第三章 21 :クロガツタエタイムネノウチ
夕日が完全に沈んだヴァイガル国では、夜の帳が下り始めており、人が歩く姿もまばらに急いで家に帰る様子が見てとれる。
鷲が旋回してヴァイガル国を見下ろしていたが、空を飛ぶ鷲はタマモで、背に跨っていたのはリンだ。エミグランから魔石を受け取り、タマモにヴァイガル国へ向かう理由を話すとここまで連れてきてくれていた。
「ねえ、リン。」
「はい。なんでしょう?」
「本当にクラヴィは裏切ってないのかな……」
今にも消え入りそうな声でリンに尋ねたが
「それはわかりません。それを確かめるために来たのです。」
と素気なく聞こえる回答を返された。リンらしいといえばらしく、タマモは「そっか。」と返す。
「……クラヴィは裏切ってるかもしれないとは思わなかったの?」
「……私は、クラヴィの口から真実を聞くまでどちらとも言えませんと回答します。」
「そっか……そうだよね……」
「タマモ。中は警戒している様子はないようです。このまま向かいましょう。」
「……うん……」
リンは大鷲になっているタマモの頭を一度撫でた。
「元気出しましょう。全てうまくいきます。」
「うん……うん! そうだよね!」
鼻声になっていたタマモはリンの温かい言葉で胸のつっかえが取れたように元気にリンに答えた。
「じゃあ!いくよ!」
タマモは翼を横に伸ばして、西の城壁近くに空気を割くように降下していった。
タマモとリンが降りたのはミストの前。
周りに誰もいないことを見計らって静かに降り立った。
タマモは姿を元に戻すと、ミスト窓から灯りが漏れていて賑やかな声が聞こえることに気がつき、初めてミストに来たリンに指差して
「あそこがミストだよ!」
タマモの顔は声色とは違い少し淋しそうにみえた。リンはタマモの肩に手を置いて膝をおって目線を合わせると、エミグランがリンに見せてくれたことがある優しい眼差しをタマモに見せた。
「ここからは私がいきます。タマモは早くお屋敷に戻ってください。」
タマモはずっと考えていたことがあった。
「ぼ……僕にも何かできないかな?! リンやみんなの力になりたいんだ!」
タマモは胸の前で拳を握って思い切ってリンに尋ねた。今までのタマモにしたら今までとても言えるセリフではなかった。持っている力は姿を変えることだけ、戦うことなんてできるはずもなく、いざ戦闘になったら一目散に逃げるのがいつものタマモだった。
そんなタマモが何かの役に立ちたいからとリンに話したのは初めてのことでリンも目を丸くさせた。
だが、リンは首を横に振った。途端にタマモは俯いてため息を吐く
「そうだよね……戦うことなんてできないし、足手纏いだよね……」
リンはまた首を横に振る。
「いいえ。それは違います。タマモにはお屋敷に戻ってエミグラン様の側にいるという大切な役目があります。私は私の役目を、タマモはタマモの役目を果たすのです。」
「僕の、役目……」
リンは頷いた。
「人には得意なこと苦手なことがあります。そして、他人にできて自分にできないことを羨ましく思うものです。しかし、他人に憧れるがあまり、自分のできることを疎かにするのは愚かなことだとエミグラン様は私に教えてくれました。」
「自分にしかできないこと……」
リンは深く頷いた。その視線は優しく子供に大切なことを教える母のような慈愛を感じられるような視線だった。
「はい。また私が困った時に助けてください。それに、タマモが守りたいものを守ると決めたのなら、いずれ今日のようなことがあってもタマモはきっと守れるようになる。私はそう予測いたします。」
タマモは自分の居場所である屋敷の庭園めちゃくちゃにされてしまったことに悔しさと何もできない自分に憤っていた。
もしかしたら結界の魔石をちゃんとチェック出来ていなかったのかもしれない、もしそれが原因だったら……とずっと悔しくて仕方がなかった。
もしもリンほどの強さがあれば、少しは役に立てたかもしれないと思うと自分の体躯の貧弱さが恨めしく、思い出して悔しさのあまり涙が出て溢れてきた。
リンはスリットからハンカチを取り出して、タマモの涙を、タマモの中にある悔しさと一緒に拭き取る。
「タマモにはタマモのすべき事。必ず成し遂げてください。私も私のなすべきことを果たしてきますから。」
タマモは、リンの目の奥にある強い信念を感じ取った。
今できる事を全力でやる。
