第69話 激流
最初は緩やかだった流れは徐々に急になっていく。
「ミエラ――頼りにしてるわよ」
ヘルネの言葉に、ミエラは魔導石を握る力をいっそう強めた。筏をコントロールする最良の手段は、彼女の持つLv010クラスの魔導石だ。ヒカルが普段使っている力は桁が違いすぎるが、この程度の魔法でも普通にオールを使うよりはよっぽど確実性が高い。
流れは急になり、周囲の地肌も切り立って来て、人の気配は全くと言っていいほどなくなった。
しかし、油断はできない。もう少しで、滝と見張りという二つの困難が待ち受ける。
「ミエラ――!!見えたわ、目印の岩!犬の顔見たいな形!」
その岩が見えたらすぐに、見張り台からの視界に入るとジリから聞いていた。いよいよここからが命懸けだ。
「ヘルネ、ヒカルをお願い!」
そう言って、ミエラは水魔法の性質を変更する。筏を操るのではなく、単に勢いを加え続ける。筏の速度が当然上がり、三人は投げ出されそうになるが事前に体と筏をひもで結んでいたおかげでなんとか安定は保たれた。
「いくよ!」
ミエラの叫びに、ヘルネがヒカルを抱える。事前に身振りで説明していたが、ヒカルには伝わっていただろうか。もしも彼がこれからやることを充分に理解していなければ、命に関わってくるが――それはもう、自分達の絆を信じるしかない。
そしてミエラは、息を大きく吸い込み――筏をひっくり返した。
ただでさえ息のできない水の中を高速で動く。冷たさが心臓を止めそうになり、波に揉まれる体は方向感覚を失ってパニックを起こす。しかしもはや後戻りはできない。自分達がジーシカを脱出できるか否かがここにかかっているという思いが、ミエラをなんとか踏み止まらせた。
薄闇の中とはいえ、筏でそのまま滝に向かえば見張りに見つかる危険性がある。だが、激流にまみれて筏の裏に隠れるなら、流木と間違われて気に留められないで済むかもしれない。速さもある。ただし言うまでもなく問題は――三人の息が続くかどうかだった。
(苦しい――滝は、まだなの?)
一瞬がとてつもなく長く感じられる。なんて馬鹿な作戦を立てたのだと、今さらながら後悔が押し寄せて来る。苦しい。今ならまだ、息継ぎ出来るか?苦しい。いや、急に川の流れが激しくなれば注意を引く。あとは人為的なものか自然現象か、どちらと取ってもらえるかだ。顔を出すわけにはいかない。苦しい。息継ぎしたい。苦しい。魔法、魔導石を離しちゃだめ。コントロールしないと。苦しい。滝はまだ?計算が間違っていた?苦しい。ひょっとしてまだ滝はずっと先?苦しい。ここで溺れ死んでしまう?苦しい。苦しい。もうだめ、魔法を止めたい。苦しい。苦しい。息継ぎしたい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい!!
もう駄目だ――とミエラが我慢できなくなった、まさにその瞬間――彼女は、体にかかる重力が変化するのを感じた。酸素不足の肺が悲鳴を上げ、三半規管は急な重力変化にパニックを起こす。意識が遠のき、全てを手放しそうになって――
「ぷはあっ!!!!!!!」
息が、出来た。
視界がクリアになる。自分の現状が正しく認識できる。私は誰?私はミエラ。ここはどこ?ジーシカの国境。滝から投げ出されて、空の上にいる。今何をしなければならない?――風魔法で、落下中の三人を受け止める!!
魔導石を握りしめる。上昇気流が生じ、バラバラになりかけていた筏と、それに紐で結びつけられていた三人が受け止められる。落下が止まるわけではない、しかし、そのスピードがやや緩やかになり――そして三人は滝壺の中へと落ちて行った。
また水の感触。しかし今度は浮上しても大丈夫。崖の高さはかなりあり、いると分かってもいない人影を見張りが上から見つけるのは不可能だろう。
「ヘルネ!?ヒカル!?」
ミエラの声が聞こえたかのように、浮き上がる影があった。ヘルネだ。息も絶え絶えになりながら、ヒカルを抱えて――
「ヒカルが気絶してる!!急いで岸に上がらないと!!」
ミエラの声に、慌てて水魔法を使い自分達を岸へ流す。
飛び上がるように岸に上がったヘルネは、手早くヒカルを寝かせると彼の唇に自分のそれを押し当て、息を送り込んだ。続けて胸に手を押し当て、リズムよく力を加える。しばらくそれを続けていると、やがてヒカルがうめき声を上げた。正常な呼吸音が聞こえる。
「ふう――何でも勉強しておくものね」
ヘルネが額をぬぐいながら息を吐いた。疲れ切った彼女に代わって、ミエラがヒカルを起こす。まだ意識が朦朧としているようだが、縋りつくようにミエラの肩を借りて来た。
「体が冷たい、火を起こさないと」
「ここは上から見えるわ。あちらに向かいましょう」
すぐ近くに、森の入口があった。中に入ってしまえば火を焚いても見張りに見つかることはあるまい。ヘルネとともにヒカルの両脇を支えるようにして、ミエラは一歩を踏み出した。
ようやく森に入り、魔導石で火を起こす。木々や岩などで可能な限り死角となるような位置を選んだので、おそらくばれることはないだろう。炎の暖かさに、ほっと息を吐く。ヒカルは意識を失ってはいないものの、疲労が激しいのかミエラの肩に頭を乗せて、少し体重を預けるような格好をしていた。
「とりあえず――脱出は成功したわ。それは素直に喜びましょう」
ヒカルを挟んで向こうに座るヘルネが口を開く。彼女の言葉にはしかし、喜びよりも緊張と不安の方が多く感じられた。
「――ここから、今度はオートランドまで帰らないといけないんだよね。ヘルネ、道は分かるの?」
「……ある程度は。一応、ここから街道に辿り着ければ、あとはそこを通るだけだから道は分かるけど――」
ヘルネは少し言い淀み、続けた。
「一カ月。オートランドに徒歩で帰ろうと思ったら、どんなに急いでもそれだけはかかるわ。その間、追手が来たら撒くか返り討ちにしなければならない、盗賊が現れても同じ」
「――でも、やるしかないんだよね?」
「ええ、そうね。ジーシカからこうやって逃げ出した以上、もはや逃げて逃げて、オートランドに戻って――ああ、それだけでも終わらない気もするけど、それからのことはまた考えましょう。今は、ただオートランドに帰り着くことだけを」
「うん、私達三人で、オートランドに――」
二人は視線を上げ、黒々と広がる森を睨むように見つめた。




