第一章 4: 綺麗な鼠
「――失礼。村長であるギムレット様がお待ちだ。」
ドアが開いていたので、失礼と投げかけた言葉をノックがわりに部屋に入ってきたのは、筋肉隆々で背中を反り、胸筋を盛って見せてくる眉間の皺の深そうなドワーフだ。
ベッドに腰掛けていたユウトに向けて放つ言葉は、見た目と同じで力強い。
「――あ……はい。わかりました。」
ユウトが人生で初めて屈強なドワーフを見て驚きもしなかったのは、レイナが去った後に眠ることもできず、起き上がって窓の外を見ると、何人かのドワーフが見えたからだった。
薪を体に見合わないほどの量を肩に担いで涼しい顔で運んでいたり、井戸端会議よろしく肝っ玉母ちゃん然とした女ドワーフが三人くらいで時折破裂するように笑い合って午後のひと時を楽しんでいたり、その周りを鬼ごっこをしているのか駆け回っている子供もいて、一通り見た感想は
ーーここ、ドワーフの村だったんだ――
だった。
だが、そう思っただけで特段驚きもしなかった。いつのまにか頭は異世界に慣れているのかもしれない。ユウトには『そういうもんだろう。』と一言で片づけられる程度の事実だった。
ここがドワーフの村だとすると、この家は人間用に建てられたものらしく、部屋の大きさとドワーフの大きさが釣り合っていない。
ベッドや家具は人間に合わせて作られている。呼びにきたドワーフも身長はユウトの胸の高さほどで、この家の家主だとすると、明らかにサイズ感がおかしい。
ユウトが立ち上がるまで、屈強なドワーフはドアの外でユウトを待っているらしく、睨みつけたまま少しも視線を外そうとはしなかった。
睨みつけられたままだと居心地が悪いのでベッドから起き上がり立ち上がった。
屈強なドワーフとすれ違うようにドアの横の壁にもたれていたのはレイナだった。こちらに気がついて、後ろで手を組んでにこやかにユウトと向き合う。
「もう大丈夫ですか?」
体を少し傾かせて伺ってくる。ユウトの方が少し身長が低いので、傾かせると顔の位置が合う。
やっぱりこの子は陽の人だ。屈託のない笑顔が眩しくて直視できない。
「うん。ごめん。心配かけて。」
「いえいえ。無理言って歩かせちゃいましたしね。」
ごめんと言った理由は他にもあったが、レイナがそれを知る由もなく、曇る心のまま顔を上げる。
「――これから村長さんと話をするんだね? 会って欲しい人は村長さんなんだね?」
森で姉妹が提案した事を鑑みて尋ねるとレイナは小さく頷く。
「村長は優しいお方なので心配する事は何もないですよ。」
と優しく諭す。
「――うん。わかった。」
「よかった……では、参りましょうか。」
レイナが道を開けると、先ほどのドワーフが廊下の曲がり角でこちらを向いて待っているのが見えた。
少し早足でドワーフに近づくと、レイナも同じように小走りでついてくる。
廊下を曲がるとダイニングルームにつながっていて小さな丸いテーブルを囲っている四人いた。
一番奥に座っているドワーフの老人。この人が村長のギムレットだろう。白い髪と長い髭に顔の半分が隠れているが、村長然とした佇まいで小さく頷きながらユウトを見つめている。脇に一人いて、屈強な戦士のような体つきから、ギムレットの護衛だろう。先ほど迎えにきたドワーフが並ぶようにしてギムレットの後ろに立つ。
もう一人はローシアで、さっきのレイナと同じように壁にもたれて二人が来るのを待っていたようだ。
「さっさと座るんだワ。」
ローシアがにべもなくそう言うと、ギムレットの右側に座った。レイナがユウトが座るよう促すようにギムレットの向かい側の席を引いてくれた。
ありがとうと告げて座ると、にこりと微笑んだ後、レイナはユウトの右側の椅子に座った。
村長は目まで隠れた眉を上げて、ユウトを見つめる。
「君が、ユウト殿じゃの?」
「はい。アキツキユウトです。」
「ホッホッ、そうかそうか。なるほどのぉ。」
髭を撫でながら柔らかくそう答えた。表情は眉や髭に隠れて見えない。
村長の両脇では猛々しい筋肉が隠しきれない風貌の護衛がユウトを威圧するような強い眼差しで睨みつける。
彼らからしたら得体の知れない若造に見えるのだろう。
「ときにレイナよ。」
「はい。」
「おぬし、ユウト殿のマナに触れたのじゃろう?」
