くの人びとが、出迎えに備えている。周辺の庶民も、その様子を一目見ようと我先に集い、護衛の武士たちに制止されている。一見すると、張り詰めた空気に支配されているようにも見えるが、そこにあるのは、士庶の別に関係のない、和やかな雰囲気だった。
「やっぱり平和なものですね」
そうつぶやいたのは、前将軍の妻・宝春院である。彼女は、いまだ東国に平和の訪れぬ頃から、この地で過ごしてきた。姉と慕った照明院や、同志と思う勝光院たちと生き抜いた、戦乱の時代。そして自分たちの成し遂げた、天下泰平の時代のことを想うと、自然と目頭が熱くなるのを感じる。
「ええ、これもまた神君のなされた御仁政の賜物でしょう」
天海がそう応じる。彼も、東国や畿内の惨状を、身近に体験してきた人物である。江戸崎に来た、天正のはじめ頃には、既に戦乱も収束しつつあったが、人びとは、絶えず飢餓と戦乱に苦しめられてきた。故郷の会津にせよ、この東国にせよ、あるいは京や西国にせよ、そうしたことと無縁な場所など、日本列島には存在しなかった。
船が岸壁に近づくと、次第に人びとの数も多くなっていく。いつもの門前や江戸崎の町をひっくるめても、果たして、これほど多数の人数が居たのだろうか。あの、自由と暴力にあふれた戦乱の時代に、こんな光景が見られようとは、想像さえもできなかった。
2人は、この「平和」を実現した、――前の将軍にして「神君」たる――土岐晴英のことを想わざるをえなかった。
彼は、大永二年(1522年)、江戸崎を本拠とした、関東管領山内上杉氏の重臣・江戸崎土岐氏(土岐原氏)に、嫡男として生まれた。周辺に並み居る諸勢力と渡り合いながら、わずか一代にして東国を平らげ、西国を平らげ、ついに日本列島を統一したのである。小勢力から身を起こし、主家と同じ関東管領になったかと思えば、位人臣を極め、太政大臣にまで上り詰めた、この男。長年晴英の側にいた2人でさえも、その全貌をつかむことができない。
だが、ひとつ確かなことは、この晴英という1人の人物によって、目の前にある「平和」が訪れた、ということである。戦乱に次ぐ戦乱を経験し、危機に次ぐ危機に直面しながら、日本列島に住む、すべての人びとが待望した「平和」を、出現させてみせた。
ただ、そこには、今なお深刻な影響を残す、直接・間接の犠牲と火種が残されたというのも、確かである。たとえば、半ば引退した身にもかかわらず、直近の日々を、家康追悼の葬儀のために過ごさなくてはならなかったのは、その一例である。また、そうした「犠牲」と「火種」とは、東アジア世界のみならず世界にもばらまかれ、平和な今でさえ、つねに脅威であり続けている。
しかし、そうだとしても、その遺産の上に築かれた江戸幕府、江戸時代というものは、やはり、信じられないほどに、平和だった。思うことはあっても、なかったことにできるものではない。繰り返せば、それまでの自由と暴力にあふれた、戦乱の時代の先に、こうした平和の時代が訪れるなど、夢にも思わなかったし、それは、すべての人びとが待ちわびたものだった。
あまりにも巨大に過ぎて、つかみどころのない土岐晴英という男。そんな彼を理解することは、端から不可能なのかもしれないが、眼前にある「平和」を実現した、という事実が、間違いなく、そのすべてを物語っているのである。
2人を歓迎するこの町の、士庶の歓呼の声は、何よりも、そのことを証明しているようだった。
かれらが追憶の海からあがる頃、船は岸に着く。護衛が人混みをかき分け、出迎えの人びとは、ようやく岸に並ぶ。小舟に乗り換え、慎重に接岸した時には、見物人は遠巻きになり、江戸崎総出の警護が、がっちりと固められていた。
「まったく、大げさなんですから」
「いやいや、宝春院様。さすがに、あの頃と同じとは行きませんよ」
軽口をたたき合いながら、齢80を超えて、いまだに衰えを感じさせない2人は、難なく陸に上がり、江戸崎一番の繁華街・大宿を歩き始める。
寺社の繁栄、店々の繫盛、そしてその背後にそびえる、江戸崎城の威容。今や、京に比肩する都市に成長した、江戸と比べると、見劣りするが、そのいずれもが彼の生涯を体現している。彼なくしてこの町はなく、この町なくして彼はなかった。
