エコーがかえってきた
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ・・・。
小石と、赤土と、木の根っこと、岩肌が続く山道。ただひたすらに足を進めて、黙々と歩く私の足音が山道に響いている。
季節の変わり目の山は、少し空気が冷たくて、汗ばむ体に心地いい。夏の間、早朝から山登りを楽しむ皆さんが多かったのだけど、最近はずいぶん数が減った。これからもっと気温が下がるから、登山する人は減っていく一方、のはず。
私が今登っている山は、観瑠駈山といって、県庁所在地隣に位置する、やや田舎よりの町に昔からある…中規模の山だ。
登りやすくてそれなりに運動量が必要な、体を動かすのにもってこいのこの山は、生まれてからずっと小夏日市市民ならば一度は必ず登る山でもある。
小学五年生のキャンプで、絶対に登ることになるんだよね。
…私もはじめて登ったときは、そりゃあきつくて大変で。
標高400メートル、頂上まで大人の足で一時間半程度かかるんだ。
少々育ちすぎていた小学五年生の私は、頂上に着くまでに相当疲れてしまい、激しく山登りが嫌いになった過去を持っている。
あの時、足の豆がつぶれてしまい、痛くて痛くて泣きながら登った山道。今は軽快に…ずいぶん軽やかに、無言で、無表情のまま、登る事ができるのだけど。
ひときわ斜度のある岩肌を豪快に跨ぐと……、見晴らしのいい場所に建てられた、休憩所が見える。
よし、休憩タイム…いや、今日のメインイベントタイムまで、あとちょっと。…足どりは、軽やかだ。
かつて先生に絆創膏を貼ってもらった…腐りかけたベンチに腰を下ろし、一息つかせていただく。
頂上までまだあと少しあるというのに、この場所から見る景色はずいぶん広大で雄大で…、悠久を感じさせるといいますか。
晴れ渡る青い空に、ぼそぼそと連なる雲がぷっかぷっかと浮いていて…うん、私、今、癒されてる。
広がる空を望みつつ、休憩所内に目を向ける。
あの頃と同じ形をしている建物ではあるけれど、月日がたっていることも有り…ずいぶんくたびれてしまっている。
あれ、壁に張り紙がしてある、いつ貼られたんだろ…。なになに…。今年中に、木造から樹脂製に建て替える予定があるんだね。こうして、色々と変わってゆくのだなあ、うーん。
ここから見る景色も、あの頃とはずいぶん違っているはずだけど…青い空ばかり見ていた私は、あまりそういう実感がないというか、薄いというか。
空の色は……、昔から変わらずに、ただただ綺麗なんだよね。
私は、空の色が、ずっとずっと、大好きなんだ。
まあね、山を登ってる間ってのはさ、足元ばかり見てて、常に地味な色合いばかり追ってるでしょ、そりゃあ目に鮮やかに映る青い色に夢中になるでしょうってね。
遠くに見えるのっぽの建物なんかよりも、面白い形の雲を見ていたいって言うか……。
腰のポーチから、ドリンクボトルを取り出して、ごくりとお茶を一口。
…よし、体力、回復。
頂上まで、あと15分くらい。
がんばって登るぞ!おー!
…って、その前に。
休憩所の裏手の、少しだけ木々の拓けている場所を望む、小高い岩の上に、そっと立つ。
…この場所はね、私の、とっておきのお気に入りの場所なんだ。
・・・あの日。
五年生だった私は、頂上を目指す気力が尽きてしまって…先生の目を盗んで、休憩所を逃げ出した。
絆創膏だらけの足で、もう山なんか登りたくないと泣きながら、この岩の上まで、逃げて。
―――もうやだ!!かえる!!!
危ないからこっちにきなさいと言って、手を伸ばした先生に向かって、泣きながら叫んだ、その時。
エコーが、返ってきた。
自分の、叫び声が。情けない泣き声が。私に……、返ってきたのだ。
はっと、我に、返った。
同級生は、みんな、頂上を目指して登っていってしまった。
私一人だけが、みんなに置いていかれて……、途中で投げ出して、いた。
みんなができることなのに、私だけができなくて、やろうとする努力もしないで。
引率の先生は、たった一人で、情けない私のために。
この場所で、私に……手を、伸ばして。
岩の向こう側には、木々が生い茂っている。
ここから落ちたら、怪我だけでは済まないはず。
五年生全員が登ったこの山で、私だけが……登りきれずに、問題を起こして。
五年生全員の記憶に、残ってしまうような事件を、起こして、しまう…?
