お得意様が来店した
……いよいよ一大イベントの開催は、明日。久しぶりのイベント、失敗は…許されない。
みっちり積み上がって陳列されているプロテインの壁をチェックしながら、腕を組みつつごくりとつばを飲み込み、ぐるりとイベントスペースを見渡す。…モニター良し、マイク…は昨日テストしたけどあとで念のためにもう一回チェックしておこうか、追加レジの設置よし、ウォーターサーバー設置箇所よし、タオルの準備よし、スタッフ待機用タープよし、プロテインの補充用ワゴンのセッティングよし、パーティションポールよし、舞台よし、無料サンプル入りの袋よし、セロハンテープにレジ袋、マジックペンに掃除機ええとそれから―――!!!
……ダメダメ、焦っては!!
こういう時こそ落ち着いてゆっくりとチェックをしておかねば!ほんの少しの見落としが売り上げ減につながるのですよ!!これだけ積み上げてひとつも売れないとか、あってはならない!!!完璧に仕上がっているイベント会場を隅々までチェックしつつ、気を引き締め、最終確認……。
私がこんなにも神経質になるのには、理由がある!!
入社以来、二度のイベントを経験しているのだけど、正直…どちらも微妙に、納得のいく結果にはならなかった、その記憶がですね。……二度あることは三度あるっていうじゃない?そうならないために、私は踏ん張っているのですよ!三度目の正直にしたいんだよね、今回はなんとしてもイベントを成功させて、次につなげたい。正直、嫌な流れを、きっちりきっぱりこの機会に断ち切っておきたい!!
一度目のイベントの時、私はまだ入社半年だった。忘れもしない、スポーツメーカーの新作腹筋マシンの体験会。当時スポーツコーナーには先輩社員がいて…ずいぶん、お世話になりつつも、かなり…辛酸を嘗めさせられていたといいますか。
―――ねえ、これもお願いしていい?
―――は、はい、わかりました!
接客もマシンの組み立てもすべて私に丸投げし、売り上げはしっかり自分の手柄にした先輩社員には本当に…心を折られまくったんですよ。イベントの後本社の総括にすごく怒られて、ホント大変だった。先輩は売り上げに貢献したってことで、ボーナスがものすごく多かったって自慢してたけど……。私は初めてのボーナスってこんなもんかって思う程度しか、もらえなくって。……まあ、結局使われているだけじゃダメなんだって、学べたからいいんだけれども。いまだにあの時のことを思い出すと眉間にしわが寄ってしまうのは、それだけ私の中に苦い出来事として刻まれているといいますか。
二度目のイベントの時は、一人でスポーツコーナーを任せられるようになって初だった事もあって、はりきっちゃったんだ。サプリメントメーカーのHMB販促イベントだったんだけど、めちゃめちゃ暴走してしまって、メーカーさんにドン引きされるくらいで。
―――君がいたから、持ちこたえることができたんだ。…うちの会社に来てほしい。僕と一緒に…企業を盛り立てて欲しいんだ!
―――すみません、お誘いはありがたいんですけど…ごめんなさい。
あの後いわゆる引き抜きのお誘いがすごくて…、本当に困ってしまって。傾きかけていた経営が、イベントをきっかけに右肩上がりに転じたとかで、ものすごくこう…ありがたがられてしまって。取引先のメーカーさんだし、無下にもできなくて、なんていうか、断るのがホント難しくて、当時の店長に頼ることになり、迷惑をかけてしまったんだ。ボーナスはたくさんもらえることになったけど、心の摩耗がすごくて…。初めて有給をたくさん使わせていただいて、長期休暇を取るきっかけになったんだよね……。
イベントの度に、なんかひと悶着あるというか。
今回のイベントこそ、何も問題なく、無事に終わらせたいと願っている私がここに。明日、無事に終われば、今後のイベントも問題なく終わらせることができるっていう自信につながると信じているのですよ!そりゃ、気合いも入りすぎますよ!
