第七話
既に日が落ち、薄暗くなってきた三条通を東に駆け上がる事、数分。商店街へと続く道を素通りし、次第に細くなっていく道を真っすぐに進む。緩やかな傾斜を登る内、次第に見えてくる池がある。
古めかしい建物が立ち並ぶ中、ポッカリと浮かぶように佇むその池こそ、奈良屈指の景勝地、猿沢池だ。
その池の中央で青白く光る何かを見つける。
「沙梨亜っ!」
それは水面に浮かびながら何かに祈るように蹲る沙梨亜の姿だった。
セーラー服の濃紺色のスカートがゆらゆらと揺らめいている。
驚くべき事に沙梨亜は水面に浮かんでいた。
「沙梨亜っ!」
僕は池の直ぐそばに自転車を放り捨て、湖畔に立って叫んだ。
するとゆっくりとした動作で沙梨亜はこちらに振り返り、真剣な表情で僕を一瞥した後、何事もなかったかのように前を向いた。
何かに祈りを捧げるように目を瞑っている。
そんな沙梨亜の姿を見て僕は愕然とする。
「そんな……どうしたんだよ、沙梨亜っ!」
沙梨亜は僕を一切見る事なく、若草山の方向に向け、必死に祈りを捧げている。
僕はいてもたってもいられず、池の中に入ろうとするが……。
まるで透明な壁に遮られているかのように、何かが邪魔をしていて、池に入る事が出来ない。
そんな僕を見兼ねたのか沙梨亜が叫ぶ。
「朧っ! 早くここから逃げなさいっ! 奴が……奴がもうすぐここに来る! もう私ではこれ以上防げない! 早くしなさい!」
沙梨亜の今まで見たこともないような叫びが耳孔を打った。
沙梨亜の顔には玉のような汗が浮かんでおり、焦りに顔を歪ませている。
「いやだ、沙梨亜! 君も一緒に逃げるんだ! 僕はその為に来たんだから!」
沙梨亜の叫びにも負けずに僕は言い放った。
今は沙梨亜が何をしようとしているのかなんて関係ない。
沙梨亜を助ける。それだけの為に来たんだから。
その時、沙梨亜の顔が一瞬だけ緩んだような気がした。
僕もたまらず微笑み返そうとした、その時。
——ズゥゥゥウウン。
とまるで重力が何十倍にも膨れ上がったような重圧が僕達を襲った。
毛が逆立ち、生存本能に訴えかけるような恐怖が僕を襲う。
僕は堪らず目の前にある山の頂上を見遣った。
この何の才も持たない僕でも何かが近づいているんだと理解出来る。
——その瞬間、ドンッッ! と物凄い轟音を響かせて猿沢池の前の道路に何かが落ちて来た。
あまりの衝撃にコンクリートが捲り上がり、地割れが起きていた。
僕は恐怖心に必死に抗いながらゆっくりと空から降ってきた何かを観察する。
——それは紛れもない怪物だった。
体長3mはありそうな巨体に、大木程に膨れ上がった両碗の筋肉。
真っ白い下地に金の装飾で彩られた和服を身に纏い、上半身を曝け出している。
人体では有り得ない程に隆起した大胸筋と腹筋はこの怪物が人外の存在なのだとはっきりと示している。
極めつけには頭から飛び出した二本の真っ赤な角は複雑に湾曲していて、鬼神童子とは比べ物にはならない程のプレッシャーを放っていた。
勝てない……。
一目見た瞬間にそう思わせる程の威圧を放つ怪物は僕と沙梨亜を交互に見た後、獰猛に笑った。
意思の強そうな真っ赤な瞳と短く切りそろえられた銀髪に目が惹かれる。
「鬼神童子に乞われて来てみれば、いやはやなんとも可愛らしい肉が二匹もいるではないか」
怪物から放たれる重低音の声は、まるで地獄から響いてくる悪魔の声のように感じられる。
テレビで見るのとこうして生で見るのとではこれほどまでに違うなんて思いもしなかった。
こいつは……本物の化け物だ!