「はい。獣人に襲われて左腕を痛めておりましたので、その場で治している時に。」
あの時にレイナは何か感じるものがあったのか……と話に聞き入るユウトと、若干置いてけぼりになって不満顔のローシア。話は続く。
「ほぅほぅ。で、どうじゃった?」
「言葉にしにくいのですが、触れてはならないような、とても強い力を感じました……」
「ふむぅ……例えるならどのような力じゃ?」
レイナは例えるのが難しいのか、少し下を向き、顎を指でつまむようにして考えた。
「例えるなら、眠っている獅子のような……」
「ホッホッ。獅子とな?」
例えが気に入ったのか村長は声が上擦った
「はい。起こしてしまうと喰み砕かれるような…そんな強い力でした。」
「なるほどなるほど。それはとても強い力だったのじゃのう。」
「はい。」
「そのような力があるのなら、もしかするやもしれんな。とはいえ挨拶がまだであったな。」
ユウトが置いてけぼりで話が進む。ギムレットは護衛に手を差し出し、護衛の手を借りながら立ち上がる。
「ユウト殿よ、名乗るのが遅れてしまって申し訳ない。この村の村長、ギムレットじゃよ。君と出会えて年甲斐もなく少し興奮してしまったようじゃ。まことにすまぬ。」
立ち上がったのが頭を下げる事が目的だった事に気がついた時にはギムレットが深々と頭を下げるので、恐縮して、やめてください頭をあげてくださいと慌てて促す。
「あ、あ、あ、アキツキユウトですよろしくお願いします。」
挨拶を早口で終わらせてギムレットが頭を上げる。
「さて、何を話そうかと悩ましいが……まずは質問させてもらおうかの。」
ギムレットは護衛の手を借りながら椅子に座ると、優しく髭を猫を可愛がるかのように撫でながら語り出した。
「ユウト殿はどこから来たのか記憶はあるかの?」
「えっと…言葉にするのがとても難しいのですが、この世界とは違う世界から来ました。」
ギムレットの護衛二人が顔を見合わせて不思議そうに首を傾げる。
そりゃそうだろう。ユウト自身も反対の立場なら、すぐにでもこの場を後にしたい不気味さを感じるだろうと思った。
だが、事実なのだ。
ギムレットはここではない世界という言葉を何度か繰り返し口にし、ならば、と切り替えて
「ローシアや、書くもの一式を用意してくれんかの?」
ローシアは、顔いっぱいの仕方なさそうな表情にため息一つをおまけして立ち上がり、近くの棚に置いてあった紙と羽根ペンの一式を、しぶしぶという感情を隠さずにユウトの前のテーブルに置いた。
「アンタ、羽根ペンの使い方くらい、わかるわよね?」
ユウトの羽根ペンの知識はアニメで見たことのある程度のものだが、使い方なんてペン先をインクにつけて使う以外にないだろうと思っていたから
「うん。多分わかるよ。」
と、すこしだけ自信持って返事をすると
「そう。」
と、にべもなく返事をされる。ユウト自身は特段気にしていないのだが、レイナはローシアの態度を心苦しそうに見つめていた。
ギムレットがローシアが席に戻ると、さて、と切り出した。
「まずは、ユウト殿の名前をここに書いてもらえるかの?」
「名前…ですか?」
「そう。君の名前じゃ。アキツキユウトという名前は知っておる。それを文字にして欲しいのじゃ。文字は書けるかな?」
「は…はい。」
ユウトは羽根ペンを取り、便箋らしい紙を一枚テーブルに広げてガラス製のインク入れの中を突っつくようにしてペン先にインクをつけて書き始めた。
『秋月優斗 アキツキユウト』
書く様子を部屋の五人にじっと見つめられて緊張していたが、自分の名前を書くのに戸惑う事はなかった。少し震えてしまって秋の禾部がガタガタになってしまったが。
「書けました。」
書き上がった紙をギムレットに向けて正しい位置になるよう向きを変えて差し出した。
受け取ったギムレットは、紙に書かれた文字を見るなり、ふむぅ…と唸りながら指で文字の下をなぞる。
「この文字は…わしの知識には全く無い文字の類じゃな…異国でも無い、古代の文献にも無かったのう……このような文字は……全く読めん…」
それはそうだろう。もし万が一にでも見たことあるのならここは地球上の何処かになる。ヒールや獣人の存在についてユウト以外が疑問に思わないのなら、ここは地球では無い。
