第三章 4:五月二十一日
毎朝、学校に行くわけでもないのに制服を着ていた優斗は、久しぶりに家族の忙しい朝のルーティンに紛れ込むようにキッチンに向かった。
ゆっくりとキッチンに歩みを進めると、コンロの前に引きこもるまで見慣れた母の背中があり申し訳ない気持ちが湧き上がった。
優斗の思いなんて知るはずのない母は、優斗の気配に気がつき振り返って少しそっけなく朝の挨拶をしてきた。
優斗も反射的に同じように返した。
「早く食べなさいよ。お母さんも仕事に行かなきゃいけないんだからね。」
キッチンでユウトの味噌汁をよそってテーブルに置くと、炊飯器を開けてひさしぶりに見る優斗の茶碗にご飯をよそう。
キッチンにはもう一人、父がいた。
優斗の向かいの席で新聞を読む父の姿は、引きこもる前に毎朝みた光景と寸分違わない。
優斗は自分の席に着くと、ご飯もちょうど目の前に置かれた。
「ほら、早く食べて。お父さんも食べたなら新聞読んでないで……」
「ん?……んん。」
片付けの邪魔になるからと少し邪険に扱われてしまった父は新聞を折りたたんで、眠気が抜けない頭を片手でかきながら台所から出て行ってしまった。
「ほら、あんたも早く食べて食べて。」
「えっ……うん……いただきます。」
母の作ってくれた朝食は、懐かしさはもちろんあったが、引きこもってしまってからは廊下の花瓶を置く小さなテーブルに朝置かれていたものを、部屋に持ち込んで食べていた時とは違って、とても暖かい。茶碗から伝わってくる温度が母親の暖かさのように感じて心が締め付けられ、鼻の奥がツンとした。
箸でご飯を箸で一掴み口に運ぶと、口の中にも温かさとご飯の甘みが舌を包む。
味覚や感触はこれが夢ではないと雄弁に伝えてくる。
ーー僕は……元の世界に戻ったのかな……ーー
あれほど戻りたいと願ったはずだった。
だが、今いる世界は自分の記憶している少し前だからこそ、不気味さしかなかった。
ご飯を食べ終わると学校に行く支度を整えて玄関でスニーカーの紐を結んでいると、母がお弁当を包んで持ってきてくれた。
「あんたはいつもそそっかしいねぇ。お父さんそっくりだわ。」
「……そうかな。」
あまり父に似ている実感が湧かないので、毎回本当に似ていたのかを確認していた事も、こんなところで思い出した。
母からお弁当を受け取って、何年も言っていないような行ってきますを言うと、いってらっしゃい。気をつけてね。返してくれた。
玄関を出て当たり前のあいさつを交わすだけだったが、優斗には新鮮だった。
もう何年も体験していない様な、それは手が届くところにあったものなのに、自分が封じてしまったもの。
人間の脳はとても便利にできている。
ただ忘れていたのだ。優斗にとって都合の悪いことを拒絶することで、自分で蓋をしたんだと思い出した。
こんな朝の当たり前な日常も全て。
ーーでも……なぜ忘れていたんだろう……ーー
記憶の奥底から通学路を何とか思い出して学校に向かうと、段々と同じ制服をきた生徒が増えてきて、間違わずに学校の近くまで向かっている事がわかり、見覚えのある校舎が見えた時はホッとした。
校門をくぐり、下駄箱に行くと、何人か知った顔があった。名前は残念ながら思い出せなかった。