当たり前のように聞こえるが、何よりも大変で目に見えて結果がわかるものは少なく、本当の成果は毎日を積み重ねた後に振り返ってわかることで、未来の自分しか今を本当に全力でできたか、なんてわからない。
それでもタマモは拳を強く握って
「わかったよ!僕のやるべきことをやる!リンも……リンも気をつけてね!」
とリンに宣言するとリンは微笑んだ。
「はい。私は必ず帰りますから、と回答しました。」
「約束だよ!」
「はい。」
タマモは魔石を取り出して握り込むと、姿をまた大鷲に変えて翼を広げて羽ばたき始めた。浮力を得て少しだけ浮くと
「絶対だからね!」
と念押しするタマモにまたやさしく返事を返した。
安心したタマモは空高く舞い上がって行く。リンは暗い空に消えていくタマモが完全に見えなくなるまで見送ると、リンは静かに動き出してミストのドアを開いた。
**************
ドァンク北部の廃村でも松明の明かりでは周りが見えにくなるほどに日が落ちていた。
あと少しで視界が奪われるほどの暗闇になる。
――まずいわね……暗くなったらおしまいだワ……とはいえ――
ローシア達を取り囲むようにエオガーデがいて、足元には無数の鎖が蠢いている。所々にまとまって固まっている鎖はさながら冬眠する蛇の玉のようにも見えるた。
「絡まないのが不思議なんだワ。」
思わずガチガチと音を立てて意識を持ったように蠢く鎖の塊にローシアは率直な感想を述べた。
「レイナ。」
「……はい」
背中からは神妙な面持ちが想像できるほど慎重な返事が聞こえた。五十人にも囲まれたらそうなるのも不思議ではないが、ローシアはドワーフの村を出た時から決意していた。
何があっても黙示録を破壊する。そのための犠牲はやむを得ない。たとえ自分の命が燃え尽きても。
「アタシが囮になるから、ユウトを探して連れて逃げるんだワ。」
「!!」
「アルトゥロを人質にとる。あいつはエオガーデほど動けないから身柄を拘束する事は難しくはないワ。それでエオガーデの動きを止めるんだワ。アタシは逃げられないかもしれない……だから……」
「ダメです!!」
「レイナ!!」
ローシアの声を背中で
レイナが強く反対した。だがローシアは折り込み済みだった。
「お姉様がここに残るのであれば私も……!」
「アタシ達の目的は、黙示録の破壊。そう誓ったはず。そしてどちらかがいなくなっても目的は必ず果たす。忘れたのかしら?」
「……忘れていません。ですが、それなら私が残ります!」
「レイナ……アンタはユウトと共にいるんだワ。」
「嫌です! お姉様を置いていくなんてこと……出来ません!」
ローシアは鼻で笑った。その笑いはレイナにも聞こえた。
「アタシは死ぬ気はないワ。アンタがユウトを救うのよ。それまでのオトリなんだワ。」
レイナはこの状況で囮になるローシアの決意と言葉は反しているとしか思えなかった。
どう足掻いても逃げ切る未来は想像できなかった。五十本の鎖が一人を狙って逃げ切る事はできるはずがない。
だが、姉が嘘を言うとも思えずレイナは返事に窮した。
「考えてる暇なんてないんだワ。あいつらはもう待てないらしいわよっ!!」
ローシアに向かって様子見の分銅が五つ、ローシアに向けて放たれたが、一つずつ丁寧に拳で弾き返した。
「お姉様! 大丈夫ですか?!」
「ええ……でも時間がないんだワ。頼んだわよ!!」
ローシアがレイナの背中から離れて駆け出した。
「お姉様!」
レイナが振り返るとローシアは何十人もいるエオガーデの先にいるアルトゥロに向けて走り出していた。
無数に襲い掛かる分銅を寸前にかわしながらアルトゥロに目標を定めて飛びかかろうとしていた。
――お姉様を信じるしかない……――
レイナは風の球を作り出し、上に軽く投げるように動かすと円を描くように回り出して、レイナから少し離れた地面に同時に着弾し、地面にめり込むように回転し続けるとすぐに竜巻が五本巻き上がった。
竜巻は砂埃を巻き上げて空気を巻き上げながら円を描きレイナの周りに集まり始める。
虚をつかれたエオガーデ達は砂埃が巻き上がりレイナを視界で捉える事ができなくなる前に分銅をレイナに向けて貫くように飛ばした。
が、勢いのついた竜巻はまるで硬い柱のように分銅を弾き飛ばす。
小さい竜巻はマナを練って作った風は、周りの空気を巻き込んで強力なうねりを作り出していた。
――この規模の強さは一瞬だけしか持たない……その前に!!――
竜巻は陽動。狙いはこの風に体を預けることだった。