はっと、我に返った。あの、瞬間に。
先生が伸ばした手を、そっと握って。
そのまま、先生と手をつないで、山を登って。
足は、相当痛かったけれど。 次の日から、体中痛かったけれど。
私の心は、ずいぶん満たされていて。
私の心は、ずいぶん……変わった気がして。
私に、成長した重大ポイントがあるというならば、あの日のあの出来事は、まさに最重要ポイントだった。
逃げ出したこと。
弱い自分の声を聞いたこと。
手を差し伸べてくれる人の存在を知ったこと。
手をつないでくれる人がいると気付いたこと。
誰かがいてくれたから、目的地にたどり着く事ができたこと。
私は、投げ出さないことを学んだんだ。
私は、弱い自分を認めることを学んだんだ。
……何かあるたびに、私はこの山に登るようになった。
勉強に行き詰まったとき。
人間関係に悩んだとき。
別れの悲しみに囚われてしまったとき。
いつだって、この場所で、返ってくる自分の言葉を受け止めた。
いつだって、この場所で、私は私なんだと納得した。
いつだって、この場所で、自分の進みたい道を確認した。
私は、この場所で、誰かの手を求めた。
……この場所で、誰かの手を取りたいと願いながら。
私は、この場所で、誰の手も取らず、一人で解決する道を選ぶようになった。
誰の手も取らず、一人で立ち直るようになった私は……、誰かに手を差し伸べることができる人間になりたいと思うようになった。
この場所で、自分の弱さを吐き出して、自分の弱さを聞いて。前を向くようになった、向けるようになったと言うのに。
…いつしか、愚痴を言う場所になってしまったのは、どうしてだろう。
おかしいな。
おかしいぞ。
―――余計な一言が駄目だって言ってるじゃーん!!
―――人に優しく自分にも優しくっていってんのにー!
―――にきびはつぶすなっていってるでしょぉー!
―――なんであと一口がやめられないんだー!
―――飲みすぎたら顔が二倍になるって知ってるくせにー!
―――なんだかんだで、不出来な自分、かわいいー!
私は、手を差し伸べることができる人間になりたいと願うようになったのだけれど。
…いつしか、やけに融通の利く人間になってしまったのは、何でだろう。
おかしいな。
おかしいぞ。
・・・いつもありがとう!
・・・この前、助かったよ。
・・・話を聞いてもらえたから、私立ち直れたの。
・・・君がいてくれたから持ちこたえることができたんだ。
・・・ねえ、これもお願いしていい?
・・・この案件頼めないかな。
・・・君にやってもらわないと困るんだよ。
なぜだろう、私はやけに…この山に登るようになっていた。
この山で、私は、毎週、声を張り上げるようになっていた。
人のいないタイミングを見計らっては、一言だけ叫んで、エコーを聞いて、ちょっとすっきりして。
頂上で青空を拝んで、写真に撮って、のんびり下山する。
この山に来るとき、私はいつも一人ぼっちだ。
一人でこの山に登って、一人で下山して。
・・・私は、いつまで、一人なんだろう?
私は、手をつないでくれる誰かを探すようになった。
いつしか、みんなの樫村さんになっていた私は、「誰かの一人」になれないまま、時間が過ぎていった。
―――ねえ、だれか、いませんか!
―――私を、特別に思ってくれる人ー!
―――私は、私が、大好きだよー!
―――私は、誰かを、好きになりたいよー!
私は、私の孤独を癒してくれる誰かに、めぐり会えていない。
いつになったら、めぐり会えるのか。
いつになったら出会えるのか。
いつになったらこの手を取ってもらえるのか。
広い、広い、青空に、手を、伸ばす。
私の手は、青空の鮮やかすぎる色に溶け込むことなく…ただ、ただ、空をかく。
…ああ、右手が疲れた。
誰かに伸ばした手は、私の腰へ。
いつになったら、私は、恋をすることができるのだろうか。
……そうか、私は、恋がしたいんだ。
二十代も後半戦に突入した今、切実に思うのは。
「誰かー!私と、恋を、しませんかー!」
いつものように、両手を口元に構え、思いっきり、岩の上で、声を張り上げた。
ふふ、返って来るのは、どこかドスの効いた、男前な、私のエコー・・・。
「僕と、恋を、しませんかー!」
・・・とんでもない、エコーが、返って、来た。