第一章 15 :深緑
深淵の闇の奥に、淡い緑の光がゆらめいている。
『なんだ……あの光……』
手を伸ばしてみたがとても届きそうになく見えるが、何故かすぐそこにあるよう見える。
辺りを見回して距離感を失うほどの暗闇に囲まれていることに今更気がついた。
『どこだ……ここは……』
昨日から全く知らない異世界に飛ばされて、獣人に身売りされそうになり、ローシアにも首を絞められて殺されそうになり……
そして、紫のローブの連中に……
『そうだ…… 僕、殺されそうになったんだ……』
記憶が脳の意識の外から中に押し出されるように蘇る。
『たしか……ローシアと家に戻って……それから……走って……囲まれて……っ!!』
途端に胸が痛み出し、押さえてうずくまる。
『っ……てぇ……』
押さえた手を剥がすようにして見たが痛みにつながるような傷はなにもなかった。
『なんで痛いんだ……傷も何もないのに……』
奥に揺らめく緑の光は、まるでこちらに歩いているかのように揺らいでいた。
いや、実際に近づいている。
ゆらゆらと揺れる光は緑色をさらに濃く深く変わり、やがてゆらめきが収まるように形を作り始めた。
形は、見たことがあった。
「あ……あんたは……」
サラサラロングヘアーにデコルテが露わになったピンクのドレス……
閉じている目をゆっくりと開けて、ユウトを見やる。
あの日、この世界に来る前に夢で会った女の子だ。
だが、ユウトから視線をはずし、俯いて小さく消え入りそうな声でユウトに語りかける。
「……ごめんなさい。」
謝った女の子は許しを得る子供のように俯いてユウトの前に立ち尽くす。
「……なんで謝るのさ……も、もしかして、アンタがこの世界に僕を連れてきたのか?」
女の子は俯いたまま肯定も否定もしない。
いや、否定していない。この事実がユウトを激情させる。怒気をはらんで唾を飛ばすほど捲し立てる。
「何でだよ……なんでこんなとこに連れてきたんだよ!!」
「……」
「僕が何をしたっていうのさ! 全部……全部めちゃくちゃにしてさ! 何の恨みがあるんだよ!!」
「……」
「帰してくれよ!! 僕に何ができるっていうんだよ!!今すぐ元通りにしてくれよ!!元の世界に……」
……でも、帰ったところで何ができるのだろう。
ユウトは自分に問いかけた。
またいつものように、朝起きて行きもしない学校の制服を着て、ほんの少しの自己満足で罪悪感を消したような錯覚。
繰り返す虚無の日々。
誰にも知られたくない。ユウトの時間は極めて贅沢に消費されていく。
誰も相手にしてくれない。誰も相手にするはずもない。
声亡き人間は、人生の価値を輝かせる事もなく。
ただ時間を無駄に消費して無言に哀悼もなく土へと還る。
戻ったところで何もできないことをわかっていたユウトは、ポロポロと涙をこぼす。
そうだ、戻ったところで、帰ったところで、これまでの無表情で繰り返す同じ日々が変わるわけではない。また繰り返すのだ……わかっていた。
この世界にきて、姉妹の宿命を知り、初めて人に頼られ信じる事ができそうになった事を思うと、自然と涙が出たのだ。
女の子は小さくまた語りかける。
「ごめんなさい……」
涙を浮かべるユウトの眼前には。女の子の手にナイフ。ただナイフの形状はあの夢の時とは違った形だった。
我に返り、また刺すつもりかよ!と抵抗しようとするがあの夢と同じように体に力が入らなかった。
