TONIGHT
なあ、どうしてそんな風に笑っているんだ?脳がスポンジになって溶けてしまったみたいだ。融点は思ったより、かなり低かった。
手に持ったビールの缶をヤツに投げつけてやった。それでもまだ笑っていやがる。痛みは麻痺してしまってるみたいだ。馬鹿馬鹿しい。
どうでも良くなって、結局俺はカウンターに置いておいた飲みかけのウォッカをあおった。
頭の隅から鈍い痛みを感じる。小人がノミで俺の頭の端から叩きながら削り取っていくみたいだ。
隣に座った女の瞳に見惚れた。まるで今宵の夜の女王だ。俺は新しいウォッカを頼む彼女に話しかけた。
「こんな場末の酒場でどうしてあんたみたいな美しい女が迷い込んでしまったんだ?」
女は笑って言った。「今時、場末の酒場なんて言わないわよ」
そして飲みかけのカクテルのグラスを手に取ると、俺の方へ向けた。
「あなたこそ、こんなどうして場末の酒場に?」
女の瞳は、良く見るとどうしようもなく濁っていた。黒目がちに澱んでいたんだ。
不穏な曇り空は、完全な青空と同じ位美しい。まるでそんな事を考えさせるような瞳だった。
そして俺は同じ位美しいのなら青空よりも曇り空の方が好きだ。
まるで女の瞳は俺の為にあるかのように錯覚するくらい、心を捉えられた。
バーテンが無言で新しいウォッカを俺の前に置いた。それを手に取って、女の方へ向けて言ったんだ。
「あんたに会うためだ」
馬鹿馬鹿しい。本当に陳腐な台詞だ。それでもアルコールの魔法の前ではそれ以外に言うべき言葉などないかのように感じさせられる。
不思議と、その響きがその場にあってしかるべきだとでもいうように馴染む。
女は笑ってグラスを合わせると、一息で飲み干した。俺も負けじとウォッカをあおった。一息で。
クラクラする。酒の酔いが回っただけか、それとも目の前の女にあてられたのか。
「あなたってよくわからない人ね」
女は新しいカクテルをバーテンに頼むと、俺の方を向いて言った。
「ただのバカなのかもしれないけれど」
俺は女の瞳を覗き込み、その奥にある意思を探そうと試みていた。でも無駄だった。
その深ささえ解らない。濁った湖の底は、どんなに瞳を凝らしてもわかりようがないみたいに。
「知りたいかい?」肌を合わせる位、深く。
俺は欲望に身を支配されていくのを感じていた。そう、もう優先させられる目的なんて他には無い。
今宵の女王の服の下にある肌を思っていた。
女は笑うと、顔を近づけて軽く口付けてきた。
「どうでもいいわ、そんな事」そう言って、俺から視線を外すとそれからは一切俺に話しかけようとはしなかった。
俺はそんな事に一々気落ちするほどの理性は残っていなかったから、ただ彼女に向けて話しかけ続けた。
もう、どちらが根負けするかという勝負になっていた。
俺が諦めるのか、女が諦めるのか。勝負だ。俺は負けるつもりは無い。
誰かがジュークボックスにコインを入れ続けているらしい。偏執的にブラーが好きな男(或いは女。そんな事はどうだっていい)がいるようだった。
同じ曲が4回続けて流された後に、彼女は俺の方を向いて言った。
「あなた、まるで壊れたジュークボックスみたいよ。誰がコインを入れているのか教えて欲しいわ」って。そういうと、今度は笑った。声を上げて。
俺は、勝負に勝ったことに満足しつつ、答えた。
「あんただよ。ようやくそれがどんな曲だったのかわかったのかい?」
「場末の酒場でどうしようもない酔っ払いが女を口説く歌」
彼女は仕方ないという風に肩をすくめてから、言った。
「だけど、私は安くない。簡単に寝る位ならここで朝まで酒を煽ってる方がマシだわ」
俺は新しいジンバックを2杯バーテンに頼んで、彼女の瞳を覗きこんだ。
改めて、美しい瞳だと思う。澄んだ、深い湖のように暗く穏やかな色。
俺は故郷を思い出した。一体何年ぶりだろうか、そんなものを思い出すのは。
一度は捨てた故郷だ。一旗あげる為にそこにあった何もかもを捨てた。両親さえそこには含まれている。
覚悟があった。それだけの覚悟があったのだ、あの頃は。
俺は彼女の瞳を見つめるのを止めた。そんな俺を彼女は面白そうに笑った。
「照れたの、私に?」
俺はバーテンの持ってきたジンバックを彼女に渡し、そして自分の分を手にとった。
俯瞰してしまったのかもしれない。彼女の瞳にある湖の淵に立って、現在の俺を。
場末の酒場で管を巻く、そんな男の事を。
俺は笑って言った。
「まさか、運命の女神さまに出会うなんて」
彼女は俺の言葉の意味を解らなかったのだろう、首を傾げてしまっていた。俺は彼女に背を向けて、ジュークボックスまで歩くと
スマッシングパンプキンズの曲を掛けた。全く、あったら入れようと思った曲が本当に入ってるなんて。
大げさとも言えるようなストリングスが印象深いイントロが終わって、アルペジオが流れ出した頃にはスツールに戻った。
「あんたと寝れば、きっと俺は変わる」
冗談じゃなく、そう思った。そしてそんな台詞を酔っ払っていても吐く事が出来たなんて。
「今夜、変わるか」彼女は曲を聴きながら言った。
「馬鹿馬鹿しいけど、さっきまでのあんたと瞳の色が違う」彼女は俺の瞳を覗きこんで言った。
5分前の俺ならば下らない、と笑うだろう。こんな事は。
けれど、そう信じる事が出来た。現在から、変われる事を。
そしてその為にはそう感じさせたこの女が必要だ、と思った。
瞳の色に魅かれた女を。正直に言おう、俺は恋をしていた。さっきまではただ寝られればいいと思っていた今宵の女王ではなく、
俺の運命の女神に。
「今夜から、変わる」俺はそう言ってジンバックを彼女のほうへ差し出した。
彼女は笑って、言った。
「あなたとの出会いに」とても素敵な微笑みだった。そして、尚更俺の心臓を掴み取るような魅力を増して見えた。
「俺達の未来に」
彼女は微笑んだままグラスを合わせ、そして飲み干した。俺は次に繋ぐ言葉を捜していた。
一体、こんな酔っ払いが女神と結ばれるためにはどんな言葉を並べればいいのだろうか?
俺には判らなかった。ただ、失えないという意識だけが宙ぶらりんにそこにあって、それは焦燥となって纏わりつく。
そんな俺の葛藤を見て彼女は言った。
「私達の未来にもう一度乾杯しましょう」
俺は手に持ったグラスを彼女に差出し、彼女はグラスを俺に合わせた。
ガラスが当たった音のはずだった。
けれど、俺にはそれは未来を祝福する鐘の音のようにさえ聞こえた。
そうだ、未来は祝福されている。
俺はそれを見失い、そして漸くそれに気づく事が出来ただけだ。
それだけで、美しい明日が生きられるような気がした。
俺は自分の人生にあらゆる可能性が横たわっている事を忘れていたのだ。
ただ、それだけだ。
故郷を思わせる、湖のような瞳の色を持つ運命の女神に出会わなければこのまま気づかないで生きていたのかもしれないけれど。
俺は、気づく事ができた。