番外3 紡ぎゆく糸
毎日投稿一カ月達成記念短編第三弾です!
「本日は遠いところをありがとうございました。どうぞお気をつけてお帰りくださいませ」
師匠のキーシャが床に膝をつき、丁寧に客を見送る。彼女の振る舞いはいつだって凛と華やかで、そして――だからこそ、ヘルネは今日の客を許せなかった。
ヘルネは高級娼館の娼婦見習だ。師匠であるキーシャの身の回りの世話をしながら仕事を学び、高級娼婦としての様々な教養を身につける。今日も彼女は師匠が客を取った後の部屋を片付けていた。
「お疲れ様、ヘルネ。もう上がっていいわよ。あとは私がやるわ」
「はい……」
「どうしたのよ、いつもの元気がないわね」
返事にどこか元気のないヘルネを、キーシャが気にかける。
「……キーシャお姉様、お客様には決して腹を立ててはいけないと、教えていただきましたが――ヘルネは悪い弟子のようです。先程の殿方に、私は怒り狂っております」
「どうしてかしら、理由を聞いても?」
「――始まる前、待合で、一緒に来ていた方と、あの男が何と言っていたと思いますか。……こともあろうに、キーシャお姉様のことを、『ババア』、と!!罰ゲームだそうです。仲間との賭けに負けたから、『ババア』に相手をしてもらうことになったと!!どこの貴族の子息だか知りませんが、あの男はっ……」
怒りに歯を食いしばるヘルネを見て、キーシャは困ったように笑った。
「私のために怒ってくれるのね、貴女はよい弟子だわ。でも――それは私がババアなんだから、仕方ないじゃない」
「そんなことありません!キーシャお姉さまはここの誰よりも美しいし、誰よりも品があります!」
「そして、ここの誰よりも年上、だわ」
「――それは、」
ヘルネに次の言葉が続かない。事実、キーシャの歳はもう四十を越えていた。美貌にも僅かに陰りと老いが見えるのは、本人もヘルネも、口には出さずとも感じてはいることである。
「――キーシャお姉様は、何故この仕事を続けられるのですか。花の盛りにやめておけば、今日のような屈辱を味わうこともなかったでしょうに――」
世の中は需要と供給で成り立っている。人気があり、訪れる男の絶えない娼婦なら相手を選ぶこともできるが、それが陰ればやがて関心のなかった客も取らねばならなくなる。ほんの十年前ならば男を袖であしらってもお釣りが来るような女だったキーシャも、今ではすっかり日陰の立場に落ちぶれていた。
「さあ……どうしてかしらねぇ。あるいは、やめ時を見失ってしまったのかもしれないわ……それに、今さら……」
どこか遠くを見るように、ヘルネの師匠は言う。
「……私の指導が負担なら、今からでも別の師匠に――」
「ヘルネ、そんな寂しいことを言わないで。私が貴女のことを負担に思うなんて、あるわけないでしょうに。もしも貴女のことで私に辛いことがあるとすれば、それは貴女の行く先を見届けることができない場合だけよ……」
沈黙が場を支配する。それを破ったのは二人の声ではなく、階下から聞こえてきたどなり声だった。
「帰りな!ここはおめぇみてぇなガキの来るところじゃねえんだ!」
急に響いた大声に、何事かとキーシャとヘルネは窓から身を乗り出した。そこにいたのは、娼館の使用人とまだ年端もいかない娘。どうやら、娘の方を使用人が追い払おうとしているようだった。
「ちょっと、そんな小さい子を夜の街に放置するのはいかがなものかしら。こっちへ連れて来なさい」
「――キーシャの姐さんがそう言うならしょうがねえ、おい、ついて来い」
キーシャは窓から指示を出し、少女を出迎えた。
連れて来られたのは、石のように表情を硬くした女の子だった。まだ子供を産める身体でもないだろう。こんな場所にいるには場違いなほどに幼い。
「ごめんなさいね。あの人は少し融通が利かないから。それで――お譲ちゃんはどうしてこんな所に来たのかしら」
膝を床につき、視線を少女に合わせて問う。キーシャは子供の扱いも長けているようだ。むっつりとつぐまれていた少女の口が、小さく開いた。