女の子がゆっくりとユウトに目を合わせ、何も表情を変えずに語りかける。
「大丈夫……あなたは死なないわ……」
「何言ってんだよ……」
あの日、この子が夢に出てきてからろくなことがない。恨み辛みが言葉として口から漏れ出そうになると、ユウトの抵抗全ての自由を奪うように、口の動きも不自由になり、言葉を紡ぐ事ができなかなった。
女の子の手のナイフが、ユウトの胸肉に突きつけられる。
「大丈夫……だから……」
不自由を無理矢理に解くよう、半ば無理矢理に抵抗する。
「大丈夫なわけ……ないじゃんか………………ちょっと待てよ……」
この場面、当然この世界に来る前の夢を繰り返している事はわかったが、前回が初めてで、その後どうなったか。
この世界に飛ばされたのだ。つまり、この女の子とナイフがきっかけで何がが起こっている。今回も同じように何かを変えられようとしている。
この世界に飛ばされて、次は何がしたんだ!と夢だとしても抵抗するしかないと思っていた。
「……やめろよ……また刺してどうにかするつもりかよ……」
「大丈夫……あなたは死なないわ……」
「死ぬとか死なないとか……そんなんじゃ……そんなんじゃないよ! 僕を……僕を巻き込むなよ!! やめろよ!!」
女の子の体が、巻き込むなよという言葉に反応してピクリと震えた。が、表情は変わらず反応は一瞬で、ユウトの意志は伝わっているのに、ユウトの胸にナイフを突き立てた。あの時を繰り返す気だ。
「大丈夫……大丈夫だから……」
子供に言い聞かせるかのように、大丈夫と繰り返した後、意を決したように女の子の手でナイフが突き立てられる。そして、貫かれた。
「ググッ…………ガハッ!!」
痛みはなかった。なかったが、体の中に金属をねじ込まれる感覚は慣れず、思わず気道に入った異物を吐き出すように咽せた。
刺した旨の中から血ではなく深緑の光が漏れて噴射するように広がる。
「……なんだ……これ……」
刺されたところから勢いよく出血するかのように光が放射状に広がり女の子を包む。そして、意識がだんだんと遠のき始める。あの時と同じだ。これが死ぬ感覚なのかわからなかったが、今いる女の子とまた会えなくなる。
光が広がり包まれた女の子は、ユウトを見つめて解けるように消えていく。
「ちょっ……待ってくれよ……何……したんだよ……」
意識が朦朧とし始めた中、何をしたのか、ここがどこなのか、君は誰なのか。聞きたいことはたくさんあったが女の子を掴もうとする手はすり抜けて、そして……
――あなたの力の使い方を……教えてあげるわ……
***********
ローシアの耳朶に残るユウトの胸を貫いた音の後、突っ伏しても感じられるほどの光が顔を向けさせる。
「ユウ……ト?」
グシャリという音の正体は、胸にナイフを突き立てようとした方の腕があり得ない方向に無理やり曲げられていた。
ユウトの胸から深緑にキラキラと耀く宝石のような腕が突き出し、タガーを持つ腕を握って握り潰し、あり得ない方向に無理やり曲げていた。
鮮血が噴き出し、辺りに四散して悶え転げ回る。
「キタキタキタキタ!!!きましたよ皆さん!人形の皆さん!これです!見つけましたよ!フハハハハ!!」
アルトゥロは涎を垂らし、愉悦な表情を満面に見せている。
ユウトの胸から生えた深緑の腕は、意志を持ったかのように動く。
