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僕と異世界姉妹が魔女の黙示録へ送る復讐譚  作者: ワタナベジュンイチ
第五章:聖書記誕生
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第五章 40:資格

イクス教神殿の一番高い聖堂の屋根の上に、紫のローブで痩せこけ、疲れ切ったような見た目の壮年が腰を下ろして砂塵巻き上がる平原を、見ようによってはせせら笑いに見える顔で眺めていた。

 ドァンク共和国との国境でゴブリンの大群とドァンク傭兵団の衝突があったと聞いて、ここに登って様子を眺めていた。


 ゴブリンの大群はエドガー大森林から現れたらしく、ドァンクの国境に向けてゆっくりと進んでいる様子が観察できた。

 眺め出してから少し経って、ゴブリン側の動きが止まり、自然と笑みが溢れた。


「やはり本物……本物はどのようなものであってもその輝きは誤魔化せないもの……素晴らしいですね。ええ。ええ。」


 アルトゥロはよだれを垂らしていたことに気がついて袖で拭った。

 ひっひっひっと気色悪いこえで笑いながら遠くの戦況を見守るなか、名前を呼ばれた。


「アルトゥロ様」


 振り返るとイロリナが立っていた。


「やあイロリナ君。君も見にきたのかね?」


「……いえ。ダイバ国内で起きた戦闘によるリオスの怪我のご報告に参りました」


 リオスの名を出すと舌打ちし、明らかに嫌そうな顔をして


「今は聞きたくないねぇ……独断で大暴れしたんだろう? いい迷惑だねぇ……それよりもほら、見てごらんあそこを」


 アルトゥロが指差す先ではゴブリンの大群が巻き起こしたのか、霧のように薄く砂塵が舞い上がっていた。

「覚えているかい? あそこでゴブリン共と戦っているのは元騎士団長のオルジア・ヴィンセントだ」


 イロリナは黙ってしばらく砂塵を見つめたのちに


「名前は聞いたことがあるくらいで、誰なのか知りません」


 と興味なさそうに目を背けた。アルトゥロはオルジアとイロリナがお互いに愛し合っていた騎士団長である事を知っていた。プラトリカの海で死んだイロリナを蘇らせて、実験としてイロリナの過去の記憶からオルジアの存在を奪った成果をイロリナの口から聞けて、満足そうに笑む。


「ひっひっひっ……君の仕事に邪魔になるような記憶は私が消したからねぇ…」


「アルトゥロ様とこの国をお守りするのに、余計な思考は邪魔でしかないので感謝いたします」


 アルトゥロの口角が上がって気味悪い笑い声が漏れる。


「もし、あの中で君の大切な人が戦っていたらどうする?」


「……アルトゥロ様が戦っていたら……ということでしょうか?」


「いやいや……そうだねぇ……例えるなら君の……恋人とか」


 ねっとりとした口調で尋ねたが、わざとそうしたアルトゥロの事など気にも止めずにはっきりと答えた。


「私はこの国とアルトゥロ様に命を捧げる誓いを立てておりますので、恋人など邪魔なだけ。考えたこともありません。」


「なるほど。確かに。ええ。ええ。」


 納得したように頷いてから立ち上がると、イロリナの目の前に右手の甲を差し出した。


「……もったいない事でございます」

 

 右手を差し出した理由がわかって、分不相応だと思い顔を背けたが、アルトゥロは右手を下ろす事はなく優しく語りかける。


「いや、いいんだよ。ええ。ええ。君のような従順な戦士がいてくれる事はこの国にとっての財産だからね」


「恐悦至極……身に余る光栄です」


「王や大臣が認めなくてもこの私が必要なのだよ。私だけではなく、この国……いや、この大地に住むすべての人々にとって君は必要な人材なのだよ。どうかこれからもよろしく頼むよ。ええ。ええ。」