優斗の顔を見ては、一瞥して走って逃げる様に教室に向かっていた。
ーー……そっか、そうだったね。なんで僕は学校にきたんだろう。ーー
心の奥底に閉じ込めておいた、何重にも鍵をかけていた、この校舎であったことを完全に思い出した。
5月21日
ーーこの日は僕が学校に行くことを諦めた日だ。ーー
教室に入ると、僕の周りから避ける様に人が散った。特段気にすることもなく席に着くと、机に置いた手がちくりとした。
指に木の破片が刺さったようで、机を見る。
『死ね』
『ゴミ』
『クソ』
子供みたいな罵る言葉が木製の机に直線的に刻まれていた。
優斗は完全に思い出した。
ーーうん。覚えてる。彫刻刀かカッターで刻まれてたんだ……恨みを買った覚えなんてないし、何かをした記憶すらない。でも、少し前から誰も僕のことを気にも留めなくなったんだーー
優斗は間違いなく存在しているのに誰もその存在を認めないような。幽霊にでもなったかの様な感覚。わざとらしい演技で優斗がまるでいないかの様に罵る。
どんなに鈍感だって気がつく。ここにいたらいけないんだと。
それをわかりやすく教えているつもりで、罵っている。クスクスと笑い声も聞こえる。
人は不思議なもので、自分が受けた痛みでもないのに、何も反応しなかったら、あたかも痛みが存在していないのではないかと錯覚する。
そんなこと考えればすぐにわかるはずなのに。我慢しているってわかるはずなのに、エスカレートする。
暴力は、振りかぶって殴ることで身体的な痛みや怪我を負わせるだけじゃなく、存在を認めない事はれっきとした暴力だし声をかけさせない圧力も、力による現状変更と言える。
優斗には自分の置かれている状況が不平である事を声を大にしていう勇気はなく、黙って我慢するしかないと思っていた。理由は簡単で、我慢すれば誰も傷つかないから。サンドバックになればいつかは飽きると思ったからだ。
ーーサンドバックは殴って楽しいのは最初だけなんだ……ーー
明らかに、そして明確に存在を許されなくなった日、それが5月21日だった。
優斗にクラスの全員が話しかけられない様な雰囲気にして、孤立して、決して体には残らない暴力で見せしめの様にされ、全てに見放されたのが今日だと思い出した。
優斗は忘れてたわけじゃない。心の中に殺すほど自分を痛めつけて封じ込めていたのだ。それまでの自分と一緒に。
殺してしまって封じ込めた方が楽だったから。
誰にも話しかけられないまま昼になって、弁当を持ってトイレに行った。
いわゆる便所飯で、クラスで食べているとわざと机を蹴られて弁当をひっくり返された事があった事を思い出した。
母親にだけは今の状況がバレる事が嫌だったから、誰も昼食中にはこない階数の違う便所にこもって弁当を食べていた。
今日もそうするつもりでトイレにこもって弁当箱を開けた。
ーーアイツこっちにきてたけど便所か?ーー
心臓が一度高鳴った。足音がこちらに近づいてくる。
あの三人だ……
僕がここで弁当を食べる原因になった、事の発端の三人。心臓が早鐘のように高鳴る。駆け足でトイレに入ってきた。
ーー便所で飯食ってんの?