「余は大嶽丸。鬼神魔王と称えられた妖怪の大将ぞ。余のかわいい肉共よ。して何を望む? 火達磨にして喰われたいか? それとも生きながらにして踊り食いか? 好きな死を選べ」
あまりの格の違いを感じとって、僕の足は完全に竦んでしまった。
ああ、僕達は所詮奴にとっては食料でしかないのかと悟ってしまう程の生物としての格差を感じた。
アリがゾウに勝てないのと同じように僕もこいつには勝てるはずがない。
そんな当たり前の事を、いざ目の前にして思い知らされてしまった。
だが……。
トン……と僕の肩が優しく叩かれた。
ふと横を見ると初代がいつもと変わらない表情で僕をじっと見ていた。
そして僕の前に進み出て、大嶽丸と向き合う。
『お初にお目にかかる。私は初代三日月流。平安最強の妖怪退治屋とは私の事だ』
堂々と名乗りを上げた初代に対して大嶽丸は初めて表情を崩した。
「感じる……感じるぞ……そこな人間、貴様……ただの肉ではないな? そうか、鬼神童子では敵わぬはずだ。当代にまさか貴様のような肉が生き残っていようとはな」
大嶽丸はニヤリと大きく唇に弧を描いて、舐めるように初代を見ながら一歩一歩、ドシンと音を立てながら近づいて来る。
初代もまた強大な大嶽丸のプレッシャーをものともせずに、落ち着いたまま、一歩一歩近付いていく。
今にも触れ合いそうな程近づいた両者は互いに睨み合っている。
かたや身長2mを超えそうな大女。
もう一方は3mの巨躯を持つ鬼神。
身長差はあれど、両者が放つプレッシャーの差に大差は無かった。
「のう、人間。貴様は現し身の肉体を持ってはおらぬのか? なるほど、では余が貴様の土俵に立ってやろう。感謝せよ」
その瞬間、ドンっ! と音を立てたかと思うと大嶽丸の身体が一変していた。大嶽丸から発せられる気が狂いそうなプレッシャーは変わらないが、肉体が半透明のように薄くなっており、輪郭がまるでガスのように流動していた。
『……凄まじい妖気だ。だが感謝する。私も貴様と手合わせしてみたいと思っていた』
「ふん、減らず口を。貴様のような上質な肉はこの余、手ずから持って喰らってくれる。覚悟せよ」
睨み合う両者に変化が起こる。先に動き出したのは初代だった。
左手の掌を目の前に置き、地面と垂直になるようピンと立てる。
右手は握り拳を作り、脇に添える。
僕は固唾を飲んで見守る。あれは……間違いない、毘沙天神の構えだ。
「ぬぅ……これは……」
『毘沙天神』
初代がそう呟いた瞬間、ドンッ! とまるで隕石が衝突したような衝撃が空から大嶽丸目掛けて襲いかかる。
ズドンッ!
大嶽丸は反応すら出来ずに初代の攻撃に直撃し、倒れ伏す。
流石の大嶽丸も初代が鍛え上げた毘沙天神に屈したのか、しばらくピクリとも動かなかったが……しかし。
「くくく……やりおるわぁ、人間の分際でぇ」
大嶽丸は瓦礫の山の中から顔を上げ、ニヤリと獰猛に笑った。
鼻からは血が流れ、鬼神の象徴的な角も若干折れ曲がっているが、ダメージを受けていないのだろう、平然と立ち上がって初代に笑いかけた。
「今のが全力か? 余を失望させてくれるなよ?」
鬼神童子を一撃で消滅させた初代の毘沙天神を食らっても平然とする大嶽丸に僕は心の底から畏怖を感じた。
だが……渾身の一撃を与えても平然としている大嶽丸を前に、初代は少しも慌てる事なく、いや、それどころか、少し嬉しそうに笑って言った。
『笑止。ただの挨拶だ。だがこれほど骨がありそうな敵は久方振りだ。私は嬉しいぞ』
初代は構えを解く事無く、大嶽丸に笑いかける。
「ふふ、余を前にして笑う人間を見たのは数千年振りだ。ほとほと希少な肉じゃて」
『毘沙天神』
ドンッ! と大嶽丸の言葉を遮って再び初代が攻撃を仕掛けた。
さっきと同じ上部からの速攻だ。
またもや大嶽丸は反応出来ずに直撃するが……。
「この余、相手に同じ技は通じんぞ?」
ニヤリと笑いながら大嶽丸は両足で踏ん張って初代の毘沙天神に耐えてみせた。
鼻血が口元を染め上げるも、まるで一切ダメージを感じていないのか、余裕そうに笑いかけている。
そのどうしようもない程の不死身振りに僕は目の前の光景がとても信じられなかった。
どう考えてもこいつは人間がどうこう出来る存在じゃない。
