第五章 53:瞳孔
ヴァイガル国城下 ギオン達と獣人兵団がシャクナリと巨人化した腐ったモブルを率いるヴァイガル兵団と対峙している頃に、エミグランとミシェルは聖書記最終儀式を控えていた。
ミシェルは見知らぬ部屋に一人で木製の椅子に座って両膝の上に手を置いて下唇を少し噛み、幼いながらに神妙な面持ちで時が来るのを待っていた。
試着した儀式用の衣装に着替えていたが、あれほど気に入っていたにも関わらず、ただ待っていた。
ドアの向こうから二つの足音が聞こえた。
コツコツと一定のリズムでゆっくりと確実に近づいていてミシェルは聞き慣れた足音で誰かすぐにわかった。
ドアがノックされてゆっくりと開かれるとリンとエミグランがいた。
ドアを開けたリンが先に部屋に入り、エミグランが続いてゆっくりと部屋の中に入る。
「待たせたね。準備に時間がかかっての。」
エミグランは不安そうなミシェルに近寄って、膝の上に置いた片手を持ち上げて優しく両手で包み込み膝を折ってミシェルの目をじっと見た。
「怖いか?」
ミシェルは少し考えて頷いた。
「そうか。それはそうかもしれんの。じゃがわしもリンもおる。おぬしの側におるからの」
少し俯くミシェルの頭を撫でた。
「準備に時間がかかったのはおぬしを怖がらせないようにするためよ。じゃがもう大丈夫じゃ」
「全て問題ないと私からも回答いたします」
エミグランの説得を裏付けるようにリンが自分にできるだけの優しい言葉と安心させる笑顔を見せた。
「うん。おばあちゃまとリンがいるから……怖くないよ!」
「うむ……じゃが、最後の儀式の最中は一人で行わなければならぬの」
エミグランがそう言うとミシェルはエミグランの手の中で手を握りしめた。
「おぬしの念願でもある平和な日々を作るために、少しだけの辛抱じゃよ……わかるな?」
エミグランは嘘を言わない。ミシェルはほんの少しだけ我慢すれば争いがなくなる。望む世界を創り出すためにエミグランの言葉を信じるしかない、心と頭の中で恐怖を振り切るために強く目を閉じて「怖くない……怖くない」と何度か呟く。
そして目を開き真っ直ぐにエミグランを見て。
「だいじょうぶ。おばあちゃま、ミシェルはだいじょうぶ!」
「……いい子じゃ。ではリン」
リンを呼ぶと白い手のひらほどの細長い布を両手に掲げるようにミシェルの前に差し出す。
「目を閉じてください。」
ミシェルは言われるがままに目を閉じると、リンは持っていた布で目隠しをして後頭部で結んだ。
「痛くないですか?と質問します」
ミシェルは小さく頷いて「だいじょうぶ」と言った。
「よし。では参ろうかの。手を離すでないぞ?」
エミグランの手を小さな手がしっかりと掴む。ゆっくりと歩き出して優しく手を引くと、反対の手を泳がせるようにして少しずつ歩き出した。
「では、部屋から出るよ」
エミグランのエスコートにミシェルは頷くと三人は部屋からゆっくりと出ていった。
靴音響く廊下をゆっくりと三人が歩く。
「今頃はダイバ国で全てを知る者と双子の姉妹が姫君達と闘い、ギオン達はヴァイガル国を攻めておる。どちらが欠けてもこの儀式を落ち着いてできる事は不可能であった」
ミシェルに理解できるかどうかはさておいて独り言のようにエミグランが話し出した。
「全てはドァンクに住む者達が平等な立場を得るためにじゃ……過去の獣人戦争の続き。自由を得るためのやむを得ない戦い……何もかもを綺麗に精算するには聖書記がどうしても必要じゃった」
そういうと少し沈黙して歩き、また話を続けた。
「そのためには聖書記候補を迎えて、アルトゥロを欺き、ヴァイガル国が関与できない機会が必要であった……それが今じゃ。この時を置いて他にはない。ゆえに、最初で最後の好機じゃ。これを逃せばもう次はない」
最後の機会と聞いたアシュリーの手の力が強くなった。
「大丈夫じゃよミシェル。準備は全て完璧にしておる。あとは何度も説明した通りのことをすれば良いだけじゃ。初めての体験じゃから不安だろうが、おぬしならできる。何度もわしに見せてくれた練習の通りで良いのじゃよ」
「……はい。おばあちゃま」
「良い返事じゃ 何度か深呼吸をすると良いぞ……全てを知る者も、ギオン達も全ての者は目的は違えど目的に至るまでの道のりにそなたが聖書記になるという条件があるのじゃよ」
ユウトが聖書記を必要としている。
ミシェルはユウトに助けられた記憶が鮮明にあった。
ヴァイガル国でエオガーデに追い回され痛めつけられ、何の関係もないレイナが死ぬ寸前まで追い詰められたあの日、ユウトは突然現れた。