クセー野郎だなハハハハハハハハハハーー
「お!鍵かかってるぞここ。」
「おい、優斗!ここにいるんだろ!」
ドアが激しく叩かれる。早鐘のような心臓を押さえるように胸を押さえる。
「出てこいよー!」
「……いなぇんじゃねーの? 鍵がぶっ壊れてるとか。」
「いねーのかなぁ?」
ドアを二度三度蹴飛ばされる。
びっくりして声が出そうになったがなんとか押し殺した。
「いねーのか……お!」
掃除の用具入れのドアを開ける音がしてゴムが床につく音がする。
何かをひねる音がすると、勢いよく水が出る音がした。
……最悪だ。その音で何をしようとしているか簡単に想像できた。
「いるなら早く出てこいよー!!!」
トイレの上からホースで水をかけてきた。
避ける事なんでできない。
母さんが作ってくれた弁当にもかかる。それを守ろうと体を丸めた。
頭に、背中に大量に水がかかる音がする。首から伝うように背中に水が流れて、シャツにまで染みてきて、冷たい感触が液体になって体を伝う。
三人の笑い声も水も止まらない。
まるで汚れを流すように水を流し続ける。
どのくらい流したかもうわからないけど、水が止まって、誰かがまた用具入れから何かを取り出した。
そして、また水が激しく出される音がする。
「これもこれも!」
「お前考えることえぐいな!ははははは!」
水の音が止まると、ドアに何かぶつかる音がして
「せーの!」
の掛け声と共に、大量の水が上から降ってきた。
ホースとは比べ物にならないほど。
そして、鼻腔を刺激する酸の匂いがした。
三人の大笑いする声が聞こえてきた。
手元には、作ってくれた弁当が半分くらいに減って泡立っていた。
「優斗どこにいったのかなー?」
「本当にどこに行ったのかなー?」
「優斗?ゆーとー? ハハハハハハハハハハ!」
足音は逃げるようにどこかに行ってしまった。
染みる目を拭って立ち上がると、制服に大量に水が含まれて重たかった。
制服やシャツや下着を脱いで絞ると、泡立ちながら水の滴る音がトイレ内に僅かに響く。
遠くから聞こえる誰かの声は
どれも楽しそうで
嬉しそうで
自分には関係ない雑音で
ただただ耳障りだった。
ふと鏡に映った自分の姿を見た。
――なんだよ……これ……――
体の至る所に紫や青で地図を書いたようなアザが至る所にできていた。痛みはなかった。
痛みがないのは
――慣れていた、からだ――
まざまざと記憶が蘇る。心の奥底にねじ込むようにして忘れ去ろうとしたが忘れられない記憶が、堰を切って蘇る。
ある日突然無視された事が始まりだった。
何も身に覚えがなく、本当に突然始まって、それから耐える日が始まった。
何をしていいのかわからないし、相談しようにも誰も話を聞くどころが目の前から逃げ出すように避けられた。
今思えば、もし優斗を助けるような事をすればあの三人にターゲットにされると恐れだからだろう。
優斗がもし反対の立場だったらきっと同じ事をする。だから誰かを悪くいうことはできない。
相談はできない。逃げるか、耐えるかの選択しか思いつかなかった優斗は耐える方を選んだ。誰にも迷惑をかけたくなかったからだ。
事実を明らかにしなければ誰も傷つかない。自分が我慢すればいいのだ、と。
そして優斗はサンドバックになった。なるしかなかった。
殴る側からすると、何も言わずに耐える人はサンドバックにしても罪の意識は全くないらしく、日に日に殴る蹴る回数が増え、強さが増し、見えないところにアザを作るように自分の保身に気を配り、やがては道具まで使い出した。
我慢の決意は殺意に変わりそうになったりもした。
しかし、それでも優斗は耐えた。
我慢すれば誰にも迷惑がかからない。その一点のみが優斗の救いだった。
優斗は反抗するほどの気概も力も能力も持ち合わせていなかった。言うなれば、能力のなさを自分の都合のいいように解釈して、『耐える理由』を作っていた。
情けなく見えるかもしれないが、優斗が表現できる最大の『反抗』なのだ。
優斗は自分を客観的に見て、いくじなしだと自嘲もした。
