第五章 35:子孫
ユウトはシロが眠りにつく前に言った一言が頭から離れなかった。
――私はあの二人が嫌いだよ――
ローシアとレイナに向けられた嫌悪は、ユウトの心に棘が刺さりっぱなしになっているようにずっと気になっていた。
シロがなぜそう言ったのかも薄々勘付いていた。
――僕の命……か……
全てを知る者として姉妹に迎えられたユウトは、今命を狙われる立場にある。
エミグランでさえ、有事になればユウトを殺すことを厭わないつもりで、あの夜以降は物言わぬ殺意がまとわりつくように感じていた。
二、三歩前を歩く二人の姉妹もあの夜にエミグランに向かって、いざという時の覚悟を示したところを盗み聞きしていた。
シロはアルトゥロとエミグランの肩を持つような考えでいるとわかった今、ユウトは自身の存在価値を見失いそうだった。
――なんのために今生きているんだろう……僕はなんのためにこの世界に……
怠惰を尽くしていた引きこもりの時とは打って変わって、平和に、静かに生きることすら認められない今の状況は、自分は有害である事実が形になって心に刺さり続けていた。
ユウトは、死を経験している。
経験は、有識者の根拠を示さない世迷言よりも根拠になる。乗り越えた経験は自分の糧になるが、死を経験したユウトの脳裏には一つの懐刀のような秘策があった。
――いざとなったら……命なんてなくなったっていい――
ユウトが得た死の経験は、たった一つしかない命の価値を低くした。死をもって自分のいた世界を全てゼロにしてしまったからだ。
もし帰ったところで、またあの引きこもった生活が始まるのかと思うだけで億劫になるので考えたくもなかった。
ユウトはこの世界で生きることで、自分の存在が他人を苦しめることになるのなら、存在しなくてもいい。そう考えていた。
何も知らない前を歩く姉妹は、二人とも振り返り、レイナは手を大きく振っていた。
ローシアは早く来るんだワ!と大声で呼んでいたが、ユウトはローシアの言葉の意味が理解できないほど意識は内側にあった。
「……うん!」
ユウトは駆け足で二人に駆け寄った。
剣舞館での戦いはもう間近。
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ドァンク共和国 エミグラン邸
エミグランは、これまでどの公務にも着用したことのない召物を身につけていた。
白を基調としたローブに似ていて、側で着用を手伝ったアシュリーは、終わって少し離れたところから着崩れがないかをチェックしているときに思わず「イクス教のローブみたい……」
と漏らした。
明日は聖書記の最終儀式を執り行うため、儀式の衣装合わせを行っていた。
「フフフ、そうじゃな。なんせ五百年ぶりに纏うから、着れるかどうかわからんかったが」
「じゃあこのローブは……」
白檀扇子を取り出して自らの顔を緩く扇ぎながら「ご推察の通り、じゃな」と認めた。
アシュリーは目を丸くして
「エミグラン様がイクス教のローブを身に纏うなんて、何か違和感があります……」
と文句を噛み殺したようにボソボソと言った。
「五百年前は彼の国に居たからの。昔すぎておとぎ話のように思うかもしれんが、これで信じれるかの?」
「いえ! 信じてないわけではないですが……」
「では……似合っていないかの?」
イタズラっぽく白檀扇子で口元を隠し、流し目で見やるエミグランに「いえ!」とまた否定した。
「何を着てもお似合いかと思いますが……私は……ヴァイガル国とは因縁がありますので……その……」
言い淀むアシュリーにエミグランはおかしくて吹き出した。
「フフフ……わかっておるよ。冗談じゃ。ときに、ミシェルはどうしておるかの?」
アシュリーが「もうすぐお越しになると思います」と言ったすぐ後にドアがノックされた。ドアの向こうからおばあちゃま!と元気な声が聞こえてくる。エミグランが入るように促すと、開かれたドアにはリンとミシェルがいた。
ミシェルも同じように白いローブを着ているエミグランを見て目を輝かせて
「おばぁちゃまー!」
と駆け出してエミグランの脚に抱きついた。