絶望の淵からミシェルとレイナを救い出した、ミシェルのヒーローであるユウト。
ミシェルは目隠しをしていても心が温かくなっているのを感じた。暗闇の中に見えた一縷の光。
あの時の恩を返せるのならこんな得体の知れない怖さなんて何でもない。
エミグランの語りの中に出てきたユウトの事で、決意はより一層固くなった。
――わたしが……みんなをたすけなきゃ――
決意は握る手にも感じられたエミグランは、思わず口元が緩む。
「難しい話だったかもしれんが、やるべきことをやれば自ずと結果は現れるものよ」
エミグランは歩みを止めた。止まった事を感じたミシェルは、もう一つの手もエミグランの手に重ねる。
「リンよ」
「はい。」
「客人のようじゃ。たのんだぞ」
「承知いたしました。」
そう言ってリンの足音が遠く離れていった。暗闇の中でミシェルはもう一度エミグランの手をしっかりと握り直した。
「さあ、参ろうか」
ミシェルが躓いて転けないようにゆっくりと手を引くエミグラン。その所作には緊迫した状況でありながら優雅なエスコートのようだった。
「ミシェル、着いたぞ」
リンと別れてからしばらく歩いた後、また立ち止まってエミグランがそう言った。
ミシェルは胸元で手を握る。呼吸が少し荒くなっていて深呼吸をした。
小さな体に緊張感を張り巡らせていたミシェルの背中にそっと手を置き
「緊張するのはそなたが儀式に真っ直ぐ気持ちが向かっているからじゃ。おそらくはここ百年の候補者の中で一番緊張しておるかもしれんの」
緊張を解くようにゆっくり優しく背中を撫でる。
ミシェルは胸で深く息を整えてから口を真一文字に結び、意を決して胸を張る。
「じゅんびできてます。おばあちゃま。」
「そうか……なら始めよう」
ミシェルには見えていないが、目隠しをしていない練習通りなら、床に綿密に描かれた丸い模様。エミグランに尋ねたら魔法陣と称したものの中心にエミグランに促されているはずだ。
足をつまずかせないようにゆっくりと、確実に歩を進める。
「ここじゃよ」
エミグランはミシェルの手を離すと、ミシェルは胸の前に手を合わせて握った。
足音でエミグランが離れ、止まるとミシェルは深く息を吸った。
「森羅万象に宿しマナよ。刮目せよ。私が今世の聖書記として選ばれたミシェル・イランドなり。」
ミシェルの呼びかけに魔法陣が反応して、青く光り始めた。
地面を切り裂くように光が天井まで貫くと、様子を見守っていたエミグランは何度か頷いた。
――良い。その調子じゃ、ミシェルよ――
エミグランの後ろに、誰かが立っていた。
「来たか」
エミグランはミシェルの儀式に障らないように小さくその誰かに確実に聞こえるように言った。
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ヴァイガル城下
大階段の麓では断末魔の叫びが響き渡っていた。
「うおおおおおおおあああ……ッッ!!」
大きな体躯を震わせて、胸元から血が滴り落ちる。
「ギ……ギオン様ッッ!!」
アシュリーの悲痛な叫びがシャクナリの機嫌を大きく削いで思わず舌打ちをした。
「あかんあかんあかんわ。無駄な動きが多すぎんねんおたくら」
シャクナリの鉤爪が、ギオンの胸元深くを貫いていた。
「ほら、うちは片腕が使えんで? それとも息の根を止めるほどに刺してもええんかな?」
と言うとギオンがまた痛みを堪える断末魔のような叫び声が響き渡る。
あのギオンが苦しそうに叫ぶ姿など想像もしたことがなかったアシュリーは青ざめていた。
――なんて速さなの!くそっ!ギオン様が!――
深々と刺さった鉤爪の甲を握るギオンの額からは脂汗が滲んでいた。
シャクナリはギオンに言ったわけではないが、動けば心臓まで突き下ろすつもりでいたし、ギオンもシャクナリの異常なほど禍々しい殺気を間近で感じて動けずに痛みに耐えていた。
「お……お主ほどの手練れが……な、なぜこの国に忠を尽くすのだっ……」
「さあ……なんでやろな? うちは別に獣人はんは嫌いやないで?」
へらへらと笑いながら答えるシャクナリの殺気は変わることなく漂う。
血が鉤爪を伝ってポタポタと地面に落ちると、後ろの方では腐ったモブルが地面を叩きつけていて、獣人兵もヴァイガル兵も構わず蹂躙していた。
悲鳴と怒号が入り混じる。魔石で狂戦士の祝福を授かったモブルは、叩きつける大木のような腕から伝わる感触が良く口角が少し上がって恍惚の笑みを見せていた。
「あのデカブツ……殺しの味を覚えさせたらあかんと思うんやけどなぁ」