しかし子供の理屈の民主主義は、三対一では負けるしかない。
数の暴力は、一つでも負けたら『奴隷』と同じだ。
奴隷になるしかなかった優斗の体にはアザが増えて、腕は一部どす黒くまでになった。
耐えればいつかは解放されると信じてた。冬を耐えれば春はやってくるし、止まない雨はないと信じていた。
だが、今日の出来事で一番侵害されたくない優斗の家の中に悪意が無理やり入ってきたように感じた。
もうこのままこの学校にいたら、この醜いアザを見るたびにこの事を思い出す。心臓が苦しくなる。頭が真っ白になる。
両親に今起こっている事を知られたらどう思うだろうか。今まで黙ってさえいれば、優斗がボロボロになっても笑っていれば両親に心配をかけることなんてないはずだと信じてきたのに、悪意はエスカレートする事しか知らない。枯れ木を燃やす炎のように勢いが衰えることはない。
両親に知られたら、今まで耐えてきた事が全部ゼロになる。
優斗はこの日、完全に心が折れた。暖かい春は二度と来ない。雨なんて止むはずがないと深く深く刻まれた日
それが五月二十一日だった。
服を絞ったところで、水分が思うように抜けるはずもなく、冷えたシャツに袖を通して少し震える。
泡がまだ残る弁当に蓋をして、トイレを出た。
髪から滴る水が、頬を伝って顎から落ちる。歩くたびに上履きから不快な音がする。
まだ心は落ち着いてる。こんなバカみたいな格好で歩いて、色んな人に奇異な目で見られてる事すら気にもとめない。
嫌な匂いがするから、通りすがるだけで驚くのも仕方ない。
誰も心配なんてしない。こうなるのにはワケがある。そう思ってるのかわからないけど。
近づくと次は自分だとでも思うのだろうか。でもその気持ちは少しわかっていた。もし優斗が傍観者と同じ立場だったら、声をかけられるかなんてわからない。
いや、わからないんじゃなくて出来ない。自分もそうなりたくないから。きっと出来ない。ただ、傍観するだけだ。
自分も同じように傍観するかもしれないと思うと、どんな目で見られても何も感じなかった。
教室に戻ると、ほとんど昼食を終えたらしく、休憩中で騒がしい中、優斗が教室に戻ると水を打ったように静まり返った。
足元から気持ちの悪い音をたてて、自分の机に戻り、カバンを開け、酸の匂いが鼻につく弁当を入れてカバンを閉じて持ち、教室を出た。
出て行くと、誰かが大声出してたけど、内容なんてもうどうでもよかった。
下駄箱に行くと、担任の先生と何人かの生徒が走ってきた。
名前なんてもうどうでもよかったし、正直もう覚えてない。
「秋月!どうしたんだ!」
と近づくと肩を触るとすぐに離す。触った手を匂うと顔を顰めた。
「秋月、どうしたんだ? こんな格好……ただごとじゃないだろ!」
ーーごめんなさい。なぜか名前も知らないんだ先生。ーー
先生を避けて出口に向かうと、また先生が回り込んで立ちはだかる。
「だめだ!理由をいうまで先生が秋月を帰さないぞ!」
ーー理由?見てわからないのか?バカなのかな。ーー
「秋月くん!先生の言う通りだよ!」
ーー誰だったっけ、この人。なんとなく見覚えがある顔だけど名前が出てこない。ーー
ーー先生が立ちはだかる出口に構わず歩く。どうせ今のこの悪臭が移ると思ったら……ほら、避けたーー
そのまま振り返らず、後ろでまた何か大声で言っているけど、優斗にはもう関係ない事だろうと思っていたので内容なんて微塵も覚えていなかった。
覚える必要もないと思っていた。
ーーそうか……だから名前も顔も覚えていないんだ……ーー
人は自分の不都合なことは勝手に脳が都合のいいように処理してくれるらしくて、もう全てがどうでもよかった事はほとんど記憶にない。
きっと歩いている時にすれ違う人から奇異な目で見られていた事だろう。そう思うのは、優斗も同じ目で見ると思うから。
結局、人間って自分に都合のいいようにしかできていない。痛みが伴わない不幸は見ていたいと思うのだろう。
ああなりたくない。
今どんな気持ちなのだろう?
