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4、
窓を開ける音で目が覚めた。
まだ夜明け前だ。
眼を開けて横を向くと、東側のベッドの上に座り込んだ山野神也の背中が見えた。
山野はじっと東の空を仰ぎ、太陽が昇り始めた空を仰ぎ手を合わせた。それから一刻ほどぶつぶつと呟くと、突然パンパンと二回手を叩いて頭を深く下げた。
初めて見るその儀礼?と、いうか様式美に俺の眠気も吹っ飛んでしまった。
俺はベッドから身を起こして、山野に声を掛けた。
「なあ、それって何だ?」
「え?」
ゆっくりと振り向いた山野の顔は光の影になっていたが、見慣れぬ紺色の寝衣の模様が変に気になって見入ってしまった。
山野は俺の目線に気づき、自分の着ているものを眺めながら「これは浴衣という着物だ。スバルが私にくれたのだ。この地方では見慣れぬ服かもしれんが、私の育った国ではこういう着物が普段着なのだ」
「…じゃなくて、何で朝から手を合わせているんだって聞いてるの」
「ああ、それはな。おてんとうさんに朝の挨拶をしているのだ。皆が今日も一日つつがなく過ごせるようにと、拝んでいるのだ」
「それも君の国の様式か何か?」
「毎朝、皆がおてんとうさんに手を合わせるのは慣習のひとつだ。だがおまえが気にすることではない。その場所場所で人の見目が違うように、慣習やしきたりも違うのは当然だ」
「…」
「この学校の聖堂とやらも初めて見た時は驚いたものだったが、ここの者たちが信じるものがあれに宿るのならば、私は咎めはせん。さて…朝餉まで私は勉強するが、レイはまだ寝ててもいいぞ。時間になったら起こしてやろう」
「そりゃ、どうも…」
山野はその浴衣のまま、勉強机に座って勉強を始めた。
何がなんだかさっぱりだが、山野が他の学生と変わっていることだけは、はっきりと理解した。
しかし…真面目さには間抜けさが比例するらしく、案の定、勉強熱心の山野は、二度寝した俺を起こすのをすっかり忘れ、俺が起きた時は朝食が終わる時間ぎりぎりで、急いで制服に着替え山野を促そうと見ると、山野はネクタイが結べずに試行錯誤していた。
面倒なので俺が結んでやり靴を履き終るのを待っていると、今度は靴の紐を結ぶのにも手間がかかる。
ああ、もうこいつ~、と、苛立ちながらも黙って山野の靴の紐を結んでやる。
「手間を取らせて悪いな。こういうことは今まではすべてスバルがやってくれたのだが…案外、難しいものなのだなあ。もっと勉強しなければならないな」などと、悠長なことを言う。
「朝飯、間に合わなくなるから急ごうぜ」と、山野の手を掴んで急いで部屋を出る。
山野は黙って俺に引きずられて走る。
なんとか飯にはありつけたものの、山野には急いだり焦ったりする気配りが欠落していると言うか…、もう授業まで時間がないというのに、手を合わせて何かの呪文を唱え、ゆっくりとスープを食べ始める。
「おい、時間がないぞ。もっと急いで食べろよ」
すでに食堂に残った生徒はほとんどいない。
「天の王」は遅刻を最も嫌う。
月に三回遅刻をしたら、罰則として放課後ひと月間の庭掃除当番が待っている。
「急いで食べると消化に悪いと、スバルが言っていた。ゆっくり噛んで食べた方がより成長するらしい」
「…」
このままこいつが食べ終わるのを待っていたら、俺も遅刻常習の道連れになりそうだったから、山野を置いて俺は教室へ向かった。
なんとか授業開始のチャイムに間に合ったのだが、授業が始まっても山野は教室に来ない。
今朝、山野の口から俺と同じクラスだと聞いていた。
新学期の初日に教室に姿を見せなかったのは、スバル先生と別れを惜しんでいたからだと言ってきたが…まさか自分のクラスを忘れた?って事はないよな。
そして、十五分が過ぎた頃に教室のドアが開き、山野神也が現れた。
数学のジェレミー教師は渋い顔で山野を責める。
「授業はとうに始まっているがね」
「遅れて済まなかった。この教室に来るのは初めてだったから道に迷ったのだ。以後、気をつけることとしよう」と、山野はジェレミー教師に姿勢正しく深々と頭を下げた。
山野はそれ以上責められることはなかった。
自分の席に着くと、すぐに黒板に書かれた問いに答える様に命じられたが、予習を完璧に果たしていた彼は動じることなく、すらすらと計算と答えを導き出し、皮肉屋のジェレミー教師の口を黙らせた。