確認すべきは陳列と人の動線確保、記録と実績、販売意欲を掻き立てる話術に巧みなセールストークそれからそれからー!!!あああ、気分が高揚しちゃって落ち着かない───!
「どうも!!樫村さんっ!!」
野太い陽気な声がしたので振りむくと…バタ臭い顔のおじさんがニコニコして立っている!!……いつの間に!しまった、イベント準備に没頭し過ぎてた!慌てて、営業スマイルをお向けしてっ!
「川原さん!こんにちは、お世話になります!お早いご来店ですね、びっくりしました!ごめんなさい、明日のイベント準備に夢中で気が付かなかった!」
「いやあ、プロテインイベントやるってこの前言ってたでしょう、筋肉を愛するものとして絶対に顔を出さないとってね!当日に買い占めたら悪いと思ってさ、月初だけどちょっとついでがあったんで顔を出してみたんだよ!樫村さんいて良かった!」
ダブルのスーツをダンディーに着こなすガタイの良いこのおじさんは、メリーゴーランド小夏日店スポーツコーナーのお得意様中のお得意様、川原さんである!
店長の油ギッシュとはまた違ったマット調の脂身感が漂う、こってりした顔立ちの豪快かつ愉快さらに軽快軽率軽口が標準装備の、今時の気のイイおじさんは、ここから車で10分ほどの場所にある小田町のあたりでパーソナルジムを経営しているそうで、毎月たくさんのプロテインを購入して下さっているんだよね。月の売り上げの三割くらいはこの人ありきでね?!絶対に失礼があっては……ならない!
いつもみたいに思い切りのいいお買い上げは非常にありがたいものの、明日どれほど集客できるかわからない以上、念には念を入れて対応させていただかねば!一応倉庫にストックがみっちり詰まっているから完売まではいかないと思うけど、もしかしたら予想外に人が集まる可能性もあるわけで!!あとで露木さんに連絡しておいた方がいいかも?
「そうなんですね!お気遣いありがとうございます!えっと、大体で良いんで、予定数教えていただけたら助かります、いつもと同じくらい?でも先週お買い上げいただいたばかりですよね、大丈夫ですか?」
「大口の顧客が付いたからね、ストックはいくつあってもいいんだ!そうだね、新しいのを二箱いや、三箱に、プレーン五箱、各フレーバー一箱ずつ頼もうかな!支払いは…明日の方がいいよね、予約って事にしといてもらえる?忙しいでしょう、納品はいつでもいいよ!地下搬入口の人に頼んどくから!」
キ、キラーーーーン!!!
白髪交じりのスポーツ刈りはきっちりポマードで固められてキラキラ光り、日焼けした顔には白い歯と金歯がピカピカ、眩しすぎる輝きが…目に染みる!!サムズアップする姿が実に自信に満ちあふれ!!!
……この人懐こい笑顔、フレンドリーな会話、やけにリアルなマッチョ系おじさんとしてのお姿、今まで培ってきた信頼と実績……、ごく普通にさんざんお世話になっていたけれど。……アッシュ君と同じタワマンに住んでいる以上、この人の正体が宇宙人であることは確かで!
どうしよう、宇宙人だったんですねとか聞いた方が…、いや、宇宙人ってことに気付いてないパターンの宇宙人の可能性もある、下手なことは言うべきじゃ……ない!何がきっかけになって平穏無事な生活を手放して宇宙に帰ってしまう事になるかわからない、そんなことになったら、うちの売り上げががくっと下がることは必至!!そしたらまた総括がやって来てあることない事……、ちょっと待った、今嫌なこと考えると表情に出ちゃう、今は目の前の陽気なおじさんに集中して!!!接客スマイル!!目の前のおじさんは、宇宙人だけど売り上げにめちゃめちゃ貢献して下さっている優良顧客ナンバーワン!!!人種は二の次!!!
「了解しました!たぶん、イベント終了後に行けると思います!三時までなんで…、四時頃伺いますね!」
「いいの?ありがとう!」
少々ぎこちない私のほほえみを見て、フチなし眼鏡の奥のこってりした大きな目がニコニコと弧を描く!うーん、どう見てもちょっとガタイは良いけど、普通のおじさんだ……。さりげなく袖口のあたりを見てみるけど、触手の一本もはみ出しては……、あれは腕毛だよね……。やけにそよそよしているような、でも佐藤さんよりは控えめだなあ、いやしかし怪しい……。
「しかしすごいね、へえ、プロテインクッキング、マッチョポージング……いや、これは楽しみだぞ、休み取って正解だった!明日、リアルマッチョに会えるぞ!写真撮影できるんだね!うちのジムに貼り出したいな、イイ?」
「は、はぇっ!!う~ん、たぶん大丈夫かな?明日はね、ゴリマッチョに本格的マッチョに細マッチョが来るんです!めちゃめちゃ仕上ってましたよ!ウフフ!!」
し、しまった、ついつい余計なことを考えてたら声が裏返っちゃったじゃないの!恥ずかしさを愛想笑いでごまかしつつ笑顔、笑顔で接客、接客!!!
「マジで!これは…うちのジムの会員も呼んでこないといかんな!みんなひ弱でね!いつになったら筋肉が付くんだって不満タラタラなんだよ!地道な努力を嫌う即物的な奴らが多くて!実際にマッチョを見たらモチベーションも上がるでしょう、明日朝イチで連れて来るわ!よろしくね!」
「はい!お待ちしております!」
爽やかにこってりとした笑顔で右手を挙げイベントスペースを後にするお得意様に深々とお辞儀をし、お見送りさせていただく。
よし、これで明日はおそらく最低限の売り上げは確保できそう!…前に別店舗で試飲会をやった時、見込みの半分も出なくて大問題になったことがあったんだよね。相当数の余剰在庫を抱えてしまい、全店に割り振りと称した在庫処分のためのノルマが課せられて……、かなりの負担増になったことは記憶に新しい。他店舗に迷惑をかけるようなことはあってはならないって思ってたから、川原さんの来店予告は非常にありがたい!これで売り上げを気にすることなくイベント運営に力が入れられそう!
心配のタネが一つ減って少し楽になった私は、追い込まれていた気持ちがずいぶん落ち着きまして。……うん、心に余裕がないと、焦っちゃうよね!ふうと一息ついて、改めて三階スポーツ用品コーナーを見渡してみたり。
そういえば売り場のホコリを落としてなかったと、モップを手にした、その瞬間。
ピンポンピーン!
≪本日はメリーゴーランド小夏日店にお越しいただきまして、誠にありがとうございます。業務連絡いたします。スポーツ担当樫村さん、スポーツ担当樫村さん、五階ゲームコーナーカウンターまでお願いします。本日はご来店いただきまして、誠にありがとうございます。どうぞ、どなた様もごゆっくりお過ごし下さいませ。≫
中性的で落ち着いた、ハイトーンボイスの店内放送が聞こえてきた。……この声の主は、茶色い目のゲームコーナースタッフ!!!
いつものテンパりっぷりが嘘のように穏やかで、なんとも耳障りのよろしい一ミリも噛んでいないセリフ!勤務二日目にしてこの完璧な店内放送はどうなの……。ホント出来の良すぎるスタッフだよね、普段からずっと茶色い目をしておけばいいのに。疲れちゃうから無理なんだろうか……。茶色に切り替わるポイントがわかんないんだよね、たぶん出勤前に自分で切り替えてる?とは思うんだけどなあ。ポカポカやっても現れるのはいつも強引な俺様ばかりだし。
時計を見るとちょうど12:00、ああもうそんな時間になっちゃってたんだ。川原さんと話していたからまた気を配れなかった。
私は慌てて、モップを持ったまま五階のゲームコーナーへと向かったのでありました。