「おお、ミシェルや。よく似合っておるよ」
「おばぁちゃまとおそろい!」
確かにミシェルとエミグランのローブは色も形も似ていた。二人が同じような服になったことが嬉しくてミシェルは上下に体をゆすって嬉々として見エミグランを見上げるとそっとミシェルの頭に手を置いて撫でた。
「ミシェルや」
「はい、おばあちゃま」
「いよいよ聖書記の最後の儀式だよ。怖くないかい?」
「……どうしてこわいの?」
「少し前に話したこと覚えているかの?」
ミシェルは天井を見上げて何かを思い出そうとしていた。
「聖書記は国を法で守る力がある、故に狙われることもある……とお話ししたね?」
ミシェルは思い出して「うん!」と元気よく返した。
「怖くないかの?」
「うーん…………こわいよ」
ミシェルは視線を落とした。
「でも、こわいけど……」
「けど?」
落とした視線をすぐにエミグランにもどすと
「おばあちゃまやりんたちがいてくれるから平気だよ!」
エミグランはそう言うミシェルの手は少し震えていることに気がついた。子供ながらにエミグランに気を遣っているのかと思うといじらしくなり、かがんでミシェルを抱きしめた。
「よく決意してくれたの。ミシェルが自分がやりたいと思わないと聖書記にはなれないのじゃ。わしはミシェルを誇りに思うよ」
「うん。おばあちゃま……」
「ん? どうしたのじゃ?」
「……ミシェルのこと、ちゃんと守ってくれる?」
そう言ったミシェルの体の震えが強くなった。
エミグランはイクス教神殿での出来事を思い出し、きっと神殿内での出来事を思い出し、よほど怖い思いだったのだろうと震えるミシェルの背中を何度も何度も優しく撫でた。
「当たり前じゃよ。必ずミシェルを守るからの」
「ほんとに!?」
「ああ。おばあちゃまは嘘をつかないよ」
何よりも信じられる言葉を聞いて、ミシェルの体の震えは収まっていった。
「リンや」
呼ばれたリンはすでにエミグランの横にいて静かに「はい」と返事をした。
「ミシェルの着替えを手伝ってやってくれ」
「はい。かしこまりました」
エミグランはそっとミシェルから体を離すと
「儀式までは普通のお洋服でいよう。わしも着替えるからの」
と優しくミシェルに言うと、ミシェルは一度だけ深く頷いてリンの手をにぎった。リンはエミグランに一礼してから嬉しそうにスキップするミシェルと共に部屋を出ていった。
アシュリーはすでに着替える洋服を用意し終わっていて、白いローブを脱ぎ始めたエミグランを手伝い始めた。
エミグランは貴族会代表に再び戻ってから、以前よりも忙しくなり、こうして部屋で二人きりになる機会は少ない。
イシュメルとユーシンが亡くなり、代表に戻ってから情勢が目まぐるしく動き始め、その中心にはエミグランが必ず存在している。屋敷の中で呼ばれる事はめっきりと減ったが、こうして久しぶりにエミグランの側でお支えできると心弾ませて今に至っている。
ローブを脱ぐ衣擦れの音が止まり、はらりと純白のローブが床に落ち、ローブにひかぬほど白いエミグランの細く美しい背中に淡い桃色の髪が元の場所に戻るようにふわりと腰まで舞い落ちた。
エミグランに長く仕えるアシュリーでさえも、桃の髪色と白い肌の柔らかい色の交わりに思わずトキを忘れて見惚れてしまいそうになるが、我に返りローブをまとめてエミグランの足元から拾い上げた。
そしてすぐにそばのテーブルに畳んでおいてあった公務用の衣装をエミグランの背中から羽織らせた。
「なにか言いたげじゃな」
袖を通しながらアシュリーに背中から問うと驚いて「はいっ!?」と声が上ずり、頭上の耳がピンと天井に突き刺さるように立った。驚いたときのアシュリーの癖だ。
「言いたいことは遠慮せずに申せ」
「い、いえ! 私がエミグラン様にお仕えしてからお変わりなくお美しいと……お背中と御髪の色合いに心奪われておりました……」
エミグランには嘘をつけない。正直にアシュリーが伝えると、まだ少しはだけた衣装の合間から、白く華奢な肌が見えていた。
アシュリーが顔を赤らめながらそばに近寄り、手際よく整えると「ありがとう」と言って優しくアシュリーの耳を触った。
――――!!!!
