同日午後、大五郎
【大正論新聞横浜みなとみらい第二地区支店店長、大橋大五郎】
なんだと小娘、そう言いそうになって慌てて口を結んだ。
行き場を失った空気が仕方なく鼻から弾き出される。
目の前にはギラギラとした瞳を向ける少女。私より三十は歳下に見える。なのに、この圧迫感はなんだ。
そんなことよりあの金獅子のタイピン。そして、あの髪色。間違いない。
夜ノ森家の娘だ。
理解したところで困惑する。しまった。なんで夜ノ森家の娘がここにいる?脂汗が滲む。
とにかく、息を整える。パニックになりかけた頭を冷やさなければ。
「おやおや、これはこれは、夜ノ森家のお嬢様ではないですか。貴方がなぜこんなところに?」
「驚いたわ。不思議な豚ね。さっきまで外に聞こえるくらい大きな音でブヒブヒ鳴いていたのに、今は猫撫で声を出しながらハエのように前足を擦っているわ。新種かしら」
眉が無意識にぴくりと反応する。
人が下手に出ればこのアマ。
「そんな事よりも、早くここから去ってくれないかしら。言ったでしょう? 彼らはあなた程度じゃ釣り合わない。あなたに彼ら兄弟の父親役は荷が重いと言っているの」
「……ご冗談を。彼らは私の愛する家族ですよ?はいそうですかと手放せる筈がありませんよ」
手を広げ大げさに身振りをとる。内心はハラワタが煮え返りそうだったが、なんとか笑顔を作った。が。
「そういった口上は不要よ。私があなたに期待する言葉はYesだけ。ブヒブヒ言われても分からないわ」
小娘は手を前にかざし、冷たく笑いながらこう言い放った。俺は今小娘になんて言われている?耳を疑う。
そして、自分の聴覚が正常だと確認できた時、沸点を超えた。
「こんのクソアマがぁッ! 犯されてえのかッ!」
もうこの小娘が名門夜ノ森家の人間であろうと関係ない。
もうこの小娘が大正論新聞社社長の妹であろうと関係ない。
クソ生意気な小娘は躾けてやらなければならない。そうだ、これは躾けだ。
正しい事なのだ。詰め寄りながら自身に筋を通す。
二歩、三歩。駆け寄るように前へ進む。
その刹那、体が浮くような感覚と共に視界が激しく明滅した。
次の瞬間、腰と左頬に激しい痛みを覚える。
目を開くとなぜか真横に吹き飛ばされていた。
口の中で出血している。咳き込むと、赤く染まった歯のようなものが吐き出された。
何がおきた…?
目の前にいる小娘三人に何かできるとは思えない。だとすると。
後ろを振り返る。コウジとシンイチが眼に映るが、彼らはこちらを見てはいない。ただただ小娘の方を見つめ呆然としていた。
カツン、カツン。
一定のテンポでローファーが床を叩く音にハッとする。
「安心してください。あなたから保護者としての権利を奪うにあたっては、こちらで手続きをしておきます。適当に虐待とでもしておきますから、そのつもりで」
ギラギラとした瞳が一層強くなった。恐怖に飲み込まれる。
気が付いた頃には、病院を後にしていた。
かなり焦って逃げ出したからだろう。服はぐっしょり濡れている。
道路に手を上げ通りかかったタクシーを呼び止める。
中に乱暴に入り込む。運転手が何か言っているが答えずに目を閉じる。
覚えておけよ。後悔させてやる。