第60話 錯乱
ヘルネは何か大変なことが起こっていると気付いた。それが何かはまだわからない。しかし、真っ青な顔をして気を失ったヒカルの姿を見ては、尋常でない出来事が起こっていると理解できた。
「ヒカル、ヒカル、大丈夫――?」
腕の中に倒れ込んで来たヒカルを咄嗟に受け止めたものの、彼は完全に気を失ってしまっている。幸い、周囲からは少し距離を取られていたので、ヒカルの異変には気付かれて――
給仕をしていた女と、目が合う。一見、おどおどと頼りなさそうに見えるその女の目の奥に――ぞっとするような冷たさをヘルネは感じた。
まずい。何が何だかわからないが、これはまずい。女は何か品定めをするようにこちらを見て、そして――
「どうしたの、ヘルネ!ヒカル!」
ミエラがそこに、割って入って来た。緊急事態と悟ったか、ヒカルから預けられた魔導石を取り出して持っている。
「ああ、実はいきなりヒカルが……」
思わずミエラに気を取られ、そしてはっと我に返り、再び給仕の女を探そうとしてももうその姿はなかった。
「――そう、ヒカルが何かわけのわからないことを言いだして……」
「ヒカルがわけのわからないことを言うのはいつものことじゃないの?」
「そうじゃないの、何と言うか、まるで言葉が伝わっていないみたいな……」
「ヒカルが?どこの国の言葉でも上手に操れるのに?」
確かにヒカルは様々な国の言葉を流暢に操れる。それはヘルネも知っていることだが、さっきまでの様子は、まるで別の国の言葉しか喋れない人のようだった。
「って、それより、今のヒカル!どうしてヘルネの胸に顔をうずめてるの!?」
「そんな悠長な状態じゃないのは貴女も分かってるでしょう、気を失ってるわ」
「――それって……」
言いながらミエラは周囲を不安げに見る。ヘルネもミエラの言いたいことはわかった。まだなんとか二人の陰にヒカルを隠し、何が起こったのか悟らせないようにできているが、ヒカルの不調が周囲にばれてはよいことが何もない。現状、皆を従わせているとはいえ、力で抑えつけているようなものだ。もしもヒカルが弱っていると思われては、暗殺を狙われる可能性すら充分にある。普段は勿論そんなことがあっても大丈夫だと二人とも思っているが、なにぶん今のヒカルに何があったのかがわからない。
ヘルネは意を決して周囲の特使達に向き直った。
「皆様、旦那様は気分を悪くされたようですので、今日はこれにて失礼いたしますわ。それではまた、ごきげんよう――できれば、今度は旦那様の気分が害されないことをお祈りしております」
出せるだけの迫力を振りまきながら、そう言ってヘルネはヒカルと伴に退席する。ミエラもすぐ後ろを続いた。
「こういうときは下手に嘘を並べるより、本当のことを言わない程度のほうが誤魔化しがきくものなの」
廊下を速足で歩きながら、ヘルネはミエラに説明する。ここで誰かとかち合ってはまずい。
「周りには、さもご機嫌取りに来なかったからヒカルが怒って退出したと思わせたのね?」
「ええ、とりあえず、今日この時間だけでも誤魔化さないと……早くヒカルの回復を待って、何があったのか聞きましょう」
ヘルネには、睨みあった給仕の女のことも気になった。どうにも、ただの召使いではないような感覚があったのだ。咄嗟のことでステータスを読み逃したことを後悔した。
だが今はそんなことを考えている余裕はない。千里の道にも思える通路を通り、ようやく三人は割り当てられている部屋にまで辿り着いた。
「それで――やったのか?」
エパナはメヒーシカに尋ねる。彼女もまた、晩餐の手続きに不具合があったと称していったん退席していた。噂になればジーシカの評判にも障るが、どうせこのままいけば城島ヒカルの支配下である。それならば体裁も気にせずできるだけのことは全て行うべきだと思った。
なのでまずは情報共有である。給仕の女に化けていたメヒーシカがどうやら件の魔法を使ったようなので、早速守備を確認した。
「うまく――いったと思うの。でも、まだ魔導石を彼は持っている可能性がある。追撃には慎重にならなければならなかった」
「それでいい。レベル100程度の魔導石とは言え、相手が魔導石に絞れるなら対策のしようもある。今はじっくりいこう」
「いいえ、あんまりじっくりしていると故国に逃げられてしまうかもしれないわ。なんとしてもジーシカにいる間に始末しないと」
「しかしどうする?向こうも相当慎重になっているだろう」
「今ならまだ、何が起こったか混乱しているはず。正妻の方は相当なレベル持ちだし、側室の方はレベル010くらいの魔導石を持っていた。三人固まっていると相手にしづらいけど、バラバラにしてみることを考えましょう。まずは、私が様子を見に行く、手を貸してね――」
そしてメヒーシカは立ち上がる。狩る者と狩られる者が逆転した物語が、始まろうとしていた。