五本の竜巻が一本になるとレイナは竜巻の中心にいた。
――お願い。私を高く……――
内側から切り裂くような音が取り囲む風の壁に触れると、レイナは渦を巻きながら高くその身が巻き上げられる。
レイナが高く飛び上がると竜巻はその役目を終えたかのように砂埃と共に弾けるように消えた。
建物の三階ほどの高さまで巻き上がったレイナは、刀を抜いて竜巻の作った力を利用しながら空中でアルトゥロをの近くに着地するように体制を整えながら落下する。
ローシアはアルトゥロを視界に捉える。かろうじてエオガーデの攻撃は避けていた。
竜巻でレイナの視界にいたエオガーデ達は牽制できていたが、数十人の視線はローシアに向けられていた。
ローシアの視界には、ローシアの目論見に気がつき逃げようとするアルトゥロしか映っていなかった。このままでは後ろからローシアが襲われてしまうと、レイナは群れてローシアを襲おうとしていたエオガーデとアルトゥロの間に着地した。
手首を返して両手で握り、ローシアを襲わんとしていたエオガーデにかまいたちの如く太刀筋を追わせない速さで斬りつける。
人を斬る事に四の五の言っている間はなかった。ドワーフの村で、ローシアが自分の拳を痛めつけた時聞かれた事が脳裏をよぎる。
『アンタはいつか来るその日に、斬れるの?』
今やらなければ後悔しか残らない。守るために斬るしかないと、レイナはエオガーデの鮮血を浴びながら覚悟を新たにした。
刀は人を斬るための武器だ。
狙い定めて迷いなく間違いなく斬る事でその威力を発揮する。
レイナはその力を初めて実感していた。
――当てて、引く――
一人のエオガーデの右腕に深い斬り傷が生まれ、代償に鮮血が噴き上がると動きが鈍った。
――返して、当てて、引く――
柄で分銅を弾いたが、何十もの分銅が襲い掛かるが、円の動きで分銅の直撃を避けると、一人のエオガーデが剣で襲いかかってきたところを腹部に刀を当てて引いて斬る。
何万、何十万と繰り返してきた刀の技術が、まるでレイナを守るように体に染みついた動きを繰り返していた。
だが、五十人をまともに相手して無事に済むはずはない。一時的に、わずかな時間を稼ぐため、そしてローシアのための牽制だ。
「捕まえたんだワ!!」
魔石で逃げようとしていたアルトゥロが、ローシアによって地面に押さえつけられて、ローシアが馬乗りになっていた。
首元を押さえられていたが、アルトゥロは笑顔のままだった。
「……これは、不覚でしたねぇ。ええ。ええ。」
「動くな! 動いたらこいつの首を潰すワ。一瞬でね!」
エオガーデ達を睨みつけて大声で警告すると、困惑の表情を一同浮かべて動きが止まった。
「フン……一応聞く耳はあるのね。」
「それはもう。人間そのものですからねぇ……今の所の最高傑作ですよ。ええ、ええ。」
余裕綽々に答えるアルトゥロは癪に触る。だがアルトゥロを確保してもなお圧倒的に不利なのはローシア達だ。
「アンタには聞きたい事が山ほどあるワ……けど、何よりもまずユウトよ!どこにいるの!」
首を掴むローシアの手に力が入る。最悪の解答を避けてほしいと言わんばかりに。
「フフン……もう用済みなのですよ。この残骸の地下。そこに一人でいますよ。」
「レイナ!」
言質を得たレイナは、すぐに建物の残骸に地下への階段を探しに駆け出した。
「……生きているんでしょうね?」
「それはどうでしょう? むしろあなた方のほうが詳しいのでは?」
ローシアの手に力が入る。
「殺していたらただじゃおかないワ……」
レイナはローシアへの意識は残しつつ、地下の階段を探すとすぐに見つかった。地下に向かう階段は魔石で照らされて、急いで階段を降りるとすぐ目の前に扉があった。扉には鍵はかかっておらず勢いよく扉を開けた。
「ユウト様!」
テーブルに横にされていたユウトはさらわれる前と変わらず血色の悪い顔をして命が潰えそうな状況に変わりなかった。
呼吸を確認してまだ生きていると安堵し、すぐにユウトの体を抱えて起こして背中に背負った。
階段を急いで駆け上がり息を切らせながらローシアの元に戻る。
ローシアがレイナとユウトが出てくるのを見ると、ようやく口元が綻んだ。そして最後になる願いを吐露する。
「レイナ、あとは頼んだワ。」
ローシアはここで足止めする。だがエオガーデ五人でも苦労していたのに、その十倍がローシア一人でどうにかなるはずはない。
