第五章 39:当千
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ヤーレウ将軍は常々、騎士団は暇な時が一番いいと言っていた。
騎士団が暇ということは、ヴァイガル国に何も脅威がないということだから。
無用の長物に見られるくらいがちょうどいい。剣も弓も槍も使わずに武器達が手入れされるだけで眠っている時が国民が平和で幸せなのだから、と。
オレも同意見だった。
騎士団長としてイクス教の教えを従順に信じて、魔物でさえも命を奪うような命令を下すことはなくやってきた。
それはきっと運が良かっただけなのだろう。
獣人戦争から血で血を洗うような争いが起きなかったのだから。
だからきっとイロリナは死んでしまったんだ
オレが……オレがあの時に止める事ができれば……
きっとイロリナは死ななかったはずなんだ……
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「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!!」
オルジアの腹の底まで響くような怒声は、先頭をがむしゃらに走っていたゴブリン達の注意を引いた。
声のする方へ向くと恐怖を声で表す間もなく槍が下方からすくいあげられて数匹のゴブリンは致命傷となるほどに骨ごと砕かれて飛ばされた。
「ここから先は……通さん!!」
手綱を引くと馬が立ち上がるように前足を上げて、ゴブリンの頭を狙って蹄を落とした後、嘶き駆け出した。
オルジアは駆ける馬上から槍を右後方から掬い上げると、勢いのまま左肩後方に切先を向け左からも掬い上げ、前腕を返してまた右から掬い上げる槍さばきを連続で繰り返しながら群れの中に突っ込んだ。
馬が駆ける速さと槍の勢いが相乗効果となってゴブリンの小さな体ではオルジアの槍を受け止めることなどできるはずもなく、ゴブリンの群れを一騎で破るように駆け巡る。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
鬼気迫るオルジアの怒声は馬の駆ける音と相まって、近くにいたゴブリンの集団を震え上がらせた。
肉食獣の威嚇が本能的に危険を通り越して魂を縛り付けるように身動きができず震え上がるように、オルジアの突撃は本能的に危険を察知する前に、まず命が危うく逃げ場がないと思い至る。
次の瞬間、オルジアと目が合うと、下方から槍の切先がゴブリンをまとめて命を絡み取る。
ゴブリンの中には人間を襲い殺めた者もいる。人間がどうやったら動かなくなり絶命するかを知っているが、目の前の人間はそれを遥かに超えていた。
一振りで十匹近くのゴブリンの命を刈り取る人間なんてこれまでどのゴブリンも出会ったこともなかった。
これが人間が持つ力なのかと思わず唾を飲むその時に馬上のオルジアと目が合った。
次の瞬間には左脇から鈍い音と共に天地がひっくり返った。見上げると大地があって自分の体が見えた。
オルジアの怒声は通り過ぎて、くるくると回転しながら地面に落ちる頃には目の前が白くぼやけて闇が覆い被さりもう命は刈り取られた後だった。
ゴブリンは子供並みの知性はある。数の暴力は理屈はわからなくても、そうすることで多くの生物が恐怖することを経験から知っていた。
先ほどまでバラバラにいた獣人達も数の多さに恐れ慄いて逃げ出したからこそ勝機を逃さず突き進んだだけだった。
それがいつのまにか一人の人間によって覆されそうとしていた。
獲物が手に入る直前に邪魔されることは魔物も獣もいきりたつ。
数の暴力はまだ失われておらず、ゴブリンがオルジア目掛けてナイフを片手に高く飛び上がり、上半身を狙う。
一撃でいい。掠りでもすれば刃にしこんだ即効性の神経毒があっという間に行動を制限する。
そのはずだった。
まるで図っていたように馬が嘶いてから駆け出した。
飛びかかったゴブリン達のナイフは空を切って、オルジアを見失ったゴブリン達は両手両足で着地した。
そして駆け出した馬とオルジアを視線で追った。
オルジアは手綱を軽く引いて速度を緩めてくるりと馬ごと先ほどいた場所に向き直り、また馬の腹を両足で挟み込むように蹴る。
「いくらでもこい!!叩き潰す!!」
雄叫びを上げながら突撃してくるオルジアにゴブリンの一部に動揺が見えたがまだ諦めるはずがなかった。
ゴブリン達の数少ない戦略の数による暴力は、恐れ慄き逃げ回る獣人達を見て、本能的に一方的な蹂躙を感じ取っていた。しかしそれが今は一人の人間に阻止されようとしている。せっかくのご馳走と殺す快楽に酔いしれる予定が一人の人間によって潰されようとしている状況を許せるはずがなかった。