 アルトゥロから最上のねぎらいの言葉を受けてイロリナは、これまでに感じたことのなかった幸福感が溢れて顔が熱くなった。


 「……はい。私のような若輩者をそこまで認めていただき感謝いたします」


 アルトゥロの期待の言葉に応えるように、アルトゥロの右手を両手で掬い上げて、顔を近づけて手の甲に唇をそっと置く。


 国に忠誠を誓う王と騎士の儀式だった。国の中心となる王が指し示す指導者の手に接吻を行う事で王と騎士のそれぞれの誓いが示される。


イロリナの記憶にはこれが初めてだが、アルトゥロがイロリナの儀式を見るのは二回目だった。

 最初は騎士団長としてオルジアと共に王の御前で行った騎士団長拝命の儀式の時。そして今目の前で儀式とは程遠いが、イロリナがはっきりとアルトゥロを王として認めて忠誠を誓った瞬間だった。


 今後、オルジアとイロリナの運命が交錯する時、どのような輝きが見れるのか。想像するだけでアルトゥロは興奮で緩む口元からよだれがまた垂れた。


「……楽しみだねぇ。ええ。ええ」


「……はい。全てはアルトゥロ様のために」


 **************


「うおおおおおおおおおおおお!!」


 槍を振り回すオルジアの鬼気迫る戦いに終わりは見えなかった。

 先ほどの先陣との戦いとは打って変わって、やられるゴブリンの数はグッと減った。オルジアの隙を伺おうと囲って距離を保ったまま、襲ってくるゴブリンの数が圧倒的に少ない。


 ――おそらくはオレが消耗することを狙っているのか……――


 人間が弱っていくまで待ち、動きが鈍ったところで襲う。知恵のある魔物がよく行う立ち回りで、圧倒的な数のゴブリン相手となると不利どころか勝ち筋が全く見えない。


 そう都合よく心を折る事などできるはずはないと思ってはいたが、せめて進行を止められるようにしなければとゴブリン達の注意を引き付けているだけで、見切られていつまた前進を始めてもおかしくはなかった。


――適度に暴れて気をこっちに向けさせるしかないか……――


 馬上からゴブリン達の様子を伺いながら、余計な思索をさせないように槍を振るう腕は先ほどから痛みが増してきていた。


 ――本来なら引くべきだが……――


 引くつもりはなかった。非戦闘員が全員ギオンのいるところまで逃げ切ってからでないと意味がなかった。

 防衛ラインを割らずに敵の動きを止める遊撃として務めを果たすのであれば逃げるのは今ではない。ギオンが全員を鼓舞する遠吠えが聞こえるまでの辛抱で、耐えるしかない。


 腕の痛みと折り合いをつけながらやるしかないと痛みを表情に出さず槍を振るった。



 だが痛みは突然悪化する。

 槍を振り切ってゴブリンを数匹蹴散らした後、右肩からミシッ!という音が聞こえて激痛が走った。


「ぐッッ……!!」


 苦痛を知らせるうめき声は噛み殺したが、動きが鈍った事を察知したゴブリン達の表情が砕ける。


 ようやく見えたゴブリン達の勝ち筋。注意深く観察していた彼らが見逃すはずがなかった。


 ――くそっ……まだかっ!――


 ゴブリン達が円を小さくして間合いを詰め始めた。


「やられて……たまるかァァァァ!!」


 もはや動かすだけで激痛が走る右腕を上げようとした。しかしもう肩まで上がらないうえに思いもよらない痛みが肩の芯から指先まで走った。


「うぐっ……!」


 これ以上の戦闘は無理だとわかっていた。しかし、引くつもりはなかった。

 馬も背に乗せているオルジアの右腕の事がわかっているかのように不安そうに両耳を倒した。


「すまんな……お前の脚に賭けるしかない……頼む!」


 倒れていた耳に語りかけると、その言葉を待っていたと言わんばかりに耳を立てて、大きく嘶きながら前足を上げてゴブリンを警戒させて駆け出した。


 前にゴブリンがいようが関係なく突っ込む。

獲物が逃げたとゴブリンは一斉にオルジアに飛びかかるが馬の速さの方が勝り馬にしがみつくことすらできなかった。


「できればギオン達からはなれるように逃げてくれ……みんなが逃げれるように……頼む」


願いを聞いた馬はギオンがいる方向から駆けながら変えてドァンク方面に向かった。


 左腕一本で手綱を握って落馬しないように耐えるのが精一杯だった。


 自分を餌にして引きつける最後の手段は、命懸けの時間稼ぎでしかなかった。

 できればもう少し稼げたら目的は果たせたはずだったが、思いのほか槍を振るえなかった自らの鍛錬不足が悔やまれた。


 勢いを増すゴブリン達の猛攻がオルジアに襲い掛かる。馬はオルジアを守るように大きくかわしながら飛びかかってくるゴブリン達を避けてはいる。避けてはいるが、時間の問題のように思えた。


 ――時間の問題か……ならせめて……助かる命は全て助ける……もう迷わん!――


 オルジアは手綱から手を離しあぶみからつま先を抜いた。


 そして、ゴブリンの大群に身を投げるように左の方へ飛んだ。


「戻るな!いけ!お前は逃げろォォォ!!」


 オルジアのために止まりそうになった馬の尻を大声で叩くつもりで叫んだ。一度だけ首をこちらに向けようとしたが従って、身軽に駆け出した。


 地面に叩きつけられて、体の中にあった空気が全て押し出され、体験したことのない激痛が全身の至る所で走る。

地面と空が何度も入れ替わるように転がったオルジアは、騎士の意地なのか何度も転がりはしたものの槍を手放さず空に仰向けになってようやく止まった。


 鎧を装備しているとはいえダメージは深刻。右腕は落下の衝撃で完全に折れてしまったかもしれないと思った。


――万事休す……か――


 ギオンの遠吠えはまだ聞こえない。


 ギオンの本隊からは離れるように逃げたので、今の状況は、次の瞬間にゴブリンに弄ばれる覚悟を決めなければならなかった。

 現にオルジアの槍の間合いをすでに超えていて、ジリジリと近づきその瞬間を待つしかなかった。


 オルジアは真っ青な空に浮かぶ雲をじっと見つめた。


 ――ヤーレウ将軍……すみません……約束は守れそうにないです――


 ゴブリンの一匹が顎で合図すると、何十匹ものゴブリンが一斉にオルジア目掛けて飛びかかった。


 ――イロリナ……もうすぐ会えるな……――


 青い空が白く濁り始めた。不思議と怖さはなかった。


「キギギィィィ!!」


 暗く暗転した視界はまだ右腕の痛みが残っていた。黄泉の国まで痛みは残るものなのかとゆっくりと目を開けた。


 目の前にはゴブリンの顔があった。

 だが、鎖に絡まってオルジアの体に触れることすらできなく、まるで罠にかかったように見えた。


「――?」


 痛みを堪えて起き上がると、一人の女性が立っていた。


 女性が右腕を上げると、背後から何十、何百もの分銅付きの鎖が弾けるように広がり、オルジアの周りにいるゴブリンの頭を的確に撃ち抜く。


「あの鎖……」


 濁った視界が開けて女性の顔を目を細めてしっかりと見た。


「……エオガーデ……エミグラン様のところにいるエオガーデか」


 エオガーデは右腕を肩の高さに横にすると、横に薙ぎ払った。腐りがまるでエオガーデの手のようにしなりながらオルジアの体スレスレの高さで通り抜けると、断末魔の合唱が響き渡る。


 オルジアが体を起こすと、何十者ゴブリンの死骸が転がっていた。


「オルジア様ぁぁ!!」


 声のした方を向くと、火柱が立ち上る。

烈火がゴブリン達を追い払い、エオガーデのそばにメイド服の獣人アシュリーが両手に炎を纏わせて着地した。


 地べたに倒れていたオルジアに駆け寄って、纏う炎を消してオルジアの額に手を当てた。


「あ……アシュリー……か?」


「オルジア様! よくそご無事で!」


「よく……俺の場所が、わ、わかった……な」


「オルジア様の馬が駆けて来たのを見て、辿ればいらっしゃるかと思って急いできました!」


「そう……か……うぐっ!」


 落下の衝撃で体の中までダメージがあるらしく、喋ることも苦しく言葉が続かないオルジアにアシュリーはエオガーデに視線で合図を送った。

 エオガーデは頷いて鎖を右手の周りに集めた。


「もう大丈夫ですから!喋らないで!私たちがギオン様が来られるまで時間を稼ぎます。」

 