どんな行いが祟ってそんな目に遭うのか。
好き勝手思うものだ。自分がこれまで経験してきたちっぽけな価値観の眼鏡で人を品定めして、知ったような顔をする。
人間なんてそんなものだ。
優斗は自分だったらどうするだろうと考えた。
こんな目にあっていなかったら、ああなりたくないな、と思うのだろうか。経験した今なら、誰にも見られないように追いかけて話をするくらいはできるかもしれない。
家までもう少しだが、踏切が鳴り出した。
残響音のようにまるで眠らせるように遠く長く響く。
優斗は踏み出したら楽になれるかもしれない。と思った。
ーーだった十数年しか生きてないけど、僕にとってはそれが全ての世界で、そのうちの決して小さくないはずのところで僕はいなくなった。誰にも気にしないなら、いなくても同じじゃないかーー
優斗が今思い出せるのは両親の顔だけだった。
ーーもう僕には家族しか残っていない。それ以外は誰もいない。ーー
電車の音が遠くから近づいてくる。
ーー生きてることって、僕が生きてることってそんなにダメなことなのかな……許されないことなのかな……ーー
遮断桿に手をかけた。
この数メートルが、優斗にとっての楽園。全ての怒りも悲しみも……全てから解放してくれる。
ーー痛みも、少しだけ我慢すればいい。一回だけだ。痛みも悲しみも全てから解き放たれるーー
世界がだんだん白んでいく。まるで目の前に天国が待っているように。
誰かが手招きするかのように、吸い込まれるように。まるで眠る前に似たフワフワとした感覚が優斗の全身を包み込む。確かに楽園だ。間違いない。体が死を受け入れたようにフワフワと吸い込まれるように。
遮断機の下を潜れば……
あの線路まで歩けば……
何もかもから解放される……
この苦痛も、怒りも、悲しみも、全てから解き放たれて……
途端、目の前を電車が通り過ぎる。すれ違う風圧で白んで見えた景色は消えた。
優斗は遮断機に手をかけていただけだった。
ーーいやだ……死ぬのは嫌だ……怖い……怖い怖い怖い怖い……ーー
胸の奥が締め付けられて、握り拳で収まれと願いながら胸を叩く。
優斗は手から遮断機を離すとその場に立ち尽くし、避けるように人が通り過ぎて行く。
ーーみんな前に進んでいる。こちらに向かってくる人もいる。僕とは関係ない人たち……僕はなぜ生きてるんだろう。何故死ねなかったのだろう……なんて僕は勇気がないんだろうーー
と涙を堪えるのに必死だった。
溢れないように、胸を叩いて歩き出す。叩きながら優斗は、胸の奥にある痛みをたてつけるように、二度と外に出さないように閉じ込めるように何度も何度も叩いた。
胸の奥に押し込めたら、これまで生きてきた秋月優斗はいなくなると思っていた。
でも、そうしないときっとまた同じように遮断桿の前で同じことを繰り返すだろう。
ーー壁を乗り越えたら、本当に遮断桿を超えてしまいそうで……超えてしまうと、母さんの泣く顔が見えてきそうでーー
勇気なんていらない。泣くのは僕だけでいい。
誰も泣かせたくない。
情けないことに、家の近くまで来ると、涙が止まらなかった。
家に戻ると弁当をゆっくりと捨てて、シャワーを浴びて、部屋に戻って三角座りをした。
ただただ時間が過ぎるのを待った。太陽が西日で部屋を照らしていることに気がついて、ようやく夜が来るんだ、と思った。
*******
「優斗ー!晩御飯できたよー!」
母さんが夜ご飯を食べるように呼んでいたけど答える気力もなかった。
心の中でこれまでの人生に蓋をして打ち付けるように、何度も何度も打ち付けるように封じ込めていた。その労力だけでもう疲れて動く気もしなかった。
少しして、母さんが2階まで上がってきてノックしてきた。
「優斗?いるの? ご飯よ?」
「……」
「いないの?」
「……いる。」
「……そう。体調悪いの?ご飯はどうするの?」
「……いい。」
というとすこしドアの前で立っていたけど、そのまま黙って下に降りていった。