「父様……死んで……家……いれなくなって……」
途切れ途切れに聞こえてくる言葉は、しかしそれだけで少女に起こった重い現実を想像させるのには充分だった。
「そう……とても辛い思いをしたのね」
キーシャは少女を抱き寄せた。頭を優しく撫でる。
「それで――父様、生きてる時……何か、あったら……ここに、来るように……キーシャ、って人に……」
キーシャの手が止まる。
「……お父様のお名前を聞いても、いいかしら」
「……ヤワフォ」
その名前を聞いて、キーシャの目が見開かれた。
「そう、貴女が……わかったわ。とりあえず、今日はもう遅いからここで寝なさい。明日、ゆっくりお話ししましょう」
そう言って、キーシャは少女を布団に寝かせつける。
「最後に一つだけ、貴女のお名前も、教えてもらえるかしら?」
「……ユリィ」
「ユリィ、ああ……もっと早くに会えていれば……」
キーシャの両目からは、涙がこぼれていた。
「あの子――何者なのですか?」
少女が寝静まったのを確認して、ヘルネはキーシャに問う。
キーシャはヘルネの目をしっかりと見据えて、言った。
「断定はできないけど……私の娘だわ」
そして、キーシャはぽつりぽつりと話し始めた。
「ちょうど私の、全盛期とでも言えばいいのかしらね――その頃に、とても贔屓にしてくれた御方がいたの。私もその方のことは好ましく思っていたから、来てくれた時には断ることもなかったのだけど――ちょっと間違えて……妊娠しちゃったの。それで――私も一度は子を産みたいと思っていたから……その頃は誰を断っても許される立場だったから、うまいこと生まれるまで誤魔化しきって――その後はすぐに父親の方に引き取ってもらったわ。乳母も雇える身分の方だったからね。ただそれから色々あって……生き別れになってしまっていたのだけれど、よもやこんなところで再開できるとは――人の縁というものは不思議なものね」
「そんな……ことが……」
まさかキーシャに子供がいたなんて、思ってもいなかったヘルネはただただ驚く。
しかしキーシャは追い打ちをかけるように、真剣な眼差しでヘルネに言った。
「ヘルネ……貴女は、もう、お客様を取れるほどにまで成長したわ。貴女になら……後を任せられると思う」
「どうしてそんなことを――娘さんが見つかったから、これからはお二人で静かに過ごされるということですか?」
「いいえ……違うの、これは私の我儘――ッ」
そして寂しそうにキーシャは笑い、咳きこんだ。
「キーシャお姉様!?――血がっ!」
突然のことに驚くヘルネ。キーシャが口を押さえた手には、赤いものが付いていた。
「あ~あ、折角ここまで誤魔化せていたのにね……娘と再会して、感情が体に出ちゃったのかしら――ごめんね、黙っていて」
その言い方から、尋常ではないものをヘルネは感じ取る。
「お姉様……?冗談でしょう……?」
「残念ながら、もう長くはないって。この街で一番の回復魔法の使い手でも、太刀打ちできない病よ」
落ちついた言い方に、ヘルネはキーシャが既に覚悟を決めていることを悟る。
「できるだけ貴女に心配かけないようにして、ある日ぽっくり逝って……その後は、貴女の好きなようにやってもらおうと思っていたんだけど……ごめんなさい、娘だけは――貴女に頼るしかないわ。私が最も信じている貴女に、私の娘を育ててほしい。どうか――お願いします」
「やめてくださいお姉様!弟子に頭を下げるなんて――勿論です、勿論ユリィのことは私が責任を持ちますから……どうか、どうか寂しいことを言わないで……」
途中からは言葉が続かず、ただ鳴き声を上げながらキーシャに抱きつく。キーシャも泣きながら抱き返し、二人ともその晩は泣き続けた。