毒を仕込んだナイフで突き刺させばいいはずなのだが、オルジアの槍の間合いに入る事さえできずに馬に轢かれ、槍の餌食になっていく。
ゴブリン達は、オルジアを中心として槍の届かない範囲に間合いを広げた。この邪魔な馬と人間を殺さなければ先に進めないと何度もゴブリン達はオルジアに襲い掛かるが、馬がくるりと旋回し、勢いに乗った槍が振り上げられ、一振りで数匹がまとめて命が刈り取られる。
眉間に深い皺を寄せるオルジアに返り血が垂れ、肉片や骨や牙が飛び散る。もう何匹殺したのかも覚えていないし、槍の切先の切れ味はゴブリンの脂で悪くなり鈍器のように使っている。
だが、ゴブリンは止められなかった。一人の人間の突撃をなす術なく命が散っていく。
朱に染まる人間に、ゴブリン達の中には恐怖が芽生え始めた。
死ににきたのではない。快楽を求めにきた。命を落とす気なんてさらさらないのだ。
鮮血で朱に染まるオルジアの周りから勢いくじかれて次々と立ち止まるゴブリン達に聞こえたのは死の足音だった。
――この人間に殺される――
今まさに雄叫びを上げながら槍を持ち上げて振り下ろそうしても足がすくんで動けず、無数の頭が砕かれる。腹の奥底に響く雄叫びは人間のそれとは思えないほど、大きく低く響く。
威嚇でも警告でもなく宣告。雄叫びが響き渡ると肉片や骨片、元は頭だったモノや腕、脚、臓物が舞い上がる。
紅に染まる馬と人
馬上から睨まれると側面から槍が現れて次の瞬間には腕が無理やりもぎ取られ吹き飛ばされた。
起き上がることもできず、激痛に叫び苦しむところに馬が腹を踏み潰して貫き、地面にしっかりと蹄をつけて駆ける。
まざまざとまとめて命を刈り取る様子を目の当たりにした一部のゴブリンは、オルジアの逆鱗に触れたのだと理解し始めた。
これ以上進む事は命をかけるどころか、一方的に刈り取られるだけだとわからされたのだった。
命よりも大事なものはない。
当たり前の事だが時として見失うことがある。一気呵成に集団で襲い掛かるとき、自分が次の瞬間には死ぬなんて思わず勢いのまま駆け抜けるが、一人の男によって死ぬことを実感させられたゴブリンは、得意かつ唯一と言っていい集団攻撃を抑え込まれていることにようやく気がつき始めた。
現にオルジアの後ろ側である盾を持つ前線に辿りつけたゴブリンはほとんどいなかった。
オルジアの鬼気迫る特攻は、ゴブリンの先駆け部隊を人馬一体の一騎に完全に抑え込まれるまでになっていた。
突っ立っているだけでゴブリンの長い耳朶が震えるほど響き渡る雄叫びと共に、仲間の命が弾け刈り取られていく。
勢いは完全に失われ、オルジアを中心に恐怖が連鎖し始めた。
まだオルジアの間合いにいないゴブリンの一部が後退りを始め、後ろの本隊を避けるようにエドガー大森林の方向へ逃げ始めた。
一度始まった崩壊は誰にも止められる事はなく、逃げ出した連中を見た恐れ慄くゴブリン達は、恐怖と死の足音がもうすぐそこまできている事を否応にも実感して、朱に染まる鬼のように立ちはだかるオルジアに背を向けて背走し始めた。
オルジアは追いかける事は考えていなかった。逃げるなら逃げればいい。立ち向かうなら狩り尽くすだけだと警戒は緩めない。
風に乾きつつある生臭い血の匂いに鼻を擦ることすらできないが、逃げ出すゴブリンの後方から密集したゴブリンの大群が見えた。
問題はこの大群だと思っていた。
走ることもなくこちらにゆっくりと進んでくる光景は不気味にも見える。
「あれが本体……これまで生き残ってきた歴戦のゴブリン……だな」
先頭部隊は露払い。不気味に後ろからゆっくりと距離をとって様子見という策略だろう。
ゴブリンは子供ほどの知性しかないが、それでも学び生き抜いてきたゴブリンは、たとえ傭兵でも遅れを取ることがある。
命懸けの毎日で生き抜いてきたゴブリンに侮る人間が簡単な罠や術中にはまり、簡単に命を落とす事は珍しくない。相手は殺そうとしてくる人間や獣相手に生き抜いてきた連中だ。
歴戦の群れがオルジアにゆっくりと近づいてくる。おそらくオルジアの獅子奮迅の戦いも見ていたはずだ。
無惨な殺し方をする事で心を折ることができる小物は追い払えた。次は本当に命懸けの戦いになる。
朧げだった勝ち筋の輪郭が見え始め、力いっぱいに槍を握り込むと、大きく息を吸い込んで息と一緒に体の力を抜く。
――次は一筋縄ではいかないだろう……命をかけても……――
思考が負に傾きそうになる自分を戒める。