右腕に捕まっていた人はローブを掴まれ、力任せに剥がされたのち、左腕の人物にグシャリという音を立てて叩きつけられる。新緑の腕は落ちているタガーを拾い、右足の人物の背中をザクザクザクザクとフォークで豚肉を柔らかくするようなテンポで滅多刺しにすると、左足の人物は顔の部分にタガーを刺して、左足から離れたところを後頭部を掴み、地面に顔を叩きつけた。
あっという間に四人を戦闘不能に陥れるが、アルトゥロは気色の悪い顔でケタケタと笑っていた。
深緑の腕は発光を始めた。
ローシアはこの光の事を知っている。レイナから傷の手当てを受けるときに患部を照らすあの光。誰もが知っている『マナ』の発光だ。
「なんて……なんてマナの量なの!」
「ああああああ奇跡奇跡奇跡奇跡。ついに顕現なされるのですね。私はどれほどこの時を待ったことか……ああ……ちょっと気持ち良くなってきました……いけませんね。」
アルトゥロは体を気持ち悪く体をくねらせて歓喜に酔っている。
ユウトの胸の腕は、ユウトの体を伝うように移動を始めて、ユウトの右腕に収まった。
歪な形だった。
ユウトの体躯では似つかわしくないほど大きく太い。まるで肩まで覆う大きなガンドレットを身につけているようだ。深緑の腕の光が線のようにまとまり出し、やがて腕や手の細部に巡り血管のようになった。
「そう……マナはそのように扱うべきなのです。実は。あああ。恍惚……愉悦至極とはこのことなのですね。とても……とても気持ち良いのですよ……」
ローシアは目の前で起こっている事が信じられなかった。マナはこの世の生物の血と同じようなもの。光が固形化して形を成す事自体があり得ない。
例えるなら体から血が溢れているが、動き出して形を成して腕になる。そんな夢のような出来事が今目の前で起きている。
だが、この出来事を起こしているのは目の前で意識を失っているユウト……『全てを知る者』だ。
その一点の事実だけで、ローシアは唖然として見つめていた夢のような出来事が、現実で起きている事だと信じる事ができた。
体を起こすユウトは目を開く。
開眼すると全て真っ赤に染まった目になっていた。
――何よあの赤い目……まるでユウトがユウトじゃないような……
まさに別人だ。眉山と眉尻が吊り上がり、眉間には深く皺が集まり。
口は怒る狼のように犬歯を剥き出している。
背中は首の後ろから猫背に曲がっていて、人間とは思えない。人間のような『何か』にしか見えない。
――まるで……獣じゃないの……
まるで人間ではなくなるような、人間から徐々に獣に変化するような有り得ない事が起こっている。
このままだとユウトが深緑の光に支配されてしまうような予感がした。
「ユウト! ダメ! それ以上は!!」
「コラァ! 今まさに神が顕現されたと同じようなことが起こっているのに、なーに馬鹿な事言っとるのか!! ああああああしかし美しい……」
悔しいが神々しく感じていたのはローシアも同じだった。
いや、この場にいる者であれば誰でもそう感じるだろう。眼前にはどう考えても人知を超えた存在だ。
だが、あのひ弱で誰かの助けがないと生きていけないユウトが、人の形をやめてしまうような感覚が拭いきれない。
人の力でどのようにもできない存在…………故に、止める方法もわからない。
――どうすればいいのよ……こんなのどうしていいかわかんないワ!
「とは言え、このままですと私もやられてしまいますねぇ……ふむぅ……これは離れるしかなさそうですねぇ……いやっ!離れたくない!離れたくないんだもん! ワガママ聞いてっ!いやなんだもん!」
地団駄を踏むアルトゥロを横目に、周りを見回す赤い目のユウトは、この辺りにいる紫ローブの連中がどのくらいいるのかを確認しているようだった。
化け物に立ち向かう勇気のある奴はいない。誰も近寄ろうとはしない。
だが、化け物は相手の勇気のあるなし関わらず襲う。
深緑の腕がぶらりと垂れ下がると、後ろから上に腕を伸ばして、人のものとは思えない腹に響く肉食獣のような叫び声をあげて地面を叩く。
反動でユウトの体が宙を舞う。
赤い目の顔が地面を向くと、深緑の手が大きくなり一人を上から叩き潰して、手が地面にまでついた。羽虫を叩き殺すが如くだ。
そのまま握りつぶして裏拳で一人を吹き飛ばし、振りかぶって反対側の三人を叩き潰す。
骨が砕けて肉が弾ける音が響く。
「あらあらあらあら!お片付けが大変だなぁ! 人形さんたちー? も少し頑張ってー?」
アルトゥロの癪に触る激励虚しく、どんどんユウトに潰されて行く。
まるで右腕に支配されて操られているかのように。
ちぎっては投げを繰り返すように、立ち向かう者、逃げようとする者を一人も例外なく人の形を保てないほどに破壊する。
そう、これは完全な破壊だ。
慈悲もない、情けもない。
ユウトはローシアの方を見る。
ローシアを取り押さえている連中を見ると、ユウトの呼吸が目に見えて荒くなっていた。
空を見上げて甲高い雄叫びを上げた。
音圧で体が拘束されたかのように固まる。
獅子が吠えると音圧で腹の奥から恐怖を覚えるような感覚とはまた違った。
ユウトはすぐにローシアに向き直ると、捕まえている連中は手を離し、ローシアが少しだけ動きが取れるようになった。
「離しなさいよ!あんたたち!!」
一人の腹を蹴り上げると、ローシアの体躯からは、威力を想像できないほど宙を舞う。ローシアはその隙に連中から離れた。
間髪入れずに宙に浮いた一人を、ユウトが飛びつき、右手で首を掴むと、ゴリっという鈍い音と共に握りつぶし、下にいるローブの連中に叩きつけた。
建物の壁を利用してまた連中のいる場所に飛びかかると、右手で頭を掴み、地面に擦り付けてすりおろした。
もう一人は振りかぶって殴ると体がくの字に折れ曲がる。
最後の一人は体ごと鷲掴みにして建物に投げつけると、卵が破れたかのような音を立てて地面に落ちた。
ローシアは唖然とするしかなかった。
――これが……全てを知る者の力なの……?
これじゃあまりにも……
ただの殺戮の獣だ。想像しているものとは違う。
深緑の右腕は、立ち向かうものが全ていなくなると、右肩から、前になった新緑の光が集まって飛び出して、ぐちゃぐちゃになった肉塊に触手を伸ばすようにそれぞれに分かれて、全ての肉塊に刺さると、光がユウトに集まるように光だす。
吸い上げていると肉塊は、徐々にその形を保てず灰になって砕けていた。彼らの生命が宿っていたものが全て。
「なんなのよ……なんなのよ! 人が……消える?」
「人ではありませんよ? 人形です。ええ、ええ、人に似て人にあらず。です。彼は殺人を犯したのでは有りません。捕食しているのですよ?ええ。ええ。」
血も、肉も、骨も、ローブの連中の形は灰になって砕けて風に流れて行く。
消えていくという表現が正しい。ユウトに全て吸い取られるように。
「なるほどなるほど、人形では貴方の前では無意味なのですね。これは大変失礼致しました。今度お会いする時は別の生贄をご用意いたしますよ。アルトゥロがお約束しますよ。」
アルトゥロがユウトに語りかける中、ローシアは目の当たりにした現象があまりにも異次元すぎてついていけなかった。
だがローシアはドワーフの村でレイナがユウトの中に眠る力の事について話していた事を思い出した。
――まるで獅子が眠っているような恐ろしい力。――
なるほど……そういう事なのね……レイナ。
これがあなたの見た力なのね……