二十一世紀の近代文明が進んだ地球には魔法や獣人、ドワーフも入る余地はない。ましてや獣人やドワーフが存在しているのなら、地球全体、特に異世界物語の創作界隈に激震が走るだろう。
だが、そんなことはあり得ないのだ。
「…じゃが、この文字はなんらかの規則性を感じるのぅ。所作も戸惑いはない……なるほどなるほど…」
ギムレットは目を細めてユウトの名前を何度も愛でるように撫でた。しばらく考え込むように黙り、一つの結論を語り出す。
「レイナがマナに触れて、とてつもない大きな力を感じて、ワシでもわからぬ文字を扱えるとなると…やはり、黙示録に書かれた『世界救済のかの汝』じゃろうな。お前達の見立て通りかもしれんな。」
護衛が色めき立つ。ユウトは自分のことを言っているのかさえわからないので、キョトンとして様子を見渡す。
全員がユウトに視線を向けているのに気がついて、初めて自分のことを言っているのだと勘づき、念の為自分を指差してお伺いすると、ギムレットは大きく頷いた。
――世界救済のかの汝……って何?
ユウトは『世界救済のかの汝』がどんなものかも想像つかなかったが、とてつもない力という言葉に期待感があった。
異世界に転生したのなら、何か特別な能力があるのでは?という期待は、ほんの少しだけ持っていた。先程のレイナの話だと、自分の中におそろしいものが眠っているとか…
その力が何なのかは今のところさっぱりわからないし自覚もないが、仰々しく世界救済と名前がつくほどなのだからとんでもないことをやりそうな期待感しかない。
何の変哲もないクソ雑魚引きこもりを自称するユウトが、なにか逆転サヨナラくらいドラマティックな、まだ自分でさえわからない力で世界を救うというのなら、期待に応えたいと思うのが思春期の男子というものだ。
ユウトがギムレットに世界救済のかの汝であると認められて一番喜んでいるように見えたのはレイナだ。
胸の前で手を合わせて
「やっと……やっとその時が来たのですね……」
静かに喜びを口にするが
「ハン……どうだか。」
レイナとは打って変わって疑惑を隠しきれないローシアはそっぽを向く。
ギムレットは髭をゆっくりと摩りながら思案に耽るかのように続けた。
「しかし……聖書記選の真っ只中に現れるとはのぅ。何かの前触れやもしれぬな。」
「前触れ?」
「……やはり、黙示録か……」
ローシアが舌打ちする。
ーー黙示録?ーー
世界救済とか黙示録とか、話の内容についていけなくなって首を傾げるユウトに
「カリューダの黙示録ですわ。」
と説明してくれた。
「カリューダ? 黙示録?」
全く聞いた事がない単語が続けられ、傾げる首の角度は増す。ギムレットは深く息を吐いて嫌な思い出が脳裏をよぎったかのように眉間に皺を寄せ
「……その事についてはレイナ達の方が詳しいかの。」
とレイナに託す。
レイナは、返事こそ小さく「はい」と答えたが、力強く聞こえた。
「カリューダとは、五百年前に実在した魔女の事ですわ。カリューダの黙示録とは、世界救済のかの汝として、全てを知る者という存在を最後に書かれている、カリューダ様の黙示録です。」
「全てを知る者……」
世界救済のかの汝が、全てを知る者だというのなら、ユウトには全く当てはまらない。この世界に来たばかりで知らない事の方が多いのだから。
だか魔女や黙示録や世界救済と、この世界を作り上げた過去の材料が揃ってきて、異世界来た実感を脳が認めるしかない知識で記憶領域が少しずつ埋められて行く。
環境に慣れるとはきっとこういう事なのだろう。
突拍子のない話が来ても認めない事には先には進めないので、まずは言葉のままに存在を受け止めた。
「……つまり、その全てを知る者が僕だって……ことだ、よね?」
慣れない立場に少し疑問を乗せて確認をすると、ギムレットが髭を撫でながら頷く。
「……私たちは、ユウト様が現れるのを心待ちにしておりました。もしかしたら私たちが生きているうちに会う事は叶わないかもしれないとも思っておりました……」
「そんな……大袈裟な……」
求められた事がないから、求めることもない。ユウトにはレイナが目を潤ませながら、心待ちにしていた気持ちが理解出来ずにいた。