次の日の朝、僕は学校に行かなかった。ベッドの中で布団にくるまったまま母さんには体調が悪いと言っておいた。
行ったところで、また同じようなことをされるにきまってる。結果がわかってるんだから行く必要もない。
母さんは仕事に行く前に、お腹がすいたらお弁当置いてるから食べなさいね。といってくれた。
僕は昨日のことを思い出してしまって、また泣いた。
それから何を考えていたのか覚えていない。ただ時間が過ぎてしまえばいいと思ってたのか何も考えていなかったのかさえ全く覚えていない。
いつのまにかまた陽が傾いていて、母さんが帰ってきた。
同時に誰かが訪ねて来たようで、母さんと話している声がが聞こえる。やがて静かになると母さんが凄い勢いで二階に上がって来た。
僕の部屋を開けると勢いそのままに制服を見つけて触る。そして、手を匂った。
顔を顰めて僕の方を向く。
「優斗、アンタ昨日学校で何があったの?」
「……」
「さっき恵美ちゃん来てくれたよ。」
ーー誰だよそいつ……ーー
「アンタが学校で酷い目にあってるって。」
ーー……くそっ……母さんに言ったのかよーー
「優斗……母ちゃん学校に電話するからね。いいね?」
ーー……好きにしてよ……もうどうでもいいよ……ーー
僕の返事を聞くこともなく、部屋から出ていった。
誰だよ、母さんに言った奴は。
傍観者が急に割り込んでくる事がどれだけ罪な事なのかわからないのかな。
誰かがいなくなるまで追い詰められないとなにもしないのなら、最後まで関わるなよ。無視するなら最後までやれよ。
それが『偽善』だってことになぜ気がつかないんだよ。
目の前にいない事は死んだのと同じなんだよ。
見殺しても飽き足らずに墓を掘り返して死体をまたサンドバックにするなよ。
お前ら人間じゃねーよ……人の皮を被った悪魔だよ。
その日の夜、見慣れない車が家の前に止まっていた。
母さんの声が聞こえる。誰かと話しているようだ。おそらく呼び出された担任だろう。
ーーどんな話してるんだろう。母さん昔から短気なところがあるからな……ーー
なぜだかわからないけど、下に降りてみようと思った。多分もしかしたらまだ淡い希望がまだ残っていたのかもしれない。
恐る恐る階段をゆっくり降りる。
たった一日降りなかっただけで足が震えた。
薄暗い階段を降りてリビングの前で立ち止まる。
母さんと父さんが並んで座っていて、向かいには担任がいた。父さんは腕組みをしてずっと母さんの言葉を聞いているようで、話をしているのは母さんばかりだ。
「私は納得いきません。優斗があんなに塞ぎ込む事はこれまでなかったんです。」
担任はかしこまりながら低姿勢で時折頷きながら相槌を打っている。
「えー……先ほども申し上げた通り、私どもでも確認はしましたが、やはり、何もなかったという結論に……」
母さんがテーブルを叩いた。
「そんな事はないでしょう! 先生、正直に話していただけませんか? あの子がこれまであんなに塞ぎ込む事はなかった。私は母親として、あの子にかける言葉が見つからないんです。学校には迷惑をかけませんから。」
「……とはいえですね、調べても聞き取りをしても何もなかったと……」
母さんは食い下がる。
「何か兆候はなかったのでしょうか。昨日朝はそんなそぶりはなかった。だから学校で何かあったとしか思えない……学校が悪いとは言いません。私はただ、あの子にちゃんと皆と同じように高校生活を送らせてあげたいんです。」
「……と言われましても……」
「ほんの些細なことでもいいから、覚えていたら教えていただけませんか……」
担任は昨日、僕がずぶ濡れになって洗剤臭いところを見ている。それを言ったら、結局また行かなくなるんだ。どうやったってもう学校には行かないよ……
すると、担任は少し黙りながら答えた。
「……私は……特に変わった事は確認できませんでした。普通の秋月君でした。」
