序 ブラックバイトクラッシャー
どこにでもあるような駅前の、どこにでもあるようなチェーン店の、どこにでもあるような従業員控室で。
「嫌ならとっととここをやめて出て行け!!」
その店の店長はバイトに来ていた青年を怒鳴りつけていた。
「で、でも……どう見ても最低賃金を下回ってるじゃないですか……」
「必要経費だと言ってるだろ、いまどきどこの店でもやってることだ!」
不況の世の中、どこも経営は苦しい。しわ寄せは当然、一番弱い立場の者に降りかかって来る。全国展開する大企業の中で、その立場は末端のチェーン店バイトだったというだけのことだ。
「もういい!お前はクビだ!今月分の給料ももらえないと思え!」
「クビ……ですか……」
「ああそうだ!今さら取り繕っても遅いぞ!この店で俺に逆らうのが悪いんだ!」
本店から人がきたらヘコヘコと頭を下げ媚びを売る、そんな小物の店長にとっても、ここは小さな城であり、彼はその世界では王であり、神のつもりだった。
だが――その例えで言うならば、奴隷であるはずの、目の前の青年が。
そこで、表情を変える。
「……最低賃金未満の給料にパワーハラスメント、そして不当解雇……ねえ店長、これ、出るとこ出たら、どうなりますかね?」
「ハッ?天下の上場企業サマと戦おうってのか!?裁判になれば金もかかるし時間も吹っ飛ぶ、お前ごときにできるわけないだろう!」
そう言って店長は鼻で笑う。実際、これまでにもこんな解雇の仕方をしたことはあったが、結局彼らは歯向かって来ることもできず泣き寝入りだった。所詮はこれが今の社会。弱い者を守る制度や仕組みがあっても、それを充分に活用することなど、できはしないのだ。
だが――そのバイト青年は表情を変えない。さっきまでのおどおどとした表情は嘘のようで、いつの間にか冷え切った瞳で店長のことを聞こえています。
「――ねえ、店長、“ブラックバイトクラッシャー”って言葉、聞いたことありませんか?」
「あん?――っバカなこと言ってんじゃねえ!」
都市伝説程度には、店長も聞いたことがあった。
お金と時間があり余ったどこかのボンボンが、貧乏学生の振りをしてブラックバイトに雇われる。
不正にこき使われてその証拠を充分集めつくした後に、その企業を訴え、豊富な資金と、法曹関係者との豊かな人脈を用いてその企業を骨までしゃぶりつくす――!!
青年が、にやりと笑った。
「なあんだ、店長知ってるじゃないですか」
「は、はったりはよせ!」
「ちなみに、これ録音機です。その他証拠には事欠きませんでした」
ポケットからレコーダーを取り出す。青年の冷たい目が、店長を見据えた。
「ひっ!」
飲み込まれそうに暗い喜びの炎が、青年の瞳の中でゆらいでいる。
「ああ、いい顔してくれますね店長。あなたの虐待に耐えたかいがありました。自分が強者で、相手が弱者だと思い込んでいる人間、相手に何をしても歯向かえないと高をくくっている人間に、それが幻想だと思い知らせたときの顔、絶望にゆがんだその顔が――俺は大好きなんですよ」
にたあ、と青年は化物のように、笑う。
「“ブラックバイトクラッシャー”の噂、中途半端にしか知ってない人は社会正義のヒーローか何かと誤解しているようですがね、生憎そんな高尚なものじゃないんです。単に、お金では買えない、強者の絶望って奴をどうやって手に入れるか考えた結果でしてね――というわけで、他のバイトの皆さんにも迷惑をかけるから訴えるのをやめろとか、そういう絡め手を使おうとしても無駄です。俺はそんな人たちには興味ありませんから」
店長には青年の声がもはや聞こえなくなっていた。頭の中を巡るのは、自分が築いた立場をなくされるということの恐怖。もはや一国一城の主ではなくなるという不快感。それだけは、何としても避けなくてはならないと、混乱した頭で考える。
「さて、次は会社のお偉いさんも含めて戦いましょうか。この会社は、どんな断末魔の声を上げてくれるのか、今から楽しみです。それでは店長、次は法廷かどこかでお会いしましょう。ごきげんよう」
そう言って、青年は店長に背を向けた。
このまま彼を帰してしまっては、店長の人生は終わる。その恐怖が店長の喉を締め上げ、正常な判断をさせなくし――そして、たまたま彼の視界に、一丁の包丁があった。
「おい、待て!」
店長の言葉に振り向く青年、そして彼は、そこで初めて焦ったような顔を見せた。
「お、おい何を持ってるんだよ店長!法定刑を考えろ!馬鹿なことはするな!」
「うるさいうるさいうるさい!!!貴様さえいなくなれば、すべて上手くいくんだああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
そして、店長はそのまま突進し、彼が握った包丁は、深々と青年の腹を切り裂いた。