「全てを知る者が現れる時、世界が歓喜で祝福されると言われています。私たちは……」
それ以上の言葉は感極まってしまったようで俯いて、啜り泣いて方が小さく震える。
――そんなになるほど待っていたんだ……
誰かを心待ちにするって、誰かに何かを託すって
辛いだけじゃんか……――
話を少し変えたほうがいい。この話をレイナに続けさせるのも、聞き続けるのも酷だと、ユウトは啜り泣くレイナを見ていて辛くなった。
そして、何も言えることがないとは言え、、話に流されている感が否めないので、今まで聞いてきた話の中で知りたいことを質問にした。
「カ、カリューダの黙示録っていうやつってさ、実際には何が書いてあるか見たことないものなの?」
安直に出してしまった質問だったが、これまでちゃちゃを入れていたローシアが、突然激しくテーブルをたたいて立ち上がった。
「…黙って聞いてれば…どの口が言ってるのよ!!」
ローシアの眉間に皺が寄り、顔を自身の髪の毛のように真っ赤にして立ち上がり、呼吸荒くユウトに詰め寄る。
その姿には明らかな『殺気』がまとわりついており、獣人達を相手にしたときとは比べ物にならないほどの威圧感を感じて睨まれたカエルのように身動きができずにいると、ローシアが拳を振り上げた。
だが、次の行動をレイナが手で制止した。驚いたユウトは金縛りが解けたように、力が抜けて椅子からずり落ちていた。
ローシアは怒りの感情を発火させたのは紛れもなくユウトだ。
カリューダの黙示録の話は二人にとって、怒りの感情が爆発するには充分すぎるほどの代物と気がついたときにはすでに遅かった。
肩で息をするローシアは、呼吸を整えてから背を向ける
「茶番に付き合っていられないから出て行くワ。」
と言い残して走って部屋を出て行く。
「お姉様!」」
レイナはローシアを引き止めるために呼びかけたが応じる様子は微塵もなく、ローシアが部屋を出ていくと、いてもたってもいられず追いかけて出て行った。
遠くで扉を目一杯開いて走って遠ざかる二つの足音が聞こえた。
残された四人は、静まり返った部屋の中で時が止まったかのように誰も動かなかった。
「……気を…悪くせんでくれるか?」
姉妹が出て行ったドアを呆然と見つめるユウトにギムレットは優しく語りかけた。
振り向くとギムレットの眉は垂れ下がり、姉妹を気遣う様子が伺えた。
「…いえ、僕がローシアの怒りに触れることを無意識に言ってしまったのだと思います…僕が悪かったんだと思います……」
琴線に触れてしまった事はもうどうすることもできない。
だから、率直に反省した事を述べた。ギムレットは表情を変えず優しく髭を撫でながら。
「すまぬのぅ」
とても申し訳なさそうに力なく謝る。まるで二人の親のようだ。
「ユウト殿は二人にとって待ち望んでいた存在なのじゃ。あれほどまでに感情を動かすほどにの。」
「待ち望んでいた…存在。」
深く頷くギムレット。
「見ての通り、ワシらはドワーフであの子たちは人間じゃ。ほかに人間はおらん。何故このドワーフの村に二人で住んでいると思うかね?」
**************
「お姉様!待ってください!」
ローシアはレイラの静止虚しく家を出て、村のそばにある川べりまで走ってきた。
呼吸が乱れるのも整えぬままに、両拳を握りしめて、自身の背丈ほどもある岩を、殴り始めた。
二度
三度
四度
力に任せて殴ったせいで、指の皮が捲れ上がり、血が滲み出てきた。殴る度に鮮血が岩に、辺りに飛び散る。
気がおさまらないローシアは、さらにまた殴る。
拳を痛めるほど力を込めなければ、誰かに同じ事をしてしまいそうで、心が落ち着くまで殴るしかなかった。
「やめてください!お姉様!」
追いついたレイナが後ろから抱きしめるように止めさせた。精一杯の力でローシアを止める。
我を失ったように岩を殴り続けようとするローシアは、静止を振り解こうとするが、レイナの力は強くこれ以上体の自由が効かないことを悟った。
まだ暴れたい気持ちが残っていた。最初の一撃で燃え上がった憤りの炎は、小さくなるどころか勢いを保ったままで、昂るローシアの顔を赤く染めている。拳から肉を叩き潰す音が響いても、痛みがこの怒りを抑えてくれると信じているように。
ーー殴らないと、アイツを殴り殺してしまうかもしれない!