「……みんな、逃げれたか?」


「それはわかりません……ですが、周りには獣人も人間もいません……だからきっと大丈夫です!」


オルジアの容態は深刻かもしれない。アシュリーはすぐにマナばぁさんのところに連れて行かなければ、オルジアの命が危ういと思うほどオルジアの怪我はひどい。


 懸命に戦ったのか、ゴブリンのナイフによるものと見られる新しい傷が数箇所あり、毒が体に回っているのかもしれないと思った。

 もし弱っている理由が毒ならアシュリーにできる事はかなり限られるしヒールしても毒を浄化できるまでには至らず危険な状況は変わらない。


「虫の知らせって本当にあるものなのね。嫌な予感がして来てみて正解だったわ」


 呼吸が小さく早いオルジアの額から手を離し、立ち上がってまた両手に炎を纏わせた。


「こんなにも私たちのために戦ってくださるオルジア様を見殺しになんてできない……きっとあなたもそうですよね……ギオン様!」


 両手に宿した炎を空に向けて何度も打ち上げた。

ここにオルジアがいると知らせるために何度も何度も打ち上げた。


「ギオン様!! ここです!!ここにいます!!」


 大声で遠くにいるギオンを呼びながら何度も打ち上げた。

 

今が好機と倒れているオルジアを狙ってゴブリンが数にものを言わせて飛びかかって来た。

エオガーデの鎖が瞬時に襲うゴブリンの頭を砕く。だが恐れる事なくどんどんと次は自分だと止まる事なく襲いかかってくる。女二人ならどうとでもできると言わんばかりに薄ら笑いを見せながら。



「くそっ!数が多すぎる!!」


 アシュリーは空に打ち上げる事をやめて、襲いかかってくるゴブリンへの攻撃に切り替えた。二人がオルジアに背を向けて目の前のゴブリンを殴り、燃やし、蹴り、くだき、屠る。

 ゴブリン達が想像していたよりも二人に抑え込まれているが、一度始まった流れは止められない。


 ゴブリンは獲物に手が届くところで引けるほど自制はできない。

 仲間を殺された恨みも相まって、勢いはさらに加速する。


 アシュリーの足元に潜り込んだゴブリンの刃が右ふくらはぎを掠めた。


「……! くそっ!」


 足元を狙ったゴブリンを蹴り上げようとしたが素早くかわされた。

 ジンジンと傷口が痛む。掠めたくらいでも痺れるような痛みが少しずつ傷口から広がっていた。


「毒ね……しくじったわ」


 しびれが右のふくらはぎから腿まで広がって来た。右脚を上げる事ができるか確認しなくてもわかるほどに即効性があった。


「さすがにまずいわね……」


 後ろで戦っているエオガーデは右肘を左手で押さえて指の間から血が流れていた。

鎖はさっきまでと先端についた分銅の位置は低く、右腕を庇うように右側面に集まっていた。


 面倒な鎖の範囲が狭まり、二人がナイフで傷を負った事でぴたりと攻撃をやめて、逃げ出さないようにみっちり詰まったゴブリンの輪の中に三人が囲まれた。


「こいつらの常套手段……毒が……回って……くそっ!」


 毒の一部が体に回って来たらしく、しびれが股関節を超えて右半身に広がったらしく、呂律すら危うい。

 右半身の自由が奪われ、自由に動く左膝を地面についた。右半身はもうアシュリーの意識の支配下にはない。


 エオガーデの鎖は地面に落ち、同じように膝をついていた。


 倒れたらおしまい。


 ゴブリンの言葉はわからなくても、ぼやける視界で見える薄ら笑いがそう言っていた。


「倒れてやるもんですか……絶対に……」


 決意とは裏腹に毒の侵食は早い。

視界はぼやけて左膝の地面が当たる感覚も無くなって来はじめた。


「絶対に……絶対……に」


 せめてオルジアだけは助けたかった。この命に変えても同胞を守るために戦ったオルジアを、醜いゴブリンの玩具にされることだけはと、願うと意識がプツリと途切れた。


 柔らかいベットに包まれたように、痺れた全身がまるで空に浮かぶベッドに転がったような心地よさがあった。



「もう大丈夫だ。休め」


 聞き慣れた声が聞こえた。途切れた意識が呼び戻される。毒に抗って目を開けると、ギオンの優しい笑顔があった。

 いつもの優しい眼差し。


「……ギオ……ン」


「ゴブリンの毒は痺れるだけだ。動きを鈍らせて獲物を捕まえるための毒だ。大丈夫だ。命に危険はない。襲われる心配もない。某がいるからな」


アシュリーは痺れている頬に、冷たい一筋が感じられた。ギオンがゆびでそれを拭う。


「あとはまかせよ。某が三人とも無事にドァンクへ連れて行く」


 暖かくて何よりも信じられる優しいギオンの腕の中で、安心して、今度こそ毒が意識を蝕み尽くしまた目を閉じた。


「戦場に飛び込む事は褒められたことではないが……兄と等しく慕うオルジア殿をよく見つけてくれた……感謝するぞ。アシュリー」


 ギオンは怒っていた。


 ゴブリン本隊が露払いの前線部隊とは違って、狡賢く何かの獲物を無理やりでも奪ってやろうと考えているとゴブリンの習性を理解していたからだ。

 

 ゴブリン本隊がギオン達の方に向かって行かなかったのは、先陣部隊がオルジアに潰されたから憎しみで追いかけたわけではなく、盾で前線を作るギオン達の相手をするくらいなら人間のオルジアを狙う方が簡単だからと結論づけたからだ。

 奇しくもオルジアの狙いは成功してゴブリン達を誘導できた。


 アシュリーと、エオガーデがいなかったら今頃ゴブリン達にオルジアの亡骸がすみかに運ばれていた事だろう。


 数による暴力で何もかも罷り通ると浅はかな考えでこんな白昼堂々と事を起こすゴブリンを一匹たりとも生かしておく気はなかった。


 一匹でも成功したと思わせる事は、この戦いにおいて負けと同意義。一つ残せば次の百が生まれる。


 二度と同じ事ができないように楔を打つような遠回しな解決方法は微塵も考えてはいなかった。


 ゴブリンはギオンの姿を目の当たりにして、恐れ慄いていた。何故ならゴブリン達が獣人達を襲うとやってくる鬼のような犬の獣人の存在を思い出したのだ。

そして、ギオンがその犬の獣人だと知っていた。これまで生き残ってきた理由に、逃げるべき時に逃げてきたからだ。ギオンに狙われて生き残ってきたゴブリンが本隊にかなりいた。

 ここにいる歴戦のゴブリン達は、その日ようやく一つの学びを得た。


 自分たちは強くて生き残ったんじゃない。

 運が良かっただけなのだと。


 ギオンが大きく息を吸い込み、細く長く吠えた。

空気を割くようでも、優しく通る遠吠えだ。


 ゴブリン達はこの遠吠えを聞いて思い出した。


過去に仲間達がひどくやられた時に聞こえた遠吠えだ。

思い出すのは怒りではなく、恐怖。この声は仲間達がたくさん死ぬ前に聞こえて来た声だ。

これまで生き残って来たどのゴブリンも、この遠吠えを聞いたら一目散に逃げて来た。


その声の主が今いる。


 ギオンの遠吠えは仲間と認めた者に力を与える。遠吠えに込められたメッセージが体の隅々までに行き渡って、血湧き肉躍る感覚を得る。

 狂戦士の叫びと呼ばれるギオンの遠吠えは、集団戦に適した力で、今この戦場に立つゴブリンに立ち向かう全ての獣人がこれまで感じたことのない高揚感と能力が底上げされた事を実感する。

