黄泉戸契
「騙すような真似は、心苦しいから」
久方振りに顔を合わせた彼女は、何故か悲しそうに笑んでいた。
レストランなどによくある、二人掛け用のテーブルに、僕と彼女は向かい合わせで座っていた。後ろからの引っ張られるような感覚に、僕は自然と背筋を伸ばす。
最後に会った時と何ら変わらぬ姿で、彼女は僕を見ていた。
透き通る肌、流れる黒髪、真っ白いワンピース。
頭のてっぺんから裸足の爪先まで飽きることなく眺めていれば、愛らしい彼女にかつて抱いていた感情がゆっくりとよみがえってくる。聡明な瞳に全てを見透かされていそうで、時折ぞっとするのだが、それもまたいい。どれもこれも、彼女の全てが懐かしく、愛おしく思えるのだ。
テーブルには磨かれた大皿が一つと、銀の小さなフォークが二つ。皿に盛られた八つ切りの林檎には皮がついたままで、真っ白い皿の上、艶めかしい赤がその存在をひとしきり主張している。
「切ってくれたの」
他に言うことが見つからず、ただ思いついたままに告げる。彼女は気まずそうに、小さくうなずいた。
「好きでしょう、林檎」
そうだ。彼女はよく、こうして僕によく林檎を食べさせてくれた。
皮が残ったままなのは、彼女が林檎を切る時の癖だ。その理由について一度本人に尋ねてみたことがあるのだが、どうやらあまり包丁遣いが上手ではないため皮を剥くことができないから、ということらしい。包丁にこだわらなくても、ピーラーでもなんでも使えばいいのにと思うのだが、その発想にいつまでも辿り着かない彼女が可愛らしい。
では今回も――そこまでの過程を、僕は何一つ知らないのだが――彼女が僕のために、この林檎を切り分けてくれた、という解釈でいいのだろう。
変わらず続く、後ろからの引っ張られるような感覚に対抗しながら、目の前のフォークに手を伸ばす。三つに分かれた鋭い切っ先を、瑞々しい果実に刺しこもうとすれば、彼女が責めるような目で僕を見た。
「……いいの?」
涙の幕が張る彼女の瞳を、僕もまた、責めるような眼差しで見つめ返す。
どうして今更、そんなことを聞くのだろう。
これから起こることを全て僕に説明したうえで、彼女は僕に差し出してきたのだ。既に切り分けられ、いつでも食べられる状態にある、この真っ赤な林檎の実を。
――騙すような真似は、心苦しいから。
いっそ、何も言わないでほしかったとも思う。
それなら僕は何も知らないまま、何の疑いを持つこともなく、これを口にすることになる。そうして、彼女の願いは無事に果たされる。
それなのに、どうして。
どうして今頃、罪悪感でいっぱいの表情をするのだろう。
これは他でもない、彼女自身が望んだことなのに。
「僕と、一緒にいたいんでしょ?」
君は、そう望んでいたはずだ。
だからわざわざこうして、僕をここに呼んだ。
うつむき加減だった彼女が、小さく顔を上げる。その表情は変わらず悲しそうだったけど、瞳に宿る歓喜の色だけは隠しきれていなかった。
その相反する顔つきに、僕は改めて確信する。
彼女は、僕を愛してくれている。
そして僕もまた、彼女を深く愛している。
――だったらもちろん、やるべきことは一つだよね。
止めていた手を再び動かし、僕は林檎にフォークを突き刺す。深く刺さった部分から、じゅわりと果汁が零れた。
ためらいがちに、しかし確かな期待の眼差しを宿しながら見つめてくる彼女の目の前で、僕は果実を口にした。
しゃくり、と新鮮な音とともに、僕の歯は皮ごと林檎をすり潰す。何度も焦がれた懐かしい、甘く瑞々しい香りが僕の味覚を支配した。
刹那、ぷつっと何かが切れる音がした。
それと同時に、ここに来てからずっとあった、後ろからの引っ張られるような感覚が消える。対抗するように身体を前倒し気味にしていた僕は、後ろからの力を突然失い、勢い余って目の前のテーブルに頭を打ち付けた。
「あぁ、びっくりした」
痛む額を押さえながら顔を上げると、彼女が可笑しそうにクスクスと笑っていた。ほんのり色づいた、血色のいい頬。
あの頃――当たり前のように二人で一緒にいて、いつでもこうして笑い合っていられた時代に戻ったようで、僕も嬉しくなった。
和やかな空間の中で、ふと過ぎる家族や友人たちの顔。
みんな、今頃僕を心配しているだろうか。
――でも、ごめんね。
僕は、彼女とずっと一緒にいることを決めたんだ。
だから、さよなら。
彼女以外の全てと心の中でお別れをして、僕はもう一度、林檎の実を口にした。
タイトルは『よもつへぐい』または『よもつへぐり』と読みます。
あんまり深く考えて書いたわけではないので、ニュアンスでなんとなく察して頂ければ幸いですが…どうしても気になる方は各自意味を調べていただくか、これから書く活動報告を読んでいただければ、と思います。




