第五章 5:脂汗
ワモの元を去ったユウト一行は、道場の門をくぐり抜けたところでローシアが目に見えて肩を落としながら、落胆のため息をつく。
「やっぱワモ様は一筋縄ではいかないんだワ」
先ほどのワモとの交渉の評価は、誰が見ても失敗だろうとユウトも思っていた。
レイナは
「まぁまぁ。そんなに落ち込まなくても考えが変わる事はありますよ。もしかしたら明日には変わってるかもしれませんし」
レイナは自身の胸の前で両手を合わせにこやかになだめるが、ローシアは
「さすがにエミグラン様のもとにいるってのがまずかったんだワ…仕方ない事だけど」
とレイナの言葉を全く聞いていないように、先ほどの交渉が失敗したであろう要因をひとりごちる。
全く反応がなく一人の世界で考え込むローシアにレイナは、姉妹らしいと言うべきか、先ほどのローシアとよく似たため息を吐いて
「こうなったらしばらくは話を聞いてくれませんわね……」
ローシアが考え事をしながらブツブツと呟き歩く後ろを二人はついて歩く。
ユウトの腕の中にはシロが抱きかかえられていてずっと眠っている。
レイナはユウトの肩から覗き込むように、シロの無防備で可愛らしい寝顔を見てクスクスと笑う。
「シロはユウト様にしか懐かないのは何故なんでしょうね?」
「……なぜなんだろうね、僕もわかんないや」
レイナはすやすやと心地よさそうに眠るシロから視線をずらして、ユウトの横顔をチラッと見た。
昨日から言葉には表せないが、レイナには明らかに変わったように感じるユウトの変化を探るつもりだったが、一瞬だけ見た横顔では何も読み取れるはずはなかった。
いいように言えば落ち着いている。悪いように言えば無関心になっている。
何故そうなったのか、皆目見当もつかなかった。
レイナは決心してユウトに尋ねた。
「ユウト様……なにか、ありましたか?」
ユウトは驚き、「えっ?」と言うと同時にレイナの方を向いた。
レイナは悲しそうに眉をハの字にして、言葉を間違えれば、悲しくて涙をこぼしそうな表情にも見えた。
「ど、どうしたの? レイナ」
レイナはユウトの聞き返す言葉でさえも取り繕っているように感じていた。もしかしたら、ユウトを想うあまり、ローシアとの姉妹の絆で感じられるマナの変化や動きを感じられるように、ユウトのことがマナを通じてわかるのかもしれないと思い始めていた。
その証拠に、ユウトの心配する言葉に伝わるものがなかった。
しかし、レイナが今感じている事を具体的に言葉にはできなかった。したくなかった。
「ユウト様……何か辛いことや困っている事がありませんか?」
と聞くのが精一杯だった。
否定されるかもしれない気遣いは、時として気遣った方の心を痛める。
ユウトのことを誰よりも心配しているから、せめて自分には気持ちを打ち明けてほしいと思う。
しかし、それは気持ちがわかるという自分勝手な一方通行のエゴにしかならない事だってある。
だから、言葉を選んで尋ねた。
この質問に、ユウトが正直に答えるかなんてわからない。
ユウトのことを誰よりも考えていたから、おそらくは答えてくれないかもしれないだろうとレイナはわかっていた。
「大丈夫だよ。心配しないで」
予想通りの言葉と、無機質に見える笑顔で返してきたユウトをほんの一瞬だけ憎たらしく思ったが、そんな気持ちはすぐにどこかに消え去った。
「そうですか……わかりました。」
「レイナ……本当に大丈夫だからさ!」
ユウトは薄暗くなったレイナの表情に焦った。
今考えていることをレイナに悟られたくはなかった。いずれアルトゥロの手に自分が落ち、大災の魔女カリューダが蘇る前に、カリューダの聖杯を受け継いだ自分が殺される未来に恐れているとは、本人を前に言いたくはなかった。
ユウトは死を恐れていない。
何故なら一度死ぬ経験をしているからだ。
ユウトが一番恐れているのは、姉妹が悲願を果たして喜ぶ姿を見ることなく死んでしまうかもしれないと言う恐怖だった。
この世界に飛ばされて、一番最初に出会い、ここまで共にしてきた二人が、人生をかけてでも成し遂げると決めた、魔女なき世界の確立。
カリューダ没後五百年経った今でさえその影響力は大きく、そしてその強大な力を利己的に使おうとする者がいること。
どこかで止めなければ、魔女の悪名は綿々と続き、その影響は魔女の末裔である姉妹に生涯重荷になり続ける。
ユウトは全てを知る者としてこの世界に現れ、姉妹の悲願を果たす唯一の人間だと思っていた。
だが蓋を開けてみれば、彼女たちが憎むカリューダの魂の具現化とも言える聖杯を継承している人間だった。
とんでもない量と濃さのマナを扱える唯一の人間としてユウトはこの世界に現れたが、とんでもない力の源はカリューダの聖杯のおかげでもあった。
二人を苦しめる鎖から解き放つ資格のあるユウトは、実は彼女たちを苦しめる鎖そのものだった。
苦しめるあまり、エミグランと交わした約束は
『もし、魔女カリューダを甦らせることになれば、聖杯が必要になる。避けるためにはユウトを殺すことになっても構わない』
ユウトの脳内で、二人が『構わない』と結論づけたことがらリフレインする。
何度も何度も
『構わないワ』
とひたすら連呼されているように脳内に『構わないワ』とローシアの声が響く。
レイナはユウトの額から脂汗が滲み始めていたのを見て「ユウト様? どうされました?!」と慌てて肩を揺する。
「……大丈夫……」
「そんなはずはありません!!」
レイナは辺りを見回して吸われそうな木陰を探した。運良く道の横に大きな木があり座れそうなふくらはぎくらいの高さの岩があった。
レイナはユウトの背中に右腕をまわして片腕で抱えるようにすると「そこの岩に座ってください。少しだけ休みましょう」と言う。
「でも、新書を届けないと……」
「それは最悪私たちだけでもできますから。今は休んでください」
レイナの顔を見れないユウトは、口調の強さから、逆らう事はできないだろうなとわかって「少しだけ休むよ」と従った。
ユウトはすぐにおさまるとわかっていた。なぜなら昨日からずっと同じ事で苦しんでいたからだ。
ものの数分……下手すれば数回深呼吸するだけで元通りになる自信はあった。
「ああもう!お姉様ったらもうあんなところまで……」
レイナが向いている方を見ると、ローシアの赤い服は小さく見えて人通りの多い通りと交差するところまでもうすぐの距離だった。
「すぐに戻ってきますから、ユウト様はここでお待ちください。いいですかすぐに戻りますから、すぐに」
何度もすぐにと言うので「うん。わかってるよ」とちゃんと聞こえてるよ言う意味で言うと、レイナはハッと驚いた顔を見せてから少しだけ顔を赤くして「すぐに戻ります」と言い残して駆け出して行った。
レイナが巻き込んでいった空気が、ユウトの頬を撫でて動きが無くなった。
ユウトは目を閉じてなんとが深呼吸をすると、予想通り落ち着きを取り戻し、口を窄めて長く息を吐いた。
――やっと落ち着いた……――
『やっと落ち着いたね』
――!!
どこからともなく突然声をかけられて顔を上げた。
だが、辺りに人は誰もいなかった。
「……気のせい……か」
『気のせいじゃないよ』
――!!!
「この……声は!」
『どこを見てるのさ、こっちだよ……と言っても声じゃないから音のする方に向く事はできないね。これは失礼したよ。君の視線を下に移してほしい』
どこからともなく聞こえる優しそうな女性の声は、イクス教神殿地下で、見つけ出した黙示録に亀裂を入れて、破壊のために右手を突っ込んだ時に、中でつかんで取り出したシロからだった。
エミグランは、シロをカリューダの知識の権化と呼んでいた。
「カ、カリュー……!」
『その名前は呼ばない方がいいね』
と、シロが口を少し開けて、暑そうにハッハッと小刻みに息をしている。喋っているのではなく、ユウトの耳の奥で話しているようだった。
『しばらく君と共に過ごしていたが、まさか私が世界に畏怖される存在になっているとはね……死ななきゃわからない事もあるもんだね。そうは思わないかな?』
「ちょ……ちょっと待ってよ!」
『声は小さく。そんな大きな声を出さなくても聞こえているよ』
ユウトはカリューダに聞きたい事が山ほどある。うまくいけば、今のヴァイガル国とドァンクの争いを止める事ができるかもしれないとまで思っていた。
『君は私をこの世界に引き戻してくれた人間だね。きっと私の聖杯を持つものでない限り無理だと思っていた……』
「ちょ……ちょっとまってよ、その前に僕の質問に答えてほしいんだよ」
シロはユウトの膝の上で腹をむけたまま、小刻みにハッハッと息をしながら答えた。
『ふむ……そうか……そうだね。だが、長時間は話す事ができないんだ。手短にしてくれると嬉しい。私も君に話したい事があるからね』
手短にと言われると難しいが
聞きたい事は山ほどある中で、脳内で選び出されるかのように思い浮かんだ言葉をシロに向けて話した。
「じゃあ何故あなたの聖杯を僕に僕に受け継がせたのか……そして、何故黙示録に、聖杯を受け継いだ者を、全てを知る者とし残したんだよ……なんで……」
それ以上は言葉が出なかった。言葉にする事で自分に課せられた宿命の大きさを再認識し、言葉に詰まった。
シロは二度瞬きして
『ああ、それなら答えは簡単だよ』
「本当に?!」
『うん。君たちと行動を共にしてわかったこともあるし、それらを踏まえて簡単に言うと……』
ユウトは、次に出てくる答えこそ真実だと期待を持ってじっとシロを見つめる。
『わからいんだよ。黙示録……と、全てを知る者って、いったい何の話をしているのかな?』