それからの日々は、とても慌ただしく過ぎた。完全な一人前としてヘルネを認めさせるために、キーシャは娼館の内外に働きかけてくれた。また、ユリィについては、まだ年齢的に早いと思わせるようなものが目や耳に入ったりすることは避けつつ、手伝いをさせたり教養を授けたりといったことをヘルネが中心となって行っていた。ヘルネはキーシャが残された時間をなるだけ多く娘と触れあって欲しいと言ったが、ユリィはこれからヘルネの弟子になるのだからとキーシャは取り合わなかった。それでも空いた時間にキーシャとユリィが一緒になることもあったが、キーシャは決して自分が実の母親であることは明かさず、あくまで弟子の弟子に取る態度で接していた。
そして――やがて来るべき日が来た。
寝床から起き上がれないほどに衰弱していたキーシャは、ヘルネとユリィを呼び寄せた。誰の目にも、死期が迫っていることが感じられた。
「ヘルネ――貴女は、ここで暮らすうちに、随分円くなったわね……昔はもっとギラギラとしていて、覇気に溢れていた……」
「そう……でしたっけ」
「そう……ね、娼婦としては少し怖すぎるくらいだったわ……ここで生きてくなら、円く、包容力のあるほうがいいのでしょうけれど……貴女がもし、もっと広い世界で生きてみたいと思ったのなら――そうしなさい。貴女に、籠の鳥は似合わないわ」
「はい……はい、お姉様」
「泣かないの。美人が台無しよ。常に美しくありなさい。そして、いつの日か素敵な殿方に巡り合えることを――祈ってるわ」
ヘルネと話し終えると、キーシャはゆっくりと手を上げ、ユリィの頭に乗せた。
「ユリィ……これからは、何事もヘルネに従うのよ。彼女は、必ず貴女を立派に育ててくれるわ」
「はい……キーシャお姉様」
「ふふっ、『お姉様』か。それは、ヘルネに言ってあげて。私はヘルネの更に師匠なんだから……『お母様』とでも呼んで頂戴な」
「お母様……?」
「そう、そう……ああ、とってもいい響きだわ……」
そのまま少し、ユリィの頭を撫でた手が……やがて、ぽとりと下に落ちた。
ヘルネとユリィは、その場で泣き崩れた。
「すみません、キーシャさんはまだここにいらっしゃいますか……」
キーシャの喪が明け、一人前の娼婦として働きだしてからしばらくした頃、ヘルネは店の前でそんな風に声をかけられた。
どこかで見た顔だと思って記憶を探ると、以前キーシャをババア呼ばわりした客だと思い出す。
「残念ながらおりません。キーシャお姉様は遠い所へ行ってしまわれましたわ。だからお引き取りください」
機嫌の悪くなるのを隠そうともせずに、ヘルネは男に言った。
「そうかぁ……残念だなぁ」
しかし鈍感なのか、男はヘルネに敵意を向けられたのにも気づかないように、のんびりと言う。
「実は僕、失礼ながら最初はキーシャさんのことを馬鹿にしてたんですよ、この娼館にやめ時を失った娼婦がいるって聞いて――仲間と賭けをして負けた奴が相手してもらおうって――まあ、罰ゲームってやつですよね。それが……実際に相手をしてもらったら、こんなに素晴らしい女性がいるのかってくらいで……だから、お金をためてまた相手してもらおうと思って来たんですけど……そっかぁ……いないのかぁ……」
心底残念そうな顔で言う男の顔を見ていると、ヘルネは心の中が晴れ晴れとしてくるのを感じた。
「そうですわ、キーシャお姉様はこの娼館、いやオートランドでも最高の女性、実際に相手していただくまでそれが理解できないなんて、とんだお坊ちゃまですわね」
「手厳しいな……でもその通りだよ。たった一夜だけど、僕は彼女に色々なことを教えてもらった気がするね――ありがとう、君は彼女のお弟子さん?」
「ええ、ヘルネと申しますわ。もしよろしければ、これから御贔屓に」
その提案に、男はしばらく考えてから答えた。
「いいや――しばらく、キーシャさんの思い出に浸りたい。魅力的な提案だけど、遠慮させてもらうよ。」
「それは残念ですわね、それじゃあ、ご機嫌よう」
客に逃げられたにも関わらず、ヘルネの心には嬉しさがこみあげていた。そんな風に心が浮つくのは、師匠を亡くしてから、初めてのことだった。
 