「いや……死ぬ気なんてない。死んでたまるか。オレにはやらなければならないことがある……」
一人馬上から決意を再確認するように呟き
「いくぞ!」
手綱をはたき、馬の腹を蹴るとオルジアの決意に応えるように馬は本隊に向けて駆け出した。
本体の先頭に立つゴブリン達が身構えた。
「……頼むぞ。相棒」
上下する馬の立髪に向けて小さく呟くと、本隊の先頭を飛び越え、ゴブリンに囲まれるようなな場所に着地した。
ゴブリン達は素早くかわして難を逃れたが、オルジアが槍を一振りして右側のゴブリン達を追い払うと馬が嘶いて左旋回し始めた。オルジアは左のあぶみに足を絡ませて、右側に倒れ込み槍を何度も打ち上げた。
用心していたゴブリン達は何が起こったのかと面食らった次の瞬間には潰されるようなうめき声が多重に聞こえ始める。
馬はゴブリン達がいる方へ右半身を向けると、オルジアの槍の振りと馬の旋回速度が相まって、見たこともない速度で槍がやってくる。
危険を察知したゴブリン達はさらにオルジアとの間合いを広げるが、馬が襲ってくる。
まるでオルジアを振り落とすかのように右側面で薙ぎ払うような動きを見せると、オルジアの槍が一気にゴブリン達を刈り取る。
先ほどまで見た動きとは違うし、これまで見たこともない動きでゴブリン達に動揺が走る。
ある程度広がったゴブリンの輪の中心に戻ったオルジアは馬の背にまっすぐと乗り直し、痺れる右腕が震えているのを奥歯を噛み締めて誤魔化す。
「流石にこの数は一人では厳しい……か」
右腕を労るようなそぶりでも見せれば、弱点を見つけたと右腕を執拗に狙う事は目に見えていた。
相手に情報を渡さないようゴブリン達を睨みつけて牽制する。迂闊に飛び込めないように先手を取れはしたが、逃げようともしない本隊全員の心を折るのは至難の業だろうと思っていた。
少しだけ、イクス教神殿の方を見た。
小高い丘の上に作られた白亜の神殿は、景観に浮き出るように目立つ。
騎士団長の拝命を受けた聖堂でイクス教の祝福を受けたあの日の事。今でも思い出せるのは、まだ自分が未練がましく過去の栄光を忘れることができない情けない男だからだと思っていた。
今は数奇な運命の果てに、ドァンクの人間として槍を振るい、聖書記をめぐってヴァイガル国に槍を向ける立場となってここにいる。
運命は変わっても守るべき者がいる。自分を兄のように慕ってくれる仲間達がいる。自分を信じてヴァイガル国と立ち向かう同志がいる。
守るべき者の存在は人を大きく成長させる。一度守るべき者を失い、腐りかけてその日暮らしの傭兵暮らしを良しとしていたオルジアは、姿形は変われど守るべき者ができた。
ギオンやサイ、キーヴィやユーマ。亡くなってしまったがイシュメルの最後の結晶とも言えるミストドァンク。
自己理由で終わらせることができない縁は、自ら舞台を降りて去りかけたオルジアをまた表舞台に戻してくれたのだ。
――恩は恩で返す。絶対に。――
「右腕が使えなくなるかもしれねぇが……お前さんがいてくれるならなんとかなるかもしれんな」
馬の首を何度か叩くと、そうだそうだというかのように何度か首を上下させた。
「もし俺に何かあったら……お前さんだけでも逃げるんだぞ……ゴブリンがいくら走ってもお前さんには追いつけないからな。」
ハミを嫌がるように嘶いてオルジアの言葉に怒ったように前脚を上げた。
振り落とされることなく「どぅどぅ」と言いながら手綱を引く。
「すまんすまん。冗談だ。」
馬を落ち着かせるために首を叩く。
ゴブリンはオルジアの一挙手一投足を見逃さないようにしながらジリジリと間合いを詰めてきていた。
本能的にオルジアの間合いのギリギリまで詰めていて、きっかけがあれば一斉に飛びかかってきそうな距離だった。
オルジアの右腕のしびれはほぼ取れていたが、それと同時に腕の芯から痛みが感じられた。あれだけのゴブリンを腕一本で薙ぎ払ってきた代償だった。
――折れなければどうという事はない……どこまでやれるか……――
馬上から見える大群のゴブリンを右腕一本で全て始末できるだろうかと不安が押し寄せるが
――いや、そうじゃない。何のために戦うんだ……ドァンクに住む人々の笑顔を守るために戦う……当たり前にやってくるはずの明日のために戦う……そうだろ?オルジア――
と、すぐに心の中で言い聞かせた。
顔の力が抜けて笑みが溢れた後、グッと引き締め
「かかってこい! ゴブリン共!!オルジア・ヴィンセントが押し通る!!」
オルジアの気迫に乗じて馬は嘶き、ゴブリンに向けて一気に駆け出した。