そして、ゴブリン側には遠吠えに込められたメッセージを知り、緊張が体を駆け巡りいつもの力が出なくなる。


 逃げるべきなのに体が言う事を聞かないゴブリンは、まずギオンのゆっくりと振り上げられた大剣に数匹、ハエ叩きで殴られたハエのように潰された。


「わかっておるだろうな?」



 命を奪い、興奮気味に荒い息遣いのギオンが睨みつける。

 震えるゴブリンたちに実感させたギオンの遠吠えはこう聞こえていた。


 ――皆殺しだ――


 口角が釣り上がり、尖った犬歯を剥き出しにして喉を鳴らすギオンの後方から、獣人達の怒鳴り声が重なって聞こえて来た。


 ギオンの遠吠えで一気に戦況が動き始めた。



 **************


「――た! 目が覚めたぞ!」


 暗闇の中、遠くから呼ばれた気がして目が覚めた。


「――ここは……」


 ドァンク街のヴァイガル国側の道路の脇に作った警備拠点にオルジアは運ばれていた。

 拠点といっても日差しと強い雨を凌ぐように作られた木造の掘立て小屋で、外に置いてある藁を重ねて作った天気のいい日に昼寝用としてサイが作った寝床にいた。


 涙目の赤い顔で覗き込んでいたサイが、オルジアが目覚めて喜び笑顔になっていた。


 次に覗き込んできたのはアシュリーとマナばぁさんだった。二人は少し心配そうな面持ちでオルジアの顔をくまなく見つめる。


「……顔色も良いからきっと毒も抜けたねぇ。全く……無茶な戦いをするからじゃよ」


「私、ギオン様に伝えて来ます!」


 そう言ってアシュリーはすぐに走って去っていった。


 右腕には包帯が巻かれていたが少し動かしても痛みはなかった。きっとマナばぁさんが治してくれたのだろうと思った。


「……そういえば、ゴブリンは……?」


「なぁに心配しなさんな。ギオン達が全部終わらせたよ」


「……そうか……ギオンが……間に合ってくれたのか……」


「馬鹿タレ。アシュリーとあの子がいなければ、とっくの昔に巣に連れていかれて玩具にされてたよ……話を聞いて血の気が引いたよ」


「そうかもしれないな……情けない話だが」


「……生きててよかったよ」


 オルジアが視線を横に向けると、エオガーデがいた。視線に気がついたのかすぐに恥ずかしそうに目を逸らした。


「エオガーデ……あれはユウトがさらわれたときの……」


「ああ。そうだね。エミがしばらく匿っていてね。ようやくアルトゥロの支配から放たれたのさ。言葉は喋れないけどねぇ……あの子もあんたを助けにいったんだよ」


「オレを?」


「アシュリーが屋敷を飛び出して行こうとした時、なぜかあの子がアシュリーを門の前で止めたらしいよ。まあ虫の知らせというやつなのか、何か大変な事が起こってると思ったのかねぇ……」


 マナばあさんはオルジアの右腕を診断するためにマナを当てる。

 目を閉じてゆっくりと撫でるように指先から肩までじっくりと手をかざすと、ホッと一息ついた。


「……もう完全につながっておる。体を起こしても大丈夫じゃ」


 無理はするなよ、と一応釘は刺されたが、起き上がって大きく鼻で空気を吸い込むと、久しぶりにぐっすりと寝たような清々しさがあった。


 

「アニキィィィィィ!!!」


「どわっ!!」


 オルジアの元にサイとユーマとキーヴィが走ってやって来て、サイはオルジアに抱きついた。


「アニキィィィィィ……オレ、もう死んだかと思ったぜ……良かった……本当に良かった……」


 声が震えているサイを見ていたキーヴィは、涙目になりながら鼻をすする。


「あにちぃがおんぶしてここまで走って来たんだぞぅ。泣きながら、死なせねぇ、絶対に死なせねぇって言いながらよう」


 サイは意外と涙脆い事を知っていてその時の様子が目に浮かび、小さく笑った。


「ありがとな。サイ」


面と向かってオルジアに礼を言われたサイは、キーヴィに言われた事が恥ずかしかったのか顔を真っ赤にして「い、いいってことよ!」と吃って返した。

 しかしオルジアには聞かなければならない事があった。しばらく気を失った後、あの戦いはどう結末を迎えたのか、エミグランに報告するためにも知る必要があった。



「それで、被害はあったのか?」


 サイは難しそうな話になるなとユーマの方を見ると、すぐにオルジアの前に出たユーマが説明を始めた。


「ギオン率いる前線部隊。そして遅れて到着したドァンク街からの応援でゴブリンを挟み込む形で対峙。結果、怪我人は数名。両手で数えられる程出てます。死者は数名、逃げ遅れた非戦闘員が……」