あんなに何にも知らない奴が…… 私たちの悲願を託す人間だなんて!!ーー
「お姉様!!」
レイナの悲痛な叫び声と背中のぬくもりがようやくローシアに届いた。
呼吸を整えて心を落ち着かせて、ようやく正気に戻り、一つ大きく深呼吸して力を抜いた。炎は消えてはいなかったが、自分でコントロールできるまで静まった。
「大丈夫なんだワ……レイナ。」
「大丈夫じゃありません!これ!」
ローシアの手がボロボロになっていた。
特に右手の中指と人差し指は皮が捲れて、骨が見えそうなほど、千切れえぐれていた。血が滴り落ちる様子を見て、ローシアが半笑いで
「はは……バカだワ。今更痛くなってきたんだワ」
と手を震るわせて言った。
いたって平静を装うように勤めたが、レイナは何も言わず、ローシアのひどく傷ついた手にヒールをかけ始めた。
「……ごめん…なんだワ。」
レイナは何も答えなかった。
ただ、レイナの頬を伝う涙が、ローシアの心を完全に落ち着かせ、そして後悔を急激にもたらした。
「ごめん……」
「……私は、お姉様の妹です…ですから、お姉様のお気持ちは誰よりもわかるつもりです。」
「……」
「私たちは、他の誰にもない『絆』があります。だから、伝わってきます。」
「そう…ね。私もわかるんだワ。レイナのことは。」
「はい……私たちの悲願は必ず果たします。そのために今生きています。」
「……」
「お姉様の思う事も、願いも、全てレイナと同じ…あの日に味わった失った痛みも全て……」
「そうね……それで、アンタはいつか来るその日に、斬れるの?」
視線がレイナの背にある刀に向く。
「…必要とあらば…躊躇なく…」
覚悟の内をローシアに告げた。
「そう…その言葉聞けて安心したワ。」
ローシアの指の傷が目に見えて塞がり、ヒールは終わった。
感謝を告げると、ローシアは塞がった傷口を見た。皮膚がうまく塞がりきらず、歪な形の場所があった。
まあ、あれだけぐちゃぐちゃになってここまで戻るのは、むしろ感謝すべきだとローシアは治った痕をなでた
レイナは傷が残ってしまう事に謝ったが、ローシアは何度か拳を作り指の感覚を確かめて、いいんだワと一蹴した。
「さぁ、戻るんだワ。いよいよその時がきたのだから村長にお礼を言わないとね。」
いつもの姉に戻った姿を見て、レイナは頬を伝う涙が風に流されたあと、『はいお姉様』といつもの優しく柔らかな返事を返して、二人並んで戻って行った。
**************
「あの二人の両親は既に亡くなっておる。色々あってな……二人を預かった時はすでに亡くなっておった……惜しい二人を亡くしたと当時は落ち込んでの……」
「そう……なんですか……」
「うむ。二人の両親に託された双子じゃったが、まさかあんなに見た目が変わるとはのう、思いもよらんかったわ。」
カッカッカッと高笑いするギムレットに聞くべきだろうか。なぜ二人の両親が居ないのかを……
「とはいえ数奇な運命じゃ……」
「えっ?」
「いや、なんでもないぞ。カッカッカッ!」
はぐらかされたようにも思えたが、疑うような質問を、護衛の目線を気にせずにするのは無理だ。睨みが強い。
「あ……あの、カリューダの黙示録って二人にどういう関係があるんですか?」
「簡単じゃよ。魔女に関係があるから。じゃな。」
「どんな関係ですか……二人が魔女とか?」
「フフフ……魔女ではないな。魔女はもうこの世にはおらん。その力を持つ者も。関係についてはワシ聞くよりも本人達から聞くが良いじゃろう。あまり陰で色々いうとローシアがうるさいのでな。」
確かに。ローシアが『なんでアンタが知ってんの』と不機嫌になって睨まれるところまで想像できた。
「それに、あれも気に入っておるようじゃしな……」
「はい?」
含み笑いで誤魔化された。
ここでユウトの脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
「二人が魔女ではないのなら、何故カリューダの黙示録のことでローシアがあんなに怒るのでしょうか?」
「ふむぅ。すまんがそれもいずれ二人から聞く方が良いかもしれんのぅ。わしから言うことではない……しかし――」
長い髭を撫でながら続けた。
「…あの二人は、この村以外の繋がりがないのじゃ。ここを出ると、あてがない。」
「あてがない…」
確かに、よく考えれば両親が亡くなったのであれば、親戚や近所の仲の良い人など引取先はあってもおかしくない。
しかし、人里離れた森の奥のドワーフの村で引き取られたのは、何か特別な理由があったからと考えられる。
「…わしから二人の素性について言えるのはここまでじゃの。あとは二人のことじゃから二人から聞いてほしいかの。」
「…はい。わかりました。」
ギムレットは静かに笑み、髭を撫でた。
窓の外や家の入り口からはまだ二人とも帰ってくる気配はないようで、静かに時間が過ぎる。その間、やはりカリューダの黙示録についてもう少し聞いておきたい。
二人が怒りや悲しみの感情を動かすものだから。
「今、カリューダの黙示録は、今どこにあるんですか?」
「ふむ……ヴァイガル城の書庫。最深部に厳重に保管されておると聞いておる…魔女はヴァイガル国では禁忌なのでな。」
「禁忌…」
「全てを知る者が黙示録に触れると、世界は終わるとされておる。終末思想論とも呼ばれておるのぅ。わしはそう思わぬが…」
「どうして思わないんですか?」
「…なぜかのう……魔女が世界を終わらせるような黙示録を残すとはおもえないことかのぅ。根拠は全くないがの。」
ギムレットは高らかに笑ったがすぐに止んだ。
「帰ってきたようじゃな。」
とつぶやき、部屋の入り口を見やる。
レイナとローシアが並んで部屋に入ってきた。
部屋を出る時とはうってかわって、ローシアは落ち着きを取り戻しており、レイナは申し訳なさそうに肩を窄めて小さくなっていた。
入ってきて早々に、ローシアはギムレットとユウトに向けて頭を深々と下げた。
「悪かったんだワ。非礼は詫びるワ」
次いでレイナも同じように頭を下げた。
「ユウト様、私も姉と同じ気持ちです…本当に申し訳ございません。」
レイナも深々と頭を下げた。
「いや、いいんだよ。大丈夫だよ。」
こちらこそごめんという言葉は飲み込んだ。
獣人から命を救ってもらったユウトからすると、感謝こそしても恨むことなんて到底できなかった。
その気持ちはいつか伝えるとして、今は、自分の情けない姿に映る二人のフィルターが理解できたので、感謝する事はあっても負の感情はなかった。
「ギムレット様。」
頭を上げたローシアが決意に引き締まった顔になっていた。
「私たち姉妹は、ギムレット様に多大なるご恩を賜った事。生涯忘れないほどの大恩をいただきました…。」
ギムレットは軽く頷きながらローシアの力のこもった言葉を、眉に隠れて見え隠れする優しい眼差しを向けて受け取っている。
ローシアの言葉を、ただ黙ってまっすぐギムレットの方を見つめながら紡ぐ横で、レイナの顔にも何か決意が見て取れる。
呼応して部屋の空気が静まり返る。この部屋でローシアが何を語るのかをわかっているかのように。
ローシアはさらに続けた。
いつもの小馬鹿にした話し方は、それがそもそも演じていたかのように、今の姿が本来のローシアのように、小柄ながら凛として、礼儀正しい高貴な淑女だった。
「ギムレット様もご存知の通り、全てを知る者が現れたという事は、ようやく黙示録に刻まれた運命が動き出す事の証左に他なりません。私達姉妹は、この日を、ずっと…ずっと心待ちにしておりました。」
「そうじゃな…わしも二人のご両親からよーく話は聞かされておる。」
レイナは、ギムレットから『両親』という言葉が出ると、目を潤ませていた。
全てを知る者が現れたことは、この世界にとっても大きな意味を持ち、この姉妹にとってもとても大きな意味を持つ。
ユウトは、姉妹が期待する自分に対して、知る限り何も出来ない自身が知っている無力な自分の乖離差を、否応に突きつけられているようで心を握りつぶされるような緊張感に部屋全体が覆われていた。
ーー何ができるのだろうか…僕に…ーー
「全てを知る者の顕現は、私達がここを旅立つのに充分な理由となります。」
「そうじゃのう。その時がやってきたのかもしれんのう。」
ギムレットは声を震わせていた。