姉妹の悲願である『カリューダの黙示録を破壊する。』その難易度が少しでもわかる人であれば、無謀の一言で片付けられる夢物語が、今起きた猟奇的で奇跡的な現象を見て現実味を帯びてきた。
全てを知る者はここにいる。口伝で語り継がれてきた昔話が、今ようやく目の前に手が届くところに形となって現れた。
しかし、これはあまりにも想像していたものとは違う。その違和感もあった。
「あなた……この方の付き人ですかね?」
アルトゥロがいつのまにかローシアの後ろで囁きかけてきた。
いつのまに!と後ろに向き直り構えた。
「ははははやめなさい。私を殺したところで私はまたやってきますから。」
「なんなのよアンタ……そもそもユウトに何をしたのよ!」
「何をしたか? 見ての通りですよ?こんな素晴らしい力がこの人物の中にあるのです。ふさわしい祭壇と神器をご用意しなくては、失礼にも程があるというもの……ああああこれから忙しくなりますねぇ……」
「ふざけてるのなら、本当にやるわよ。」
飛びかかれるように足裏で地面を確かめるように捻る。
「ああああやめなさいやめなさい。私はもう去ります。私は私の愛しい人がこの世界に存在することがわかれば良いのです。出来れば手に入れたいですが……まあそれはいつか叶うでしょう。人形が私の思う通りに動けばですがねぇ。」
アルトゥロは、ローブが散乱しているのを見渡して、おでこに手を当てて首を横に振る。
「あああああこんなことなら別の人形にすればよかった……ともあれ、今の状況……私があなたに勝てる可能性は万に一つもありません。去るのが正解。大正解です。悔しいですがね……それではさようなら……ヒヒヒヒ……」
懐から魔石を取り出して握りしめると、アルトゥロの姿がだんだん透過していき、その内ローシアに手を振りながら完全に消えてしまった。
「なんなのよ……アイツは……」
と、アルトゥロの気配が消えると真後ろにユウトの気配を感じた。
呼吸が洗い。肩で息をしているのがわかる。
あんな場面を見せられたあとではあったが、ローシアに恐怖はもうなかった。
何故だかわからない。だが、自分のためにこんな姿になったのだと思った。
人の形を捨てようとしたのが彼の意思なのか、それともアルトゥロの仕業なのかはわからなかった。でもローシアを守ろうとした事はわかった。もし、このユウトに本当に慈悲の心がないのであれば、ローシアはローブの奴らと同じような事になっているはずだから。
だから、ユウトが、人の形ではなく獣のようになってまでこんな事になったのは、ローシアを救いたかったから。そう考えると全て納得がいく。
そして、ローシアはユウトに言わなければならないことがあった。
振り返り、赤い目が少し柔らかくなっていたユウトの頬に手を当てた。
ユウトの呼吸が静かになる。
「ありがとうね。助かったワ。アンタのおかげよ。」
ローシアはユウトを抱きしめた。
「だから……お願い……元通りのユウトに戻って……お願い……」
ユウトの目が段々と閉じられていく、そして目の赤い光がゆっくりと消えて行くと同時に、右腕が形を歪めて深緑の色が溶けてゆき、元通りのユウトの腕に戻って行く。
体から芯が抜けたようにユウトが脱力して倒れ込みそうになると
「危ない!」
ユウトの体を抱き抱えるように受け止めた。
「……危ないワ。ホント肝心なところでツメが甘いんだワ。」
意識がないというよりも寝息を立てている。
先ほどの緊張から、子供のようなユウトの寝顔を間近で見たローシアはあまりの落差に耐えられなくなって吹き出した後クスクス笑った。
――でも良かった……本当に……
ユウトを一旦背負ってミストに向かおうかとしていたところに馬車が近づいてくる音がした。
「お姉様ぁ!」
一緒に聴き慣れた妹の声もする。
「やっと気がついたのね……バカ。」
悪意はない妹への別称を口にすると馬車の方を振り向く。
布の幌がついた馬車に白狐の少年のような獣人馭者の頭上から両手を振っているのは紛れもなくレイナだ。
少し顔が硬っていたようだが、ローシアの腕の中で意識を失っているユウトを見たからだろう。