「お姉様! やはり一緒に逃げましょう!」
レイナの悲痛な懇願にアルトゥロがギョロリと目を剥く。まるで最後にしっかりと顔を覚えるように凝視する。
「んふふー! 逃しませんよ? たとえ私の命がどうなってもぉー んふふふ。」
「レイナ!早く!」
叫んだローシアの背後から、分銅付きの鎖が音を立てて頭部を狙った。
「……くそっ!」
アルトゥロを離して飛び避けると、一斉にローシアに鎖が舞い、襲う。
レイナはユウトを背負っているので刀が抜けない。近距離でも自分へのダメージを覚悟して五つ風の球を手に出すと、レイナを狙う分銅に狙い放つ。
吸い込まれるように五つとも直撃するとエオガーデに圧縮が解き放たれた突風が襲った。
衝撃波はエオガーデ達を軽くのけぞらせて自然とできた逃げ道がが三つ。
レイナも影響を受けてふらついたが、出来上がった逃げ道をどれとは選ばず一番近いところへ本能的に走り出す。
「レイナ! 行って!!早く!」
レイナの後を追うエオガーデの群れの前にローシアが立ちはだかる。
「……頼んだワ……」
小さくつぶやく。だが、もう一人に伝えたい事があった。ずっと伝えたかった事をこれが最後の機会だと息を思いっきり吸い込んで、心の中を開放して声にした。
「いつまでも寝てんじゃないわよ!! バカユウト!! レイナを頼んだワ!!!」
**************
優斗は黒の中で自分の存在を失いつつあった。もう自分の手が脚が心臓が動いているのかもわからなかった。
――真っ暗だ……これが死ぬって事なのかな……――
優斗はこれは死ではない。違うものだ本能的にわかっていた。
――いや、違う。僕はまだ生きてる。やらなければならない事があるんだ……――
やらなければならなかった事が思い出せない。思い出せないのかそもそも無いのかもよくわかっていなかったが、ズット心の奥で引っかかっていた。
何かある。自分がやらなければならない事が。
白い点が見えた。いつのまにあったのかもわからないその白は、遠くにあるのか近くにあるのかもわからない。見るものが黒しかない優斗はその白が気になってじっと見るとそれは二つが重なって一つに見えていた事がわかった。
漂っているのか、近づいているのかもわからない白の二点は目の錯覚なのかもわからぬまま、優斗の興味を引いてふわふわと揺れていた。
手を伸ばす感覚も忘れたが、記憶を呼び起こして手を伸ばす感覚をひねりだしても黒は黒のままで白は白のまま。何も変わらないが
――見たことあるような……この白いもの……――
どこか懐かしさの感じる白い光は、優斗に語りかけるように点滅を始めた。
『ねぇあなた。もう名前は決めた?』
『もちろん。男の子なら優斗、女の子なら優菜。優しい子に育ってほしい思いを込めて……どうだ?』
『フフ……とてもいい名前ね。』
『男の子でも、女の子でも誰にでも優しくなれるように……大切な事だろう?』
『ええ。そうね。』
――誰だ……――
『あなた! 見て見て!』
『どうしたんだ。大きな声を出して。』
『ほら、優斗……もう一回、あんよはじょうず、あんよはじょうず……』
『お……おお! 優斗!こっちだこっち……おーよしよし! ついに歩けるようになったか!』
――父さん? 母さん?――
『そうかい。優斗は一学年上のお兄ちゃんに叩かれても我慢したのかい。偉いね。やり返さなかったのは優斗が優しいからだね。よしよし。母さんは嬉しいよ。』
『……その子の名前は知ってるか?優斗。』
『あなた。優斗が我慢したのは私たちに心配させないためよ。子供には子供の社会やルールがあるのだから。』
『しかし……』
『怪我もしていないんだし、優斗の気持ちを尊重しましょう。』
『……そうか……そうだな……いかんな、優斗のことになると頭に血が昇ってしまう。』
――父さん……――
『ユウトもいよいよ高校生か……他人の子の成長はあっという間とはいうが、我が子も同じようなものだな。もう十五年も過ぎたのか。』
『そうね……あ! ほらあなた。これ見て……』
『これは……』
『幼稚園のときに描いた父の日の絵ね。』
『……懐かしいな……もう一枚は……』
『……母の日の絵……ね。』
『目元がおまえそっくりだな。もしかしたら絵の才能があるのかもしれんな。』
『フフフ。』
『どうした?』
『あなたも変わらないわね。』
『何が?』
『そういう親ばかなところが……ね』
――母さん……――
キィ……
キィ…………
