第75話 恐怖
人影のまばらな街道を、ミエラ、ヘルネ、ヒカルの三人はひたすら歩く。ミエラは気が気ではなかった。ちらちらと後ろを振り返る。
「そんなに後ろを見ても、何も来やしないわよ」
見かねたヘルネに注意されたが、ミエラの心は浮足立ったままだった。
「だって……」
その先は言葉にならない。自分でも酷い顔をしているのが、ミエラには分かった。ヘルネはやれやれと肩を竦める。
「それじゃ、もう諦めてここで座ってみる?何日かしたら追手が見つけてくれるわよ?ずっと後ろを気にしながら歩くより、精神的にはいいんじゃないかしら?」
「ふざけないで!」
言って、自分で思ったより大きな声になりびっくりする。ヘルネも一瞬ビクっとしたが、すぐに普段の柔らかい表情に戻った。
「そうよ、そんなふざけたことをしないためにも――前に進みましょう。後ろを振り返って、仮に追手が見えたところでどうしようもないわ。だから、ただひたすらに逃げるのよ。もう少しで、ジャイの街に着くわ。そうしたら、もう次はオートランドじゃない」
「――オートランドに着いたって……それで、どうなるの!ヒカルの力が本当に戻って来るの?結局、あいつらがオートランドの中にまで入ってきて、それで戦いになったら?私達にどうにかできるの?ティエルヤドーの街で、すれ違ったあいつらのステータスを見たでしょう?あんなの、どうやったら勝てるのよ――」
ジーシカで会った給仕の女と、ドワーフの女。恐らく追手と思われる二人のステータスは、ミエラに恐怖を刻みつけるのに充分だった。給仕の方は“魔力”のレベルが二桁に達し、ドワーフの方は“剣術”Lv020を始めとする高レベルのステータスが揃っていた。
「別に勝たなくてもいい、逃げ切れれば――」
「無理よ!こっちはオートランドに本拠地があるってばれてる!商会も全部引き払って、流浪の生活を送るの!?いつ追手に捕まるともしれない日々を、死ぬまで送るっていうの!?」
ヘルネは悪くない。むしろ今できる最善の策を考え続けてくれている。そんな彼女に当たってしまう自分が情けなかったが、口が勝手に動いてしまった。ヘルネはしばし固まったかのように動かなかったが、それでもやはり、微笑みを崩さなかった。
「――それでも、仲間がいるわ。オートランドには」
「……なか、ま」
「そう、仲間。私にとってはずっと一緒に暮らしてきたユリィがいるし、貴女にとっても、“ゼラー”として共に艱難辛苦を味わい、そしてヒカルによってその悪夢を脱却した仲間が、いるんでしょう?」
謡うようにヘルネが言う。その言葉に、少しだけ自分の強張った心が溶かされるような気がした。
「私達は一人では弱い、でも、仲間がいれば、もしかしたら考えもしなかったことを指摘してくれるかもしれない。最悪の状況でも、きれいさっぱりひっくり返す方法を思いついてくれるかもしれない。だから、帰りましょう。オートランドに、我が家に。それからのことは、またその時に考えて――」
「……うん、そうだね」
ヘルネの言葉が、ゆっくりと脳に染み込んでくる。ミエラはのろのろと、前を向いた。ヘルネと――そしてヒカルがいる。さっきから全然、ヒカルのことを考えもしていなかったことに、ミエラは気付いてまた恥ずかしくなった。
「ミエラ、行く」
たどたどしい言葉で、ヒカルが話しかけてくる。いきなり力を失って、言葉も通じなくなって、追手に追われて。自分よりも、きっと追い詰められているはずのヒカルは、それでも今は力強い目をしていた。ミエラが精神的に参ったのに気付いた、今だけの演技かもしれない。それでもそうできるヒカルはすごいと思うし、かつての万能だったヒカルの面影を、そこに確かにミエラは感じた。
「そうだね――行こう、ヒカル」
ヒカルの手を取る。その手は、昔も今も変わらず暖かい。ミエラは折れかけてしまった心を、もう一度奮い立たせた。ティエルヤドーを出て、もう八日は経っている、あと少しで――ジャイの街だ。
しかし、彼ら三人の後方――その日の夜には、三人に追いつくようなスピードで、街道を駆ける二頭の馬がいる。当然ながら、ミエラ達は知る由もなく、また、追う者にとっても知る由のないことであるが――ジャイに至るまでに、彼らが激突することはもはや必至であった。