馬車はローシアの横に慣れたように止まると、後ろからオルジアが降りてきた。
辺りを見回し、紫のローブが至る所に散らばっているところを見て、一悶着あった事はすぐに想像できた。
「派手に暴れたのかね?誰もいないようだが。」
「フン……アタシは何もしてないんだワ。」
「お姉様……また何が良からぬ事を……」
「だから、何もしてないんだワ。ワタシが何かしたら血の海なんだワ。」
レイナはローシアの危機は、ローシアからのマナを感じ取った時にわかった。炎のように燃え盛るようなマナは臨戦体制のマナの動きだからだ。
その時ちょうどドァンクの迎えが馬車と共にやってきており急ぎ向かおうとしていた矢先に、落ち着きを取り戻したかのように静かになり、それでも急いでみると、ローシアの腕に抱えられたユウトがぐったりとしており、辺りには紫のローブが散乱している。
この状態を怪訝に思わない方がおかしい。
「このローブはどなたのでしょうか?」
「さぁ?中身は見れなかったから知らないんだワ」
とぼけるローシアの視界には、ローブをつまみ覗き込み、髭をさすりながら状況を推測しているオルジアの背中がある。
これまでの顛末やユウトの事を悟られぬためには、強引とは分かりつつもこの場はとぼけるしかないと決めたローシアは、レイナを促して一緒に馬車ユウトを馬車に乗せて横にした。
レイナはユウトに外傷はないものの意識のないユウトの容態を確認すべく手早くユウトの体を手探りで診る。
と、馭者の白狐の獣人が耳をはたはたとはためかせてローシアの方を向く。
「ねぇちゃん!」
ねぇちゃん呼びに慣れていたローシアは自分のことを呼んだのかと聞く事もなく、アンタのねぇちゃんになったおぼえはないんだワ。と冷たくあしらう。
ユウトの身に何もないかを確認するのが先だと言わんばかりに視線も合わせない。
「それどころじゃないよ!この足音……鎧が擦れる金属音とマントが靡く音……多分衛兵だよ!!二十人くらいいるよ! 本当に何もなかったのかい?」
獣人の能力は動物のそれに準ずる。人間の聞き取れない音や匂いには敏感に感じる事ができる。
レイナもローシアもそんな気配は感じなかったが、一部始終を見てきたローシアは、あれほどの騒ぎで衛兵が呼ばれていない事はないだろうと薄々予測はしていたが、まさに今誰かに衛兵を呼ばれたのだと予測が的中して舌打ちをした。
馬車の中にオルジアが乗り込んできて辺りを見回す。
「ローシアが何もしていないにしても、ここは逃げるべきだな。捕まったら元も子もない。ドァンクに行く方が優先だ。依頼だからな。」
「……フン。アンタに言われなくてもわかってるんだワ。さあキツネっ子!ここから離れるんだワ。」
「キツネっ子じゃないぞ! 僕はタマモって名前があるんだからな!」
タマモは尻尾を逆毛立たせて威嚇するように言うが、ローシアは気にもとめない。鼻を鳴らして呆れたように首を横に振りながら、タマモに返す。
「アタシの事をねぇちゃんて呼んだじゃない。おあいこよ。」
「ねぇちゃんはねぇちゃんだろ! レイナがお前のことお姉様っていってたぞ!」
「アンタにねぇちゃん呼ばわりされる覚えはないんだワ。それにお前呼ばわりされる覚えも微塵もないんだワ。」
「……もう!お二人とも!そのような口喧嘩している場合ではございませんよ!」
レイナの言葉に我に返ったタマモは、いけね!という言葉と共に手綱を叩くように馬に意思を伝える。
急いで逃げるよ。そう感じとった馬達は一度いななき馬車に力を伝えてその場からまさに逃げるようにして移動し始める。
ローシアは速度を増す馬車後方からローブが散乱した場所に視線を向けて衛兵が追ってこないかを確認して、ユウトをの方に向き直る。レイナが付きっきりで看病し、オルジアはその様子を伺っている。
――アルトゥロ……何者なの……ユウトの力を目覚めさせた? あの、ローブの連中は人間ではないの?
謎めいたアルトゥロの事はローシアだけの胸に留めて、馬車は勢いよくその場をさった。




