第72話 ティエルヤドー
ジーシカとオートランドの間、ジーシカから計ってちょうど三分の一程度の距離の所に、ティエルヤドーの街はある。この世界の例に漏れず、ティエルヤドー自体が一つの独立国で、先の首脳会議にも特使を派遣していた。
「ふう……なんとかここまで来たわね」
入国検査の順番待ちをしながら、ヘルネが呟いた。ミエラはほっと息を吐き、言葉がほとんど分かっていないはずのヒカルもつられて同じように息を吐く。ジーシカを出てはや十日、無理に無理を重ねて、ようやく三人は第一の中継地点であるティエルヤドーへと辿り着いたのだった。一息吐いた三人に、門番から声がかかる。
「はい、次の人達……えっと、お姉さんはなかなかのステータスだねぇ、お嬢ちゃんも“算術”が飛びぬけてる――っと、最後はなんだ、“ゼラー”か」
どこか軽薄そうな門番から、露骨に蔑みの視線を浴びて、ヒカルが顔をしかめる。一度言葉を忘れ去ってしまったかのようなヒカルだが、さながら新しい言語を学ぶかのように、僅かずつだが言葉を解するようになってきている。そのため“ゼラー”の単語は聞き取れたようで、何を言われたか見当がついたようだった。これまでのヒカルなら、秘めた力のおかげで何を言われてもどこ吹く風だったろうが、今のヒカルにはその余裕もほぼ消えてしまったかのようだった。
「この“ゼラー”、お姉さん達の何なの?」
「――旦那様ですが、何か?」
怒りを押し込めて門番の問に答えるヘルネ。その答えに門番は一瞬きょとんとした顔をしたあと、下品な顔に変わった。
「冗談でしょ、若くて才能もあるのになんでこんな“ゼラー”と一緒にいるのさ、そんなやつほっといて、二人とも俺とイイコトしない?こう見えても俺、“剣術”はLv010だし――夜の方もすごいんだぜぇ」
「結構です!!審査が終わったならとっとと通してください!!」
さすがに沸点を突破したヘルネに、門番はまるで堪えていないようなへらへらとした表情で、それでも道を開けた。
「俺はずっとここで働いてるから、気が変わったらいつでもおいでよ~」
後ろから声が聞こえて来るが、そんなものを無視してヘルネは歩く。
ふと気付くと、隣にいるヒカルが不安そうな顔をしていた。ヘルネは何も言わず、ヒカルの右手を自分の左手と絡ませる。逆側では、ミエラが同じようにしていた。ぎゅっと握ることでヒカルの力が伝わって来るが、まるで縋るような頼りなさを感じてしまった。
「ジーシカは最悪な思いでしかないけど、それでも軍紀はしっかりしていたわね。その意味ではあっちが懐かしいわ」
門番を思い出し、むかむかしながらヘルネは呟く。ミエラもうん、と首を大きく縦に振った。
「ホント、さっきの門番酷かった。ヒカルの力が戻ったら、いの一番にぶちのめしに行かないとねっ」
極めて明るくミエラは言うが、同時にヘルネにはその未来が霞んでしか見えなかった。もうヒカルが力を失って十日以上。言葉は少しずつ覚えて来ているが、これは回復というよりは新たに学んでいるといった雰囲気に近い。すなわち、ヒカルが元に戻るという保証が、どこにもないのだった。
――いや、可能性はある。ヒカルに魔法をかけたと見られるあの女。彼女を殺せば、もしくは彼女に命令して魔法を解かせればおそらくはヒカルの力が元に戻るのだろう。だが、今や自分達は追われる身。とてもではないが、ジーシカの腕利き魔法使いを倒しに行ける力も能力もなかった。
憂鬱になりかける気分を吹き飛ばすように、ヘルネは前を向く。この中継地点で、少しでもいい乗り物や食料を手に入れないといけない。ジーシカからここまでの間は、運よく行商人の一行と早めに出会うことができ、必要な物資を手に入れられたのだがそれもティエルヤドーに着く頃にはなくなってしまった。これからも幸運が続くとは思えないので、また次の街までのおよそ10日ほどを、乗り切れるだけの用意をきちんとここでしなければならなかった。
「まあ、まずは宿を取って食事をしましょう。体も汚いし体力も蓄えないと」
「うん――あ、でも私達が宿をとって、当局に通報されたりしないかな……」
「それは入国の時にだって言ってたけど、ちゃんと説明したじゃない。ジーシカは他の国にヒカルが力を失ったことを言っていないだろうって」
「ああ、そうねごめんヘルネ。ついつい色んなことが怖くって……」
ミエラもやはり精神的に無傷というわけではない。負担がかかっているから、様々な不安が頭をもたげて来る。気持ちはよくわかったが、入国のときに咎められなかったのだから宿を取っても何も怪しまれることは無いはずである。ちなみに、彼女が大丈夫だと考えた理由は外交的なものである。城島ヒカルを一国だけ恐れずに済むということは、他の国との交渉でも取り得る選択肢が広がるということだ。一国だけ調子に乗ると他の国から目をつけられる可能性もあるが、そこはあの女王。バランスを取ることくらいは朝飯前だろう。そんなカードを、そうそう簡単に切るとは思えない。加えて別の理由もある。
「でも――やっぱり、ヒカル対策が最優先だと考えて、みんなで協力しようとあの女王様が訴えかけたらどうするの?」
「それでも、私がジーシカを発つときに特使達とは話をしてきてるからね。エパナ陛下がいくら城島ヒカルは弱体化した、とかまだ滞在すると言っていたのに急遽いなくなったから攫われたのではないか、とか、色んな言い方で揺さぶりをかけたとしても、他の人にとっては、もしもヒカルが力を失っていなかったら反逆者として処罰されるという恐怖があるから、そうそうエパナ陛下に味方しようとは思わないはずよ」
「うん――そう、そうだよね……」
それでもどことなく不安そうなミエラだが、感情の問題なのでなかなかヘルネには如何ともしがたかった。
「さあ、腹をくくって宿を見つけましょう!お風呂に入って、おいしい物を食べれば、不安も吹っ飛ぶってものよ!」
ヘルネは鼓舞するように元気よく言い、ヒカルの手を引っ張る。そしてそのまま、ヒカルと、彼の逆側の手を握っているミエラを一緒に引きずるように、宿の乱立する区画へと入って行った。