あの耳朶に残り続ける音が聞こえてきた。
キィ……
キィ…………
――父さんと母さんがいなくなった日……
違う! もう逃げるなよ! 何度逃げれば気が済むんだよ!!――
キィ……
キィ…………
――この音は僕が最後に聞いた音……音しか聞こえなかったから、もうここから記憶がないんだ……――
優斗の視界が開けると、黒から部屋に戻ってきていた。
部屋の中心に振り返ると
キィ……キィ…………と天井から紐でぶら下げられた自分の姿がそこにあった。
客観的に見るのは初めてで、何か液体がゆかにポタリ、ポタリ落ちているがぶら下がったもう一人の優斗は、もうそのまま動かない。動くはずがなかった。
――もう……死んでたんだね。僕は――
ユウトはぶら下がった優斗の顔に触れた。
――……死ぬ前まで泣くなよな……楽になりたかったんじゃなかったのかよ……父さんと母さんの顔を思い出しても、それでもお前は死を受け入れたんだろう……――
繰り返していた日々。それは優斗の最後の思念が残した映像だった。死ぬ間際の記憶を繰り返していた。
本当は生きたかった。でも心の中で死を受け入れた時、簡単に一線を超えた。
脳は死にたくないと生きたい理由をとんでもない速度で思い出させた。
でも思い出すのはこの部屋でずっと一人で無駄に時間を過ごしていた日々だった。
――最後に父さんと母さんの笑顔が浮かんできた。でも僕は心で押し殺したんだ……絶対に守ってくれるってわかってた……でも僕は……超えちゃったんだ……生死の一線を……自分の意思で……――
これは過ちではなく、自分を守る方法だった。生きなければ痛みも苦しみもない。
痛みから逃れるために麻酔を打つように、その一線は簡単に超えてしまった。
「僕は…………どうして……」
思い出した今、惨めだった。
痛みも苦しみからも解放された。それは間違いなかった。しかし、天井が軋む音が耳朶に残っていて永遠と繰り返された日々は、死後なお最後に見たものと聞いたものが残り続けるユウトだけの世界。それを死後の世界と呼ぶかは定かではないが、確かに止まっていたのだ。ユウトは世界で一人、自分の部屋に生前の思念が彷徨うだけの存在だった。肉体はとうに灰となってなくなり、最後に見た一段高い自分の部屋の光景が焼き付き、まだそこにいるかのようになっている肉体と意識が分離していた。
そして、分離した意識を助けてくれたのは、あの赤い宝石を携えた姫様だった。記憶を辿り自分の意識が部屋の中で静止画のように止まり、軋む音しか聞こえないあの日々から救ってくれたのはあの姫様だった。そして
「……レイナ?……ローシア……」
頭の中の霧が一気に蒸発して綺麗な景色が現れたように、思い出した。
夢ではなく、思念となって残り続けた世界から、レイナ達の世界に飛ばされて肉体を与えられ、初めて自分が求められた世界。全てを知る者としてのユウトを、今はっきりと思い出した。ユウトはレイナ達のいる世界で肉体を持って生きていたことを。
「そうだ……レイナとローシアが……僕は……戻らなきゃ!」
優斗の死後を客観的に見れたのはきっと、今いる世界は本当に自分のいた世界ではなく、ユウトの思念が生み出した最後に見た世界。なら、ここにいる人は全て虚構のものだ。
しかし、ユウトは、死してなお前に進むためにはケジメをつけなければならない。
もし、自分の虚構の世界なら、必ず現れるはずだと思っていた。
すると、部屋の外から足音が二つ聞こえてきた。階段を登ってくる足音。
部屋の前で止まり、ドアノブが回されドアが開かれると、やはり二人がいた。
「父さん……母さん……」
二人は久しぶりとは思えないほどスッキリした顔をしていた。
でもこれは虚構なのだ。作り物の父と母。
「どうした?ユウト。学校遅れるぞ?」
「そうよ? 早く起きてご飯食べましょう?」
死んだはずのユウトにそんなこと言うはずがない。この二人は虚構の二人だ。だが、わかっていても言わなければならない事があった。
願わくば、本当の二人に届いてほしいと願ったが、叶うはずはないと思うと、心が締め付けられるように苦しかった。
それでも、二人に言いたいことを伝える。言葉にできるかどうかなんてわからないし、気持ちを正確に言える自信はなかった。だが必要なのは自信ではなく、伝えるという勇気だ。
にこやかに微笑む二人にユウトは、まずは一歩を踏み出すため言葉を紡ぎ始めた。
「父さん……母さん……伝えたい事があるんだ……」