気がつけば、ギムレットの護衛も、険しい顔でありながら、目から涙をこぼしていた。一人は人目憚る事なく滂沱の涙を流し、袖で拭っていた。
ギムレットと姉妹は、種族が違う。
姉妹とこの村の種族は違うのに姉妹がここに住んでいる理由はわからないが、涙する三人の様子を見ていると、種族を超えて、姉妹を家族として守ってきたのだろう。
ユウトが知りえない絆がここにはあるのだ。
ギムレットは、懐から取り出したハンカチで目を拭って、仕切り直し、村長の役目を果たすべく、ユウトに向き直って立ち上がり、ユウトの前に立った。
「…さて、ユウト殿。話を勝手に進めて申し訳ない。そして、きて早々に追い出す形に立って大変心苦しいが、明日にでもこの村から、ローシア、レイナと共に旅立って欲しい。」
「…え」
話が急転直下に動き出した。
「意に解さないのは理解しておるよ。だが、二つの理由でそう言うておることを理解してもらいたい。まず一つはそなたが全てを知る者であること。世界救済が本懐であるならば、この村に留まっていてはならない人物であるということ」
「もう一つは、全てを知る者は、少なくともヴァイガル国の敵であること。この村に置けないのはこちらの理由の方が大きい。村長としての判断だと理解して欲しい。」
「…敵って…ちょっとまってよ…僕が、その全てを知る者だって決めつけてるけどさ…僕には…僕には…」
「そんな力は…ない。じゃろう?」
ユウトは小さく頷いた。
全てを知る者という存在に、たった六人のこの部屋の中のプレッシャーに負けてしまいそうなほど力のない自分なのに、どうしてこの世界を救えるというのか。
正直に今の気持ちを曝け出すような重圧は、ずっとユウトにのしかかったままで、拭い去ってくれるような微かな希望が欲しかった。
希望はギムレットが静かに打ち砕いたのだ。
姉妹も表情は変わらない。二人ともわかっていた事だ。目が覚めて急に力が目覚めるなんて都合のいい事が起こるはずはない。
「…僕は、どうすれば…」
ギムレットの回答は、
「それはわしにもわからない。」
だった。
正直なところ、期待はしていなかった。
期待するだけ無駄な事はこれまでの人生で経験してきた。だから、わからないと言われても心が揺れ動かないように、全身を期待にあずけるような事はしない。それがユウトの処世術だ。
「全てを知る者が、どんな力を持ち、世界にどのような影響を与えるのか…それを知る者はこの世にはおらんのじゃ。じゃから、今のユウト殿の力がないことへの不安は理解できる。じゃが、何をすれば良いのか、という問いには、わしの知識にはない……わからぬのだ」
「わからないって…」
こんな無責任な事はないじゃないかとユウトは顔が青ざめた。ギムレットのせいではないが、この世界に連れてきた誰かを恨みたくなった。
この世界に転移させられた理由がこの世界を救うためだとしたら、なぜ力の片鱗すら感じさせてくれないのか。
レイナが触れたユウトのマナが恐怖を感じるものだとしても、その実感はユウト自身には全くない。皆無だ。
手応えがない事に力を注ぐ事は、対価として得られる結果が見えない。努力しても正解が誰にもわからないのなら、網で水を掬う方がマシに思えた。
糸に絡む水が得られるなら皆無ではないのだから。そのくらいな些細な事でもいいから何か教えてほしかったが、解答はゼロ。
この部屋の会話の結論は、分相応な人間に仕立て上げられ、無能を明らかにしただけだ。
全く兼ね備えていない物を求められている事に、恐怖が沸々と湧きあがる。そして、自分の人生で得られた成功体験が道として示される。
――……そうだ、逃げちゃえばいいんだ。――
そうだ、この世界にいる必要はないんだ。
帰ればこの世界は無かった事になる。
記憶には残るけど、夢として片付ければいいんだ。
何も知らない。何も聞いていない。何も見ていない。誰とも出会ってない。
強情な無関心で押し通す。
嘘ではなく事実として知らない。という無の言葉の正当性は証明しようがない。誰も知らない…誰も知らないのだから。
『知らないなら仕方ないな』
『いや、知ってるだろフツー』