宝春院は、小田の地から江戸崎に来るきっかけとなった、川手台(江戸崎北西部の台地)の壮大な茶番劇を、天海は、甲斐の地から江戸崎に来るきっかけとなった、畿内・東国を巻き込む元亀・天正の戦乱を、それぞれ思い出す。
彼の魔力に引き寄せられた2人にとって、江戸崎という彼を生み育てた町は、感慨深いものがあるのである。
東西を通る道を右折し、南北を通る道に入る。大宿から本宿に至れば、すぐに無動院が見えてくる。
「いつ見ても圧倒されますね。天海僧正の居た頃に比べても、なんと荘厳でしょうか」
「まったくもって土岐家累代の御外護のおかげです」
そもそも無動院は、古くからこの地にあって、信仰を集めた寺院である。当然、江戸崎土岐氏とも関係が深く、その庇護が成長と発展に寄与するところが大きかった。彼も代々の当主同様、この寺院を大旦那として支え続け、有形無形の支援をおこなった。
実は、天海の学識を高く買い、住持として招いたのも彼だったし、無動院などの訴えに始まり、長く中央も巻き込んで争われることとなった(常陸国内の天台宗と真言宗の絹衣着用をめぐる)、「絹衣相論」という争いに積極的に介入したのも彼だったが、それは余談だろう。
ともかく幕府も、そうした晴英の姿勢を引き継ぎ、その威容を見事に整えたのである。全国政権の庇護を受けた寺院というものは、やはり、非常に荘厳な様相を呈していた。
その仁王門の前に行くと、無動院の住持である、亮駿と、同じく天台宗の寺院である、会善寺の学頭・広秀がいた。そして、亮駿・広秀の2僧と、護衛に伴われながら、2人は、石段を登っていく。一段一段は一瞬でも、その一歩一歩は、しっかりと踏みしめている。
眼下に望む、江戸崎の町並みは、天下に名高い、「江府」の名に違わぬ繁盛ぶりを示していた。殺気立った雰囲気に満ちていた門前も、いつの間にか警戒が解け、店々が、普段と変わらない人だかりを作っていた。
土岐晴英という1人の男が成し遂げた「平和」を象徴するかのようである。
「守らなくてはなりませんね」
不意に同じ言葉が重なった。
想うところは一致していたのだろう。だが、そこに漂うのはおかしさではなかった。
彼の残した平和を守ること。それは、かれらにとって、必須かつ切実の使命だった。今日、忙しい日々の合間に、わざわざここに来たのも、その祈願をするためであった。
石段の先を登り終えると、そこに広がるのは、無動院の広大な境内である。急造の応接所や宿所が、整備されているのが見える。しかし、移動の疲労を癒す暇もなく、かれらは応接を受け、江戸崎周辺の有力者たちと面会する。齢80を超す2人だが、決して、その疲れを見せないまま、すべての予定を済ませ、目的の祈願に入る。
「宝春院様も、天海僧正様も、やはり通夜などおやめください。お身体に障ります」
「やめるつもりはない、と言っただろう。宝春院様と、この天海、日本の泰平と安穏のため、御祈願申し上げる心はつゆも揺るがない」
「左様。僧正のおっしゃる通り、中止するなど、考えられないことです。それで死ぬなら、それもまた定めです」
奉行たちの制止は、一度や二度ではなかったが、中止の進言を受け容れることは、最後までなかった。結局、かれらは本堂に入った。そして、通夜――夜を徹した祈願――を決行するのである。
土岐晴英と生き、彼の時代に生きた2人にとって、今、目の前にある平和は、かけがえのないものだった。それは2人だけではない。戦乱の時代を生きた、すべての人びとが、その平和を待望したのであり、それを守り続けていくことは、すべての人びとの念願でもあった。
その後、歴史はさまざまな紆余曲折を経ていくが、少なくとも江戸幕府のあった、江戸時代の間、人びとは平和を享受することができた。「平和」の裏側に、さまざまな矛盾があったことは否定できないが、かれらに見られたような、「泰平と安穏」への想いは、以後も受け継がれていき、現実の平和もまた、受け継がれていったのである。
とにかく、元和二年(1616年)8月のある夜は、そうして更けていった。現実として、そこに、戦乱は存在しなかった。太平の時代の通夜は、ただ切実な、読経の物語に彩られたのである。
この小説は、そうした「平和」が実現されるまでの、在り得なかったひとつの可能性の話である。
登場する寺社名、人物名などにモデルは実在しておりますが、現実に存在するものと一切関係はございません。
次話投稿は未定です。今月中にはあげたいと思います。