ーーえ? 見たじゃんか……僕がずぶ濡れになってるところ見たじゃないか……変わってないってどう言うこと?あれが日常茶飯事って言うこと?ーー
「嘘! あの子の制服から洗剤の匂いがしました。まだ乾ききってない制服から。」
「そ、それは聞き取りしたところ、掃除をしていた時にかかったと……目撃者がおりましたので、そうなのだろうと……」
ーー目撃者? 誰のこと言ってるのかわからない。なんだよそれ……ーー
僕はその時分かった。もうあの場所に僕の居場所なんてないんだって。
戻ったところで繰り返される毎日は変わらなくて、誰も僕を味方してくれる人なんていないんだって。
やっとわかった。
信じられる人は誰もいないんだなって。
「ちょっと……失礼。」
父さんがリビングから出て来た。
まるで僕がそこにいたことを知っているかのように、僕に目を合わせていた。
僕は、涙が溢れているのを拭いて、黙っていた。
すると父さんは大きな手で僕の肩を叩いてくれて。
「あとは大人に任せておけ。」
と言小さくそう言った。僕は頷くこともできず、ただ嗚咽を堪えながら階段を昇って部屋に戻った。
部屋の真ん中で立ち止まり、腰が抜けるように座り込んで三角座りになる。
そのあと、どんな話になったかはわからない。
しばらく話は続いていたようだったけど、そのうち眠たくなって来て、ベットに横になると、すぐに気絶するように眠った。
朝、母さんが遠くから呼ぶ声で目が覚めた。
「優斗! ここにご飯置いておくから!」
というと階段を降りて行く音が聞こえた。
そのうち、玄関から母さんが仕事に行く音が聞こえて、部屋のドアを開けた。
部屋のドアの横にいつのまにか小さな机が置いてあって、その上に盆と朝食にラップがして置いてあった。
ーー母さんが持って来てくれたんだ……ーー
盆の中に紙が一枚折られて置かれていたので、何が伝言だろうかと、思い手に取り開いてみた。
『気づいてあげられなくてごめんね。話せるようになったら、お父さんとお母さんに話してね。』
ーーこれを言わせたくなかった……言わせたくなかったのに……心配させたくなかったのに…………なんで……なんで父さんと母さんが謝るんだよ……ーー
一番気づかれたくない人たちに知られてしまった。
一番気づくはずの人達に見捨てられた。
心が締め付けられる。目の奥から押し出されるように手紙に涙がぽとりぽとりと落ちた。
ーーなんで謝る必要のない母さんたちが謝るんだよ……ーー
突っ伏して泣いた。声を上げて泣いた。
今まで起きた事が、耐えられず声になってしまったかのように、ただ泣いた。
そして僕はその日から、朝になると制服を着て、行く気持ちを出そうとするけど、どうしても一歩は踏み出せなかった。
母さんたちはそのことを知っているかなんてわからないけど、毎朝ご飯を二階に持って来てくれた。
手紙はあれからなかったけど、それでも毎朝母さんがご飯を持って来てくれるのは
がんばれ。
って言われているような気がして。
がんばる。僕はできる。って何度も言い聞かせたけど、どうしても部屋から出れなかった。
思い出すのはあの時の笑い声、裏切られた先生の答え。
偽善者しかいない教室、そしてこの世界。
恐怖しかなかった。
そして僕はもうこの部屋から出たくないと思うようになったんだ。
**************
マナばあさんの儀式の部屋は、香の匂いは途切れることなく炊き続けてられて、ユウトの覚醒を待っていた。
レイナはユウトの手を握り、祈るようにユウトの顔を見ていた。
時折苦悶の表情を浮かべると、手を握りしめて、私はここにおります。と優しく言葉をかけたが、ユウトは目を閉じたままだ。
マナばあさんもその様子をじっと見守っていたが、ユウトが意識を失ってから、儀式の時間を測るマナを練り込んで作った水時計がもう時間切れを示そうとして、焦りが生じていた。
「マナばあ様……」
レイナに声をかけられ顔を向ける。