「そうか……」


 なぜか顔を曇らせたオルジアにサイが不思議そうに尋ねる。


「ど、どうしたんだよ? あの大群をやっつけたんだぜ?」


「いや、オレの目の前で一人が死んだ。守れなかった……そう思うとやはり喜べない」


 突然、オルジアの頭の上に拳骨が落ちた。


「いてっ!」


「馬鹿タレ。あんたも死者の一人になってたかもしれないのによく言えたもんだねぇ」


 拳骨の主はマナばあさんだった。温め直した濃いバニ茶のカップをオルジアに渡す。


「あんたがそんな顔をしてたら部隊の士気に関わるよ。仲間が殺されることは筆舌に尽くし難いだろうが、仲間の死を乗り越えていくしかないのじゃ」


「……」


悔しさを噛み殺しているオルジアにマナばあさんは続けた。

 

「ドァンクの住民が亡くなったことはわしも心苦しい。じゃがお主がわし達と同じように意気消沈してはならん。こんな時だからこそ今お主にしかできない事を冷静に行うのじゃよ」


 マナばあさんはエミグランの姉。つまりかの獣人戦争を体験している数少ない経験者だけ。戦争の経験がないオルジアにとって言葉の重みが違った。サイもキーヴィもユーマもマナばあさんの意見に大きく頷いた。


「アニキ、マナばあさんのいうとおりだぜ? まだ何も終わってねぇんだしよ。それにゴブリンだろうがヴァイガル国だろうが、負けたら生き残った奴らも殺されるかもしれないんだぜ?」


想像したくもなかった。だが、サイの言う通りだった。痛みがなくなった右肩を撫でて


「明日が聖書記誕生の日なんだから……しっかりしないと……だな」


 と今一度、気持ちを入れ直した。

それは表情にも現れたらしく、サイ達はオルジアが気持ちを入れ直し引き締まった顔を見て安心したらしく「オレたちはギオンの手伝い行ってくるぜ」

とその場を後にした。


 見送るマナばあさんは手を振って「きをつけるんだよ」と見送った。


「あの子達……ずっとあんたを心配してたんだよ。真っ赤な顔がかわいいのに真っ青になっちまってねぇ……フフフ」


「サイが?」


「ええ。あんたはこの街に来てまだ日が浅いからわからないかもしれないけど、獣人は自分の命を危険に晒すようなことはしないものだけど、あんたは絶対に死なせないってみんながあんたの場所に駆けつけたのさ……アシュリーもギオンも、あの子達も」


「オレのために……」


 マナばあさんはもう一つ持って来ていた自分のバニ茶を啜って頷いた。


「それだけ、あんたはこの街にとって必要な人間だと認めておるのじゃよ。祖国に刃を向ける事に抵抗はあるだろうけど、わしからもお願いするよ」


 マナばあさんは飲みかけのバニ茶を置いて、オルジアの右手を両手で包み込んでから


「あんたが命を賭ける時、あの子達も命を賭ける……それだけは忘れないでおくれ……あの子達は口下手だから面と向かって言わないが、ユウトちゃんやお主ははドァンクの希望の光なのじゃ……獣人戦争から続く忌まわしい怨恨を断ち切る光じゃ」


「オレは、そんな大それた事をしているつもりは……」


マナばあさんの手を握る力が強くなった。


「あの子達を守るために命を賭けたこと……これ以上の事があるかい?」


「それは……」


「……エミはこの戦いで、何百年も続く忌まわしい支配……ヴァイガル国中心の世界を壊そうとしておる。おそらく、あの国にその資格はもうないと思っておるのじゃろう……ドァンクから聖書記候補が出た事が起因しておるのかもしれん」


資格はないという言葉をオルジアは自然と認めた。これまでなら騎士団に所属していた手前、賛同できないと突っぱねただろう。だが、すんなりと聞き入れてしまっていた。


「エミのやりたい事をわしは否定しないが、例え命令だとしても、命を軽んじる事はならんよ……」


 まるで母のように優しく諭すマナばあさんの心に打たれたオルジアは、思わず手を握り返した。


「エミグラン様は全てわかった上でオレを前線に出したのです。いざとなれば命を賭ける戦いをしなければならない……ですが、マナばあさんの言葉も響きました。以後気をつけておきます」


 マナばあさんにとって、ドァンクに住む者すべてが我が子のように可愛くて仕方なかった。

 オルジアの優しい眼差しは、マナばあさんを安心させるには充分で、目を潤ませて何度もウン、ウンと言いながら頷いた。


 

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