第五章 24:悲運
ダイバ国 シューニッツ家当主の長女
マリア・シューニッツ
彼女は物心がついた頃に母が病で亡くなった。
記憶は残酷なもので、覚えてしまったことは忘れられない。
忘れたと思っていても、脳のどこかに残り続けているものだ。
マリアが幼き頃に享受した母の愛情は、彼女の心と記憶にしっかりと残っていて時折夢に現れるが、記憶しているはずの優しい笑顔がどうしても思い出せなかった。
母がサリサを身ごもってから体調を崩したこともあって、亡くなるまで母のそばにいることは叶わなかった。
マリアはサリサが生まれたことに喜んでいたのだが、母が亡くなったことを父クズモから伝えられた。
「マリア。大切な話があるんだ」
「どうしたのお父様? ほらサリサを見て? すやすやと眠っていますよ」
「すっかりお姉さまだね、マリア。」
「うん。ジュリアも待ちきれなくて寝てしまってるの」
「……お母さまとも会えていないからね」
「うん……お父さま、ききたいことがあるの」
「なんだい?」
「お母さまはお元気なの?」
「……」
「おからだの調子がわるいって聞いているから、マリアはお母さまに会うことをずっと我慢してたけど、もうすぐ会えるの?」
「マリア……お母様のことで大切な話があるんだ」
「どうしたのお父さま? 泣いているの?」
「マリア……お母様はね……」
亡くなった事実を告げられた時のことはよく覚えていない。記憶にあるのは父の体のぬくもりとにおいを鮮明に覚えていた。
のちにひどく泣きじゃくっていたと聞かされた。
今マリアが、その時の父の年齢に近くなって人生経験を積み改めて思うが、父は母に子育てのほとんどを一任していたこともあって
母が亡くなった事実をどのように伝えるべきかという判断を誤っていたと思っていた。
マリアだけに事実を告げた理由は未だにわからないし、聞く気もなかった。
ただ
「お母様はね、獣人の病に罹ってしまってお空に旅立ってしまったのだ。もう……会えないんだ」
鮮明に残るクズモが語った母の死因だけは、いついかなる時でもすぐに思い出すことができた。
――獣人が……お母さまを殺した――
必要な事実は、マリアの脳裏に深く深く刻まれた。
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「臭うわね、獣人のにおいが」
オルジアに化けてユウトたちから後ろに離れていたタマモは、マリアの異様な雰囲気に飲み込まれそうになっていた。
タマモはエミグランの屋敷から出ることは、ユウトが現れるまではなかった。
ドァンク街に住むマナばぁさんに、エミグランの使いでバニ茶を持っていく程度のお使いくらいのもので、ダイバ国には今回初めて足を踏み入れた。
クラヴィとユウトに会いに行く名目でここまでやってきたのだが、まさか自分がターゲットにされているとは予想だにしていなく、マリアの芯から凍るような冷たい視線はタマモを怯えさせるには充分だった。
まっすぐとタマモを見据えて歩み寄ってくるマリアにタマモは後ずさる。
「どうしたのかしら? あなた、人間じゃないのかしら?」
不敵な笑みと発言で、追い詰めるマリア。ユウトはいてもたってもいられずに
「クラヴィ……!」
思わず声をかける。タマモの変身は、クラヴィの透明化と同じようにこれまで見抜かれることはなかった。
しかしマリアはおそらくタマモのにおいで正体に気が付き始めていた。
かといってクラヴィが止めることも憚られた。
この後、シューニッツ邸に忍び込むにはタマモに近づいて匂いがつくことを避けたいと本能的に結論に至って、近づくことができなかった。
ゆっくりと歩を進めるマリアにおびえるタマモの間に、白い影が走りこんできた。
「ワン! ワンワン!」
ユウトの袋の中からシロが飛び出して、マリアに小さい体を精一杯使って威嚇して吠えていた。
「シロ!」
ユウトは吠え続けるシロに駆け寄って抱きかかえて「す、すみません!」とマリアに深く頭を下げた。
突然の小さき抵抗に、マリアは毒気を抜かれた。
「……だれの差し金かしらね。まさかこのワンちゃんが自発的にそうしたのかしらね」
まさにシロが自発的に行ったことだったが、まさかこの小さい犬が世界を混沌に陥れた
カリューダの知恵を持つ犬だとマリアはそこまで見抜けるはずはなかった。
「マリアお姉様!!」
マリアを呼ぶ声を阻むやじ馬たちが自然に割れてた先には、サリサとジュリアがいた。
「あら、あなたたちも来たのね」
この三人がシューニッツ三姉妹かとユウトは三人の顔を記憶するようにじっと見た。
その視線に気が付かないサリサとジュリアはマリアが無事であることに安堵した。
「どちらに行くのかくらいはサリサに言っておくべきだったかしら? 心配性だものね」
「わかっているなら教えてくださいね?マリアお姉様」
「フフフ……気を付けておくわ」
マリアはタマモがいた位置を見直すとそこに姿はなかった。あたりを見回してから
「あなた、二人に置いてけぼりにされていないかしら?」
とユウトに尋ねると、ユウトもあたりを見回して、クラヴィとタマモがいなくなっていることにようやく気が付いた。
――きっと、タマモを助け出すためにスキをついてクラヴィがタマモを連れて逃げたんだ――
クラヴィならきっとそうするという確信があった。
「私達が探してあげましょうか?」
マリアの提案に首を横に何度もふってから「だだだだだだだだ大丈夫ですから」
と慌てて返事をすると、マリアはユウトの慌てっぷりがおかしくなって微笑んだ。
「す、すいません! 失礼します!」
今すぐにこの場を離れないと機会を失うと思い、ユウトはシロをだきかかえて野次馬達の隙間を見つけて走り去っていく。その様子をじとりとみていたジュリアはマリアに尋ねた。
「あとをつけますか? 」
「……いえ、放っておきましょう。おそらくあの中のどなたかが明後日の試合の相手でしょうね。それにあの不愉快な臭いをまた嗅ぎたいとは思わないから」
「わかりましたわ。サリサ、余計なことはしないようにね」
「はぁ?! なんであたしが余計なことするって決めつけんのよ!」
顔を赤くさせてジュリアに詰め寄るサリサを、マリアは大きく柏手を叩いて制した。
柏手の音は、三姉妹を取り囲む野次馬の耳目をも集めた。
「さあ、祭りを楽しみましょう。こんなところで時間を使うのは勿体のうございますよ?」
マリアの慈愛に満ち溢れた笑みは、周りを取り囲んでいたダイバ国民のボルテージを一気に高めさせ、爆発するように歓声が湧き起こると、姉妹の名が重なり合う三重奏が始まり、しばらく止むことはなかった。
三姉妹を讃える重奏が小さくなって、空から小雨に気がつくかのように見上げたレイナは姉に尋ねた。
「……何の騒ぎでしょうか」
「……少なくともユウトの事ではないことを祈るんだワ……」
怒りを堪えられずに顰めっ面で先を歩くローシアは、稽古が終わってからユウトが行方不明になっていることに憤っていた。
「まったく……見つけ出したらしっかりと問い詰めてやるんだから」
ローシアは、ユウトとレイナに早く二人で話をさせたかった。
二人の状況はあまり良くない。
だが、人間関係の問題は家族であろうと他人であろうと、まずは話すことだとレイナを諭した。
ユウトが生身でワモと稽古した事は褒められる事じゃないと今でもそう思っていたが、ユウトにはユウトの思いがあるはずだと
あとはユウトと話をするだけ。
ユウトとレイナの関係を姉として、そして自称恋愛マスターとして見届けたいローシアは、突然【祭りに行ってくる。心配しないで】と、この世界の文字を習ってまだぎこちなさが残る書き置きを残していなくなっていた。
「レイナ、さっさと探し出してあのバカ。連れて帰るんだワ」
レイナはユウトの事が本当に心配していたが、祭りに一人で行ってしまった事が自分のせいではないかと思っていた。
「……私が見つけたら、どうすれば良いのでしょうか……」
「はぁん? あんたねぇ、そんなのゲンコツして、何一人で遊んでんのよ!って言ってやればいいんだわ!」
「そ、そんなこと出来ませんから!」
両手を横に振って拒否するレイナの反応は予想していた通りで、ローシアはため息をついてレイナに指をさす。
「大体アンタが道場で大声で泣き出すからこんなことになったんでしょ!」
「それは……はい、そうです……けど」
「何うじうじいってんのよ! さっさとあのバカに会って謝ってきなさいよ!アンタが今すべき事はアイツに謝る事でしょうが!」
「は……はいぃ」
レイナはユウトに向けて酷い事を言ってしまい、合わせる顔がなかった。今朝も稽古に向かうユウトの後ろから気づかれないように隠れて見ていたレイナがあまりにも情けなくなって尻を蹴り上げた。
「ホント、アタシがいないと何もできないお子様なんだから」
「申し訳ないです……お姉様」
レイナはいまだに恋愛経験が全くないローシアを、恋の師と仰いでいて、さっきまでユウトに会う事すらためらっていたレイナを焚き付けて、ようやく重い腰を上げて祭りに行ったユウトを探し出す事にした。
しかし、ダイバ国で右も左も分からない二人は、大通りに出ることすら叶わず、人気のない裏通りを迷っていた。
迷っている元凶は、天性の方向音痴であるローシアなのだが、レイナはユウトの事で負い目を感じていて、ローシアの言うがままに進んでいた。
当初は乗り気でなかったレイナだったが、歩きながらユウトを想い思考を巡らせて続けて、早く会いたいとまで思うようになっていた。
しかし、不測の事態は突然現れる。
「兄貴! あいつらです!」
路地から現れた見たこともない男達が突然二人を取り囲んだ。そして後から大きな男が現れた。姉妹を見下ろすと舐め回すように見定めて
「なかなかの上玉じゃねぇか! でかしたぞ!」
「何か用かしら? 用事があるからアンタ達と話す時間も惜しいんだワ」
「黙ってろクソガキ」
「――!」
「俺たちは魔女狩りだ! オメェから異様な力を感じるなぁ……俺たちとついてきてもらおうか!」
ローシアとレイナは魔女狩りと言う言葉を看過するはずがなかった。
魔女の末裔として生きてきた二人にとって魔女狩りは禁忌だった。
この男達の目的は、祭りで集まってきた他国の女を魔女に仕立て上げて、反抗できないようにして好き勝手にする事を目的としていた。
さっきはシューニッツ家の長女、マリアに上玉を手に入れる寸前で阻まれて逃げてきたのだが、また同じ事を繰り返してきた。
マリアに阻まれた時に運が無かったと大人しくしておけばよかった。
魔女狩りをこの世界で最も憎む二人の前で魔女狩りと言う言葉を使った時点が運の尽きだった。
ローシアは指の関節を音を立てて鳴らし
「丁度いいワ。こいつらで」
男達はローシアが何を言っているのかわからなかった。
しかし、理解するには時間はそんなに必要はなかった。
男達の視線からローシアが消えて、体中に『わからせるために必要な激痛』を存分に味わい、ローシアにあっという間に痛めつけられて動けなくなった。
残り一人になった大男が悲鳴を上げて逃げ出そうとしたところを、膝裏を錐揉みに回りながら膝の関節を砕いても構わない勢いでローシアの蹴りが撃ち抜くと、体の中から響く鈍い音と共に崩れ落ちた。
「アンタ……次見たら……」
「ひ、ひ、ひいいいいいいい!!」
大男は情けない悲鳴を上げながらローシアを見上げて、頭上まで振り上げた踵を見た。
また消えたと思うと、股間直前で踵は止まった。
「……潰すわよ」
「ひいいいいいい……」
大男は白目を剥いて泡を吹いて地面に倒れる間に
――……運がねぇどころの話じゃねぇよ――
と教訓を得て気絶した。
「さあ、行くわよレイナ」
「……はい」
二人は駆け出してその場を後にした。




