同日午後、進一郎
【シンイチ】
悪夢だった。僕の大切なものを持っていかれる夢。見知らぬ誰かに心を奪われる夢だった。
飛び起きると、コウジが目を細くしていた。
「心配かけたな。ありがとう」
細い目のまま、僕に歯を見せた。
正直泣きそうになった。それがなんだか悔しくて、本当だよ、とだけ返す。
本当、生きていてくれてよかった。
大切なものは、ちゃんとここに微笑んでいた。
「しかしなんだ、よく無事だったな。奇跡だってお医者さんも言っていたぞ」
「ああ、それは俺も不思議なんだけどよーー」
「おい! コウジはいるかッ!」
コウジの声を遮ってスーツ姿の店長、つまり僕たちの父親代わりが入ってきた。
ドタドタと音を立てて入ってきたため、周りの入院患者の視線は必然的に彼に注がれる。
だが店長は気にする素振りもなく、肩を数回上下させると、僕たちを睨む。そして大きく息を吸った。
「お前ら自分が何したか分かっているのかッ! 入院なんてしてる暇があるならさっさと客に詫びを入れにいけ! 客だけじゃなく本部からまで苦情が入りっぱなしだ! お前ら兄弟のおかげで休暇もぱぁだ! 責任はとってもらうからな!」
……やっぱりだ。朝刊を半分近く配達できなかった時点で予想はしていた。スーツ姿ということは、本部に召集されたのだろう。連絡を受け、泡を食いながら引き返したに違いない。
しかし、息継ぎすらなくよくもまあこんなに文句を並べて激昂できるものだと、毎度の事ながら感心する。
彼にとって、いや彼ら家族にとっては、僕たちなど単なる労働者に過ぎない。いや、もっと単純に労働力としか思っていないだろう。それを再確認するには十分過ぎる発言だった。
見ると、コウジは口をわずかに開けたままになっている。少しは心配されると思っていたのだろう。奴も人間だと心のどこかで期待していて、それが根底から崩された、という顔だ。
店長に視線を戻す。
肥えた体がずんずんと近づいてくる。
「申し訳ありません、父さん。ですがーー」
「言い訳をするな!」
思い切り左ほほを殴られた。思わずよろけてコウジのベッドに倒れかかる。
「お前もお前だシンイチ! お前はもう少しまともな奴だと思っていた! 先ず仕事を優先する男だとな! それをこんなロクデナシを優先しやがって! お前には幻滅した!」
ロクデナシ。その言葉に思考が停止しそうになる。拳が出そうになる。無心でこの男を殴れたらどんなにいいだろうか。どんなに、胸がすっきりするだろうか。
ベッドに顔をうずませながら、店長を思い切り殴る自分を想像する。……いけない。
拳を強く握り、口を固く結び、耐える。
顔をベッドから離し、申し訳ございませんと口を開く。
全て言い切らないうちに、コウジと目があった。ほんの一瞬だけ目を丸くした後でーーコウジがキレた。
「ふざけんなよ……ッ! ふざけんなよテメエッ!!!」
慌ててコウジに抱きつき、起き上がろうとする体を押さえつける。コウジは離せ兄貴、こいつをぶん殴らねえと気が済まねえ、と声と体を荒げている。
「何がテメエだ! 誰に口をきいている! 俺がお前らを拾ってやったんだ! 感謝されてもテメエ呼ばわりされる筋合いはない!」
猪のような顔で唾を飛ばしているのが視界に入らなくても容易に想像できる。
その言葉にコウジもボルテージが上がり、んだと、ぶっ殺してやる、と吐いている。
「頼む、コウジ。抑えてくれ」
振り払われそうになりながら懇願する。
今度は僕に、コウジはその矛先を向けてきた。目は怒りに染まり切っている。
「兄貴も兄貴だ! なんでこんなクズを庇う! 俺たちはこいつの奴隷でもなんでもない!」
その通りだ、と思う。
だが。
「頼む、抑えてくれ。……すまん」
真っ直ぐにコウジを見据えて再び懇願する。
しばらく強い反発があったがやがて、少しずつ力が抜けていき。
本当だよ、とだけこぼした。
目は虚ろで、もう僕を見てはいなかった。
僕はゆっくりと店長へと振り返る。怒りに我を忘れそうになる。が、それでは何の意味もない。
奥歯をこれでもかと食いしばりながら、頭を下げた。
「今更自分の愚かさに気づいたか! クソガキが! だいたいーー」
店長は僕の頭の上から未だに唾を飛ばし続けている。
治療費は払わないからな、と言い出した段階で部屋の入り口から声が聞こえた。
「払わなくて結構。ついでに、彼らの父親を名乗るのをやめてもらえるかしら」
そこには、三人の女性が立っていた。三人とも同じくらいの年だろうか。真ん中に立つ灰色の髪の女性が軽やかに続ける。
「あなたごときでは、彼ら兄弟に釣り合わないわ」
まさに豚に真珠ね、と。