屋敷でこれまで感じたことのない感覚に思わず悲鳴を上げて飛んでエミグランから離れた。
いたずらが成功した子供のように笑む笑みグランが、はじけたようにひとしきり笑うと
「すまないね。あまりにもアシュリーが初々しくての……くっくっく……」
と説明してから噴き出してまた笑い出した。
思い切り笑うエミグランにアシュリーは、エミグランらしからぬ行動だったが、久しぶりに笑顔を見れてうれしくなった。
イシュメルがなくなってから貴族会代表として休む暇もなく、東奔西走し屋敷に一日とどまることが珍しく、いつもリンが側についていたこともあってなかなか会う機会がなかったが
久しぶりに主人の笑顔が間近でうかがえることができて安心した。
――よかった……前と変わらないエミグラン様で……――
触られた感覚のある耳を何度か撫でて落ち着かせると、いつの間にかいつもの貴族会代表の面持ちで
「時にアシュリーや。街の様子はどうなっておるかの」
と問われ、瞬時にエミグランの部下に戻った。
「は、はい。すでにエミグラン様が手配された傭兵、及び各貴族会から派遣された兵が参集しております。オルジア様を筆頭にヴァイガル国との防衛線を設定し、仮ではありますが前線設備を整えているところでございます」
「そうか。そのあたりはわしよりもオルジアに任せておけばよいだろう……国民の避難状況はどうなっておるかの?」
「はい、国民の半数近くが避難を希望しており、受け入れを表明されたノースカトリアへの輸送は今も続いております。ですが受け入れ人数を超えているため、あふれてしまった一部の国民は、広い敷地があるダイバ国近くの宿場に留まる等、まだ混乱する様相を見せており、ミストドァンクの傭兵たちと、私たちエミグラン邸のメイドたちで対応中でございます。」
「そうか……少なくともダイバ国はどちらにつくのかはっきりしないと表立ってはなにもできんじゃろう。あと一日は必要じゃな」
いつものように淡々と状況整理するエミグランだったが、アシュリーは腑に落ちない疑問があった。
「エミグラン様……」
「……どうした?アシュリーや」
「……あの、言いにくいことなのですが……」
「かまわんよ。怒ったりはせん」
「は、はい……その、ヴァイガル国との戦争は、どうしても避けられないのでしょうか」
「……彼の国で最重要である聖書記がこちらの手の中にある。それだけでも彼の国は攻める理由になるの」
「もしそこまで重要な人物なのであれば、なぜ今まで戦争にならなかったのでしょうか。ここにきてあまりにも性急な気がします」
エミグランは白檀扇子で顔を仰ぎ、香りを楽しみながら答えた。
「……イシュメルの外交能力の賜物でもあるが、実際は聖書記の本当の力を知るものが彼の国に一人しかおらんかったからじゃ」
「一人しかいない……それは!」
エミグランがヴァイガル国で一人、名前を挙げるとすればアシュリーも知っている人物がすぐに浮かんだ。
「当然、アルトゥロじゃ。奴は知っているよ、聖書記の力をの。彼の国の主導権はおそらく奴に渡っている……そして気づいたはずじゃ。ミシェルの素性を」
「ミシェルの素性?」
エミグランは深く頷いた。
「イクス教神殿で行われる必須の儀式をどうするかが肝であったが、ほとんどは素性がわからずに行われて安心したが、最終儀式までには気づくじゃろうと思っておった。わしが出向いて正解であったよ」
ミシェルはかなり前にエミグランが連れてきた子供で、理由は語らなかったがエミグランが預かることになったと聞いていた。
ユーシンもイシュメルが預かった子供で、養子となったこともあって、何かのっぴきならない事情があるのだろうという認識だった。
聞き分けが良く、小さいながらに気をつかうかわいらしい子で、メイドたちがかわいがることは必至だと思っていたし、実際にその通りになった。
それが今や聖書記候補だ。
今まさに、ミシェルの素性という言葉をエミグランから聞いて、こうなることを見据えていたのだろうとアシュリーは理解した。
「エミグラン様は、ミシェルのことを多く語りませんでした……ですが、こうなることをわかっていらっしゃったのですね」
「もちろんじゃ」
「ミシェルは一体……何者なのでしょうか?」
「……それを語る前に、ミシェルの正式な名前を知っておるか?」
問われてアシュリーは頭をひねって思い返したが、エミグランやリン、ミシェル本人からも聞いたことがなかった。
「……いえ、聞いたこともないです」
「理由があってな、隠しておいた。じゃがもう時は迫ってきておるから話しておこうと思う。ミシェルの名前はミシェル・イランドじゃ」
「ミシェル・イランド……イラン……ド!!」
「聞き覚えはある……はずじゃな?」
聞き覚えがあるどころではなかった。もしアシュリーがエミグランに仕えていなければ気にも留めなかったかもしれない普通な名前だが、全てを知る者と双子の姉妹が現れた以上、偶然とも思えなかった。
むしろ、そう考える方が自然とさえ思えた。
唾を飲みこみ、思い至った考えを恐る恐る口に出す。
「エ、エミグラン様……もしかして、ミ、ミシェルは……」
勘づいたアシュリーに頷いたエミグランは、右手で三本の指を立てた。
「マーシィ・リンドホルム、カリューダ・エラスティーゼ、クライヌリュ・イランド……五百年前の三人の魔女……アシュリーの推察の通りミシェルは魔女クライヌリュ様の子孫じゃ」