『無いことは証明できないよ』
『…無いことならな。まあそう言うなら無いのかもしれないな』
脳裏に逃げた成功体験が現れては消えて行く。
もう記憶の奥底に眠っていた灰色の記憶が音も立てずに脳を支配し始める。
逃げればいい
逃げればいい
逃げればいい
できないことはできないんだ
にげればいいんだ。
そうだ。
知らない事は罪ではないんだ
体が震えているのがわかる。逃げたい、逃げる、逃げよう。思考が逃げの一手しか思いつかない。
「…僕の聞きたいことを聞いても、いいですか?」
「うむ。大体想像はできるが当ててもよいかの?」
「……」
「この世界から、自分の世界に帰る方法…じゃな?」
「……はい」
「わしがユウト殿の立場だと同じ事を聞くと思うしの。当然の質問じゃな。」
「…」
「答えは…わしにもわからんの。」
ギムレットの答えに驚きはしなかった。むしろ薄々は勘づいてはいた。
自分がどうやってこの世界に来たのかもわからないのに、他の人が帰れる方法をわかっているかもしれないというのは、甘く見積もっても希望的観測すぎる。
いわば、最終宣告をされたのだ。
もう二度と自分の世界に帰る方法はないのかもしれないと。
帰ることは出来ない。その方法が存在するのかもわからない。『ゼロ』であると。
そう告げられたのだ。
逃げ道が完全に塞がれた事で、不思議なことに体の震えが止まった。不思議とユウトの気持ちは落ち着いていた。
何故か今のこの状況を心が受け入れた。
全ての退路が閉ざされ、退路を諦めて前に進むしかないんだと思い知らされて、口元が緩んで笑みがこぼれた。
――けど……異世界に来て自分の力では何もできない。
自分に似つかわしくない過分な二つ名が重荷なのに。
でも本当にできるのか?逃げる事が出来ないのに、何も力なんてないのに。――
ユウトの力では、この世界では何もできない。生きることすらままならない
これまで追い詰められて誰も背中を押してくれない孤独で逃げることを正当化してきた。
もう逃げる事が出来ない。逃げ場がないというこれまでなら圧倒的な危機が、この世界では前に向かせる充分な動機になった。
もしかしたらものすごい力があるかも知れない。レイナの話から得た体内に眠る力の事。あまりにも不確定な話だが、それだけでユウトは気持ちを前に向かせる事ができた。
――……僕はもう……逃げたくないんだ!――
ユウトの心情を推してはかるように、部屋に沈黙が訪れる。
だが、沈黙が支配するこの部屋の空気を読まずに、次の声を発したのは、先程の様子とは打って変わって元通りになっているローシアだ。
「まー、いずれはわかるかもしれないんだし、それまでは私たちが子守をしてあげるんだワ。」
「お姉様、子守をする相手がユウト様の事だとすると失礼ですよ。」
ローシアが煽り、レイナが油を注ぐようなやりとりだが、全て事実だ。
冗談でも何でもなく、子守と言われようが姉妹がいないと生きていくことが困難だ。
今森に放り出されたら、獣人か、いるか居ないかわからないモンスターに襲われるなりして一日ともたないかもしれない。
ここまでこの世界の人間が持ちうる生きるための力はなく、いわば一人で生きる事ができないよちよち歩きの幼児と言っても過言ではない。
自分の身の危険を守る術がない上に何も知らないのだから。
全てを知る者という異名からするとこれほど滑稽なことはない。
だが、頼る相手が姉妹しか居ない今、自分の身を守るにはこの姉妹の力を借りるしかないのも、揺るがしようがない厳然たる事実でもあった。
恥もへったくれもない。
吹っ切れるしかないのだ。
これまでは、追い込まれた溝鼠にすらも劣ると自分を評価して卑下するユウトだが、今の自分の立場を理解し認めたことで心が洗われた。
まあ、綺麗な鼠だけど……と心の中で念を押しておく。
「よろしく頼むよ……ローシア、レイナ。」
姉妹がユウトが逃げない決意をしたことを知る由もないが、にこりと笑って「はい。よろしくお願いしますね。」と返すレイナに対して、ローシアは「任せておくんだワ」と素気なく返す。
素気ないのだが、ローシアの口元には少し綻んでいるように見えた。