『そのようだな。だが、毘沙天神は単純な技ではない』
初代がそう言い切った瞬間に、とうとう初めて大嶽丸が動き出した。巨大な体には見合わない程の速度で、その豪腕を初代に向かって振り下ろす。
巨大な質量を伴ってまるで突風のように駆け抜ける大嶽丸の姿は目の前で通過する新幹線のように凄まじい迫力を伴っていた。
凄まじいスピードで繰り出される大嶽丸の豪腕の威力は想像するだけでも怖気が走る。
しかし……。それでも初代は一歩も動く事無く、片手で大嶽丸の拳を受け止めてみせた
。
『毘沙天神とは三日月流が目指す精神の在り方の事。故に技は状況に応じて千変万化に変化する』
触れるだけで消し飛んでしまいそうな大嶽丸の豪腕を片手でしっかりと受け止めた初代は毘沙天神の構えを少し崩しながらも余裕そうに呟いた。
「ぬぅ、貴様本当に人間か……? これほどの力、人間如きが手に負えるものではない。余程の下法か、代償を支払って得たのだろう?」
流石の大嶽丸も初代の強さには驚いたのか、片目を吊り上げて尋ねた。
だけど初代はただ、ただ笑ってみせるだけだった。
『私は代償など何も支払ってはいない。ただひたすら修行していただけだ。人生の全てを懸けて』
初代の言葉に大嶽丸は納得がいったように笑って告げた。
「ふ……ふはは! つくづく面白い肉だ。この力を得る為に常軌を逸した鍛え方をしていたに違いない。そのけし粒のような短い生涯の中で。面白い、そのような肉を喰らうのは余の生涯の中でも初めてだ。誇るが良い、人間。余が人間を認めるなどそうある事ではないぞ。貴様の血肉……舐めればさぞ美味であろうな」
ニヤリと怖気が走るような笑みを浮かべる大嶽丸に少しも怯む事なく、初代は笑い返してみせる。
『お褒めに預かれて光栄の極みだ、鬼神魔王』
「良い、貴様には特別に大嶽丸と呼ぶ事を許す。せいぜい励め」
両者一歩も譲らずに笑い合う。その光景を見て僕はただただ思った。
——この二人は間違いなく化け物だ……と。
座敷童子も言っていた。
初代は人の身でありながら日本三大妖怪の二体、玉藻の前と酒呑童子を討伐した平安時代最強の武人だと。
今ならその意味が良くわかった。
初代も大嶽丸と変わらない程の力を持つ化け物なんだと。
人間の身でありながらここまで鍛え上げた初代に畏怖する。
大嶽丸の言うようにいったいどれだけの代償を払えばこれほどの力を得る事が出来ると言うのか?
もはや僕は幽霊を見るかのように初代を見ていた。まぁ実際今の初代は幽霊だけど。
『大嶽丸!』
「初代!」
両者は再び動き出した。
今度は大嶽丸が無数の殴打で初代を追い詰める。初代は一度目こそは受け止めたものの、手で受け止める事はせず、嵐のような大嶽丸の殴打を躱し続ける。
初代は完全に大嶽丸の拳を見切って躱しているものの、大嶽丸の豪腕の余波だけで擦り傷を作っていた。
生物としての自力の違いなのか、耐久力は比較にならない程差がありそうだ。
だけどそれでも初代は一切顔には出さずに、大嶽丸が繰り出す無数の殴打の嵐を掻い潜り続けていた。
ところが……ガスッ! と一際大きな音が鳴る。
目を凝らしてよくみると、初代が毘沙天神の構えをとっており、対して大嶽丸の上半身が大きくのけぞっていた。
一瞬、何が起こったのか、分からなかったが、初代が大嶽丸に攻撃を与えたのだと朧げに理解出来た。
「ぐぬぅ……!?」
一瞬の隙をついて怯んだ大嶽丸にすかさず初代は毘沙天神の構えを取る。
ドンッ! ドンッ! ドンッ! と凄まじい轟音を響かせて初代の毘沙天神が乱れ飛ぶ。
大嶽丸の体に何かが減り込むように筋肉が陥没していく。たまらず大嶽丸は後退し、遂に大嶽丸が大の字で倒れた。
ここで初代に初めて変化が訪れる。
左手の掌を目の前に置き、地面と垂直になるようピンと立て、脇に添えていた右手を中央に持っていき、合掌の形を取った。
——その瞬間、端から見ているだけでも感じとれる程の悍ましい力の渦が初代から発せられ、次第に確かな形を取って上空に浮かぶ。
初代から生まれた力の塊は大男の型を取って、地面に仰向けに倒れ伏す大嶽丸へと一直線に急降下した。
ドドドドドドドドドォォォォォォォン!
と凄まじい轟音が響き渡り、砂埃が舞う。
数秒後に砂埃が晴れると、そこに立っていたのは肩で息をしながら驚愕の表情で初代を見つめる大嶽丸と、頬から一雫の汗を流しながら合掌のポーズを取る初代の姿だった。
「なんだ……? この余が震えているだと……? ふふ、つくづく規格外な奴よ。認めよう、今のはまともに食らえば余ですら危うかった」
『……流石だな、今の攻撃の危険性を感じ取れるとは。これを初見で避けられたのは貴様で二人目だ』
両者は互いに笑い合った。だが、お互いに少しずつだが余裕が無くなってきているのが肌で感じ取れる。
それにしても今の人型の大男はいったいなんだったんだ? 初代はいったい何をしたというのだろうか。
「今のが貴様の奥の手という訳か。ならば余も見せるとしよう」
すると大嶽丸は半透明の体の中に自分の手を突っ込んだ。
そして何かを引っ張り出すように取り出す。それは先が三叉に分かれた槍のようなものだった。古めかしい符の布が巻かれ、槍からは凄まじい威圧感を感じる。
「これは余が持つ秘宝、雷槍・大通連。地獄の王から譲り受けた宝具の一つだ」
大嶽丸は槍を天に掲げた。すると、薄暗い曇天の空がぐるぐるとゆっくりと弧を描いて動き出す。
「いけない! あれを使わせてはダメ!」
静かに湖の上で見守っていた沙梨亜が悲痛な叫び声を上げた。沙梨亜は祈るように両手を頭の前に掲げている。
初代も何やら尋常ではない大嶽丸の様子に警戒しているのか、毘沙天神の構えを取り、じっと様子を伺う。
「雷槍・大通連の能力はいたって単純。雷を落とす」
その瞬間、バリバリッ! と一条の光の柱が初代目掛けて振り下ろされた。
間違いない! これはさっき座敷童子を消しとばした大嶽丸の技だ! だけど、そう理解しても全ては遅かった。
ドドォォォォン! とそのすぐ後に轟音が響き渡り、僕は思わず目を閉じてしまう。
シュュュュウウ。何かが焦げるような匂いが鼻腔をくすぐる中、僕はゆっくりと目を開けると……そこには片膝をついて、蹲る初代の姿があった。
薄紫の道着の肩の部分が少し焼け焦げており、さっきの落雷が直撃したのだと分かった。
初めて見る初代の傷ついた姿に僕は動揺して叫ぶ。
「初代っ!」
「ほう……瞬時に見切って避けおったか。流石は余が認めた人間。しかし、ノーダメージとはいかなかったようだな。耐久力は人の域を超えてはおらんらしい」
肩で息をしながら初代は立ち上がった。しかし、想像以上にダメージが大きいのか、肩を庇いながらよろけていた。
……が、しかし。
『……毘沙天神は三日月の心得。例え肩がいかれようとも、祈りは届く』
その瞬間、再び初代は両の手を胸の前で合わせ、合掌の構えを取った。
今度は溢れるような力が初代から湧き出て、飲み込むように大嶽丸を包む。
そして現れた大嶽丸よりもさらに大きな黒い甲冑姿の大男は巨岩のように太い腕を思い切り振り下ろし、大嶽丸をぶん殴った。
ドォォォン!
「ぐぅヌゥぁっ!?」
腹に大穴を開けるような凄まじい殴打を食らった大嶽丸はくの字に折れ曲がった後、物凄い勢いで家屋に突っ込んでいった。
3mの巨体が紙のように吹き飛ぶその様はまさに冗談のような光景でとても信じ難いものだった。
それもあの御嶽丸が……。
僕は呆然と口を半開きにしながら初代を見た。
初代は合わせた合掌の手を解いて肩で息をしながら真っ直ぐと大嶽丸が吹き飛んでいった方向を見ていた。
僕は思わず初代に駆け寄り、労うように声を掛けた。
「初代……すごかったよ! あの大嶽丸を倒したんだ。本当にすごいよ!」
しかし初代の表情は少しも緩む事は無く、まるで何かを悟っているかのように静かに佇んでいた。
『あの程度では倒せていないさ……。それよりも朧、君に言っておく事がある。私がどんな事になっても君は沙梨亜を連れて逃げろ』
「え……?」
僕は初代の言葉が理解出来ずに呆然と問う。
どんな事になっても……? それって……。
もしかして初代が負けるって事?
「な、何言って」
ドォォォオオオン!
とその瞬間、家屋が吹き飛んだ。
突風が僕の頬を撫でる。
『まさかこれほどまでとは思わなかった』
初代の呟きがやけに耳に残る。
「ただの肉の分際でこの余に死を連想させるなど……肉の分際でぇぇ!」
大嶽丸は身体中に傷を作りながらも立ち上がり、崩れた瓦礫の中から這い出てきた。
流石にノーダメージとはいかなかったのか、腹が大きく陥没しており、口元が血で塗れていた。
目が赤く血走っており、以前よりも迫力が増している。
「嘘だろ……あれでも立ち上がってくるなんて」
僕は絶望感に打ちひしがれながら呆然と大嶽丸を見た。
勝てない……初代も本当は分かっているんだ。大嶽丸に勝つことは出来ないと。
なら僕がすべき事は……ちらりと沙梨亜を見た。
沙梨亜は初代と大嶽丸の戦いをじっと見守っている。
「初代……ごめんっ!」
僕は胸が張り裂けそうな思いの中、初代を一目見た後、振り返って沙梨亜の元へと走る。
猿沢池の湖畔に立った僕は沙梨亜に叫んだ。
「沙梨亜! こっちに来い!」
沙梨亜は驚いたように僕を見た後、ゆっくりと近づいてくる。
「信じられないわ。あの女の人、いったい何者なのよ……!」
「説明している時間はない! 今すぐここから離れるんだ!」
僕は沙梨亜の腕をがっしりと掴んで池から外に出した。
「えっ? ちょっ、どういう事?」
沙梨亜が困惑気味に声を上げるも、気にせず腕を掴んで引っ張る。
「僕らは……逃げるんだ。初代を置いて」
「えっ? あの人を置いていくの? あんたはそれでいいの……?」
僕はハッとして沙梨亜を見た。
「あんたは今まで私を助ける為にここまで来たんでしょう? それなのに、あの女の人を見捨ててもいいの?」
沙梨亜の言葉が槍のように僕の心に突き刺さった。
「でも……だからって僕があんな化け物に勝てる訳ないよ!」
「でも……私達がここで逃げたら誰がアイツを止めるの?」
「それは……!」
『気にするな、沙梨亜』
僕はハッとして初代を見た。初代はじっと背を向けたまま、大嶽丸と向き合っている。
沙梨亜も初代の言葉が聞こえていたのか、じっと初代を見つめていた。
『今の君達ではただの足で纏いだ。だが、奴を止めるのは未来の君達。ここは一旦引いて、修行しろ。強くなれ。そしてもう一度奴に挑むんだ』
「初代……」
僕は拳をぎゅっと握りしめて大嶽丸を見つめた。僕があの化け物を倒す……?
あんな化け物に打ち勝つイメージが湧かない。
でも……僕はキッと沙梨亜を見た。
沙梨亜も何か決意を決めたかのように僕を見ていた。
「分かりました。何者かは知りませんが、私達を助けてくれた事、深く感謝致します。私は朧と共に強くなります」
沙梨亜が僕を見る。まるで何かを待っているかのように僕をじっと見ていた。
分かってる……。本当は沙梨亜が何を言って欲しいのかくらい。もう長い付き合いだ。僕は決意を込めて初代と沙梨亜に向き直った。
「初代……僕がいつか必ず大嶽丸を倒す。だから初代も絶対に死なないで! すぐに……すぐに戻ってくるから!」
初代は一度だけちらりと僕達に振り向く。その顔には微笑みが浮かんでいた。
『いい言葉だ、二人とも。私もじきに君達の元に戻る。当然、死ぬつもりはない。だから……早く行け』
その言葉を皮切りに、僕らは初代に背を向けて走り出した。
初代のあの頼もしい背中をこの瞳に焼きつけて。
背後では再び激しい戦いが始まったのか、轟音が響き渡ってくる。
微かに大嶽丸の声も聞こえてきた。
「肉風情が小賢しい! 一匹たりとも逃すものか!」
『させん。毘沙天神!』
ビリビリ! ドォン!
とすぐ僕らの背後で轟音が響き渡った。
あまりの衝撃に思わず前のめりに転びそうになる。
だけど。
「朧っ!」
沙梨亜が僕の手を引いてくれたおかげで転ばずに済んだ。
大嶽丸の雷だろうか、どうやら初代が僕らを守ってくれたようだ。
「ありがとう、急ごう。沙梨亜。いつか必ずここに戻ってこよう」
「ええ、当たり前でしょ!」
僕らは一度も振り返らずにただひたすら大嶽丸の元から逃げた。
初代を助ける。ただ一つの想いを胸に乗せて。