「な、何を言うか……き、貴様が……魔石で……」
「せやな! でもでかいのは体だけに……しときっ!」
シャクナリは刺していた鉤爪を捻ってギオンの肩の筋繊維を捩じ切って抜いた。
「うぐあああああああああ!!」
「ギオン様!」
鮮血が噴き出す傷口を蹴ってシャクナリがギオンとの距離を取るとアシュリーが駆け寄る。
「ギオン様……気を確かにすぐに治しますから」
シャクナリのことなど気に求めず、肩を直すために手に白い光を宿す。
「ふふん、あんたも大変やなぁ……ドァンク一の戦士として傷を治されてうちに立ち向かう……」
アシュリーの手の光がギオンの傷口を覆うと痛みが少しずつ蒸発するように消えていく。ギオンはアシュリーの背を守るように動く反対の腕をシャクナリに向けて「何が言いたいのだ……」と問う。
「うちんところの役立たずの元騎士団長も三人血祭りにされて命を落としたのにもかかわらず生きてるんや。アルトゥロはんの力でな? 全ては獣人、ドァンク、エミグランに復讐するためにや。あの三人と今のあんたはおなじやん?治してまた戦うんか?勝ち目のない戦いを繰り返すだけやん」
「なんだと?」
「命をかけて他人の目的のために戦う。そんなん綺麗事やで。誰もが自分の命が大切なんや!口の上手いエミグランに唆されて流さなくてもいい血を流して何が楽しいんや? 勝てない相手を目の前にしてただ命を失ってるだけやん?」
シャクナリは後ろを指差した。巨大なモブルが暴れている。地面を叩きつけるたびに赤い何かが飛び散っていて、それは命が飛び散る様子でもあった。
「見てみ? あの有様があんたやエミグランを信じてついてきた結果やないの? あんたに唆されて着いてきて命をかけた結果、無駄死にや」
朱に染まった鉤爪でギオンを指差して愚弄するシャクナリにアシュリーは我慢ならなかった。
ヒールさえしていなければその喉元に噛み付いてやりたかった。ワナワナと震えるアシュリーの背中にそっと手を置いたギオンは「黙れ小娘!」と犬歯を剥き出しにして吠えた。
「お主には獣人の心がわからんのだろう……獣人戦争から累々と人間に使い潰された獣人達の無念……耐え忍んだ弱者の心を!!」
シャクナリは鼻で笑った。
「わからんなぁ……戦争に負けたんやから大人しくしとけばええんやないの?未来永劫……な!」
シャクナリは予備動作も起こさずに飛びかかってきた。シャクナリの速さは物理的な速度も並外れているが、予備動作なく動き始めて気がつけば間合に入る。
気がつけば地面スレスレに伏せて見上げるような構えで舌をぺろりと出して
「いただくでぇ!!」
鉤爪がギオンの顔を狙った。
「させるかぁ!」
怒髪天を衝くアシュリーはヒールを止め、白い光から炎を手に纏わせてシャクナリの鼻っ柱を殴りつけようとした。
「……あまあまやんなぁ」
シャクナリの強さは、思った通りに自らの身体を寸分違わず動かせる事にある。
つまり、見た体の動きであれば全て再現可能。
これは達人級と呼ばれる技術で習得に幾星霜の時間がかかるとしても、その目で見さえすればすぐに再現できる。
その能力に気がついたシャクナリは、生まれ故郷であるダイバ国で全ての戦闘技術を取得した。
剣豪と呼ばれる師範でさえものの数日で超えてしまったシャクナリの人生は退屈だった。
苦労する事がなく世界で指折りの実力を持つのに苦労もしていない。
苦労がなければ喜びもあるはずがなかった。
アルトゥロと出会い、底知れぬ野望と壮大な計画を聞いて久しく喜びを感じられたシャクナリはアルトゥロの手足となる事をすすんで申し出た。
アルトゥロからシャクナリの出番はまだまだ先だと言われ続けてきて、ようやくこの戦いで「貴女の力が必要になった」と言われたのだ。
喜びが溢れた。歓喜だった。
――やっと、うちの出番が回ってきたんや……お土産はもろてくで!――
炎の拳の軌道はわかりやすく、避けると考えるまでもなくするりとわずかに熱が感じられる程度に避ける。踵を返す前にシャクナリは動きを制しようとするギオンの大きな手を片手で簡単にいなすと鉤爪をついて振り上げた。
「――!!」
突き上げた鉤爪に鮮血の霧雨が散る。
ギオンは聞いた事がない叫び声をあげて顔を手で押さえながら地面に伏せた。
鉤爪の先には小さく白く丸いものが突き刺さっていた。
シャクナリはそれを見て恍惚に舌舐めずりすると、アシュリーにそれを向けた。
何かついていると見えたものが、虹彩と瞳孔だとわかるとアシュリーは怒りのあまり息が止まった。