「ユウト様は……」
マナばぁさんはレイナから何度かこの質問をされているが、まさかここまで時間がかかるとは思っていなかったので、原因を探るように唸りながら思案する。
「にいちゃん……目覚めないのかな……」
いつもはポジティブなタマモでさえ、ユウトの安眠とは言えない苦しむ姿を心配そうに耳を伏せてユウトの顔を見ていた。
マナばあさんが、一つため息つく。
「どんな困難でも、人は生きようとするためにもがく……それは命がそうするようにできているからじゃが……まるで困難を受け入れてしまったように心を痛めておるな……」
「ユウト様は……いつお目覚めになるのでしょうか……」
マナばあさんは首を横に振る。
「わからん……」
マナばあさんの言葉はレイナには受け入れられなかった。
「そんな……」
「この香は、帰るべき場所を間違えないように炊いておる。今ユウトちゃんの思念がどこにあるかはわからん。帰りたくないと願えば願うほど思念は彷徨う……」
「どういう……事でしょうか……」
「……おそらくどうして良いのかわからないのじゃろう……どうしたら良いか……それはワシらには助けられん事……一人で解決しなければならん事じゃ……」
「にいちゃん……なんで泣くのさ……」
ユウトの閉じている目のふちから涙が落ちると、タマモも涙を浮かべた。
もう何度もユウトが意識がないまま涙をこぼすところを見てきた。レイナはその涙の意味がわからなくて唇を噛む。
ユウトの涙を拭き取り、手をしっかりと握り
「ユウト様……大丈夫です。レイナはここにおりますよ?」
と優しく声をかけた。マナばあさんは痛々しくて見ていられなかった。
水時計が切れると、ユウトの思念が泡沫のようにきえてしまう恐れがあった。
これまで何度かマナの解放のためにこの儀式を行なってきた事はあったが、ここまで時間がかかるとはマナばぁさんも夢にも思っていなかった。
「ユウトちゃんや……何を苦しんでおるのじゃ……」
その後、日が暮れるまでユウトが目覚める事はなかった。
レイナの強い希望で、屋敷にユウトを移すことになった。マナばあさんも反対はしなかった。
タマモが馬車を回してマナばあさんの家の前につけると、レイナがユウトを背負って馬車に乗せた。
後ろからついてきていたマナばあさんは、レイナに香炉と袋に入れた香を渡す。
「この香を絶やしてはならんよ。」
レイナは小さく頷いて馬車に乗り込んだ。
ユウトの頭をそっと上げて膝枕をすると、タマモに馬車を出すように伝えた。
馬車が動き出し、マナばあさんの家が小さくなる。まさか帰りの景色をこんな気持ちで見るとは思っていなかったレイナは、全く目を覚まさないユウトを見る。
寝ているようで、たまに苦しそうな顔をして涙をこぼして。
きっとなにかと戦っている。それはマナばあさんが言うには、それを乗り越えなければこの眠りから覚める事はない。
ユウトは自分が姉妹のためにこの儀式を受ける決意をした。レイナは危険を顧みずに挑むユウトが今でも誇らしかった。
だが、そのユウトの戦いに自分ががそばにいない事が悔しくて仕方なかった。困っているなら、誰よりも先にこの私が行きたい。力になりたいと願ったレイナだ。
いつも自分の見えないところで、手足も出ないところで戦って、ユウトの役に何も立てていない事が悔しくて涙が滲む。
レイナは胸に手を当てて気持ちを落ち着かせるように目を閉じた。
――私は、ユウト様の御側付きになると決めました。泣いてはいけない。ユウト様は必ず帰ってきます。私が信じなくてどうするのですか。誰が信じるのですか。私しかいない……――
もう泣かない。ユウトは必ず帰ってくる。
どんな事があっても一人にはさせないと固く誓った日に試されている事に運命を感じていた。
――試すなら試すがいい。私は負けない。――
今日の失敗も決意も、絶対に心に刻んで忘れないと誓ったレイナの目には、守るべき大切な人がずっと映っていた。