休み時間に山野の席へ行き、食堂に置いてけぼりにしたことを詫びたが、山野は意に介せずに「私がレイを起こすのを忘れたのが悪いのだから、詫びる必要はない。こちらこそレイを慌てさせて悪かった」と、表情を変えることなく頭を下げた。
なんというか…こいつは人を威圧するオーラを自分の意志に関係なく放出している。こんな風に真っ当に頭を下げられたら、こちらも後に続く言葉が出てこなくなる。
それが良い事かどうかはわからないけれど、この性質は生まれ持ったものだから口で言ってもどうなるものでもないだろう。
「それから授業に遅れた理由は、私の方向音痴の所為だ。慣れない場所に行くと、ひとりで戻れなくなることもしばしばだ。学園内で迷い子になって、よくスバルを心配させたものだ。その時の慌てふためいたスバルの顔ったら、面白かったなあ」と、山野は珍しく声を出して笑った。
「…」
笑いごとじゃないと思うのだが…
初めてスバル先生が気の毒になった。と、同時にあの時俺の手を掴んで「神也くんをよろしく頼む」と、真剣に頼んだ意味をやっと理解したのだった。
こいつのお守りは…半端じゃねえぞ。
新学期の一週間は午前中で授業が終わり、午後からは自由活動が続く。
図書館で自習をするからと教室を出る山野を一度は見送ったが、ふと気になって図書室はどっちの方向かわかるのかと聞くと、頭を捻る。
結局不安になり、俺は山野を図書館まで案内した。
図書館は聖堂と隣り合わせなのだが、校舎からは背の高い白樺林で見えにくい。石畳を辿れば大抵は辿りつくとは思う けれど、欠落した山野の土地勘を目の当たりにして心配になった。
ついでにと館内まで付いていくと、図書司書のキリハラがこちらに気づいたらしく、軽く頭を下げた。
キリハラカヲルは山野神也と同じくニッポンという国の出身だからだろうか、山野は珍しく急ぎ足でキリハラに近づき、借りていた本を返しに来たと弾んだ声で言う。
「神也くんは高等部の寄宿舎に引っ越したそうだね」
「うん、スバルが仕事で出かけてしまって当分留守にするから、仕方ない。でも同室になったレイは親切だから上手くやっていけそうだ」
「良かったじゃないか。…レイ・ブラッドリー。君の姿は図書館ではなかなかお目にかかれないけれど…本は嫌いかい?」
キリハラは山野から俺に視線を移して、訳の分からぬ笑みを湛える。
「え?…いいえ、別に…本が無くても生きていくのに困らないから、読まないだけですよ」
「そう。でも君の社会科の点数は…あまり褒められたものじゃないよね。神也くんは頑張り屋だから、君も彼に習って学習することを覚えるといい」
「…」
余計なお世話だと舌を打ち、本棚の奥へ向かう山野の後を追った。
自習室で勉強する山野を置いて図書館を出ようとする俺に、キリハラは声を掛けた。
「レイ、君、神也くんを迎えに来てくれるのだろうね」
「はあ?」
「あの子の方向音痴は知っているのだろう?ここから寄宿舎に帰るまでに迷子になってもらっても困るからね。二時間…まあ、三時間経ったら迎えに来てくれないか?」
「そこまで過保護にする必要があるんですか?」
「だって君はあの子のお守り役なんだろう?アーシュ…学長殿直々に命じられた…。まあ、その命は尊いことだと肝に銘じて、頑張りなよ」
「…」
面白がっているのが癪に障るけれど、アーシュの名前を出されると反論できない。
弱り目に祟り目とはこういう状況だ。
俺は返事もせずに図書館を出て、寄宿舎へ戻った。
寄宿舎へ帰りつくと部屋の前でセシルが俺の帰りを待っていてくれた。俺は喜びすぐに彼を室内に招いた。
そして山野の事を一通り話して聞かせると、セシルは心からの同情を寄せてくれた。
それでなんとか俺の苛立ちも消え去った。
「学長の頼みとは言えレイも大変だね。山野くんは僕もよく知らないけれど…そんなに学長に期待されているんじゃ、特別な能力があるんだろうね」
「さあ…。俺の見立てじゃ、これと言って強い魔力を持つ魔術師でもないと思うんだけど…」
「まあ、彼はホーリーでもあるから、きっとこの学園に大切な学生なんだよ、きっとね」
「…」
山野神也をホーリーに選んだのはアーシュだが、その本意が俺には掴めない。そもそもこの地上の未来があいつの肩に背負わされていようが、俺には関係ない話なのだ。
「レイも大変だろうけど、頑張れよ。愚痴なら僕が聞いてあげるから」
「ありがとう、セシル…」
「なに?」
「やっぱり親友っていいなあ~。セシルが傍にいてくれると心が落ち着くよ」
「僕も…レイだけなんだから」
「え?」
「ううん。少しね…無二の親友を山野くんに取られたみたいで…ちょっと妬いていたんだ。ゴメン」
「馬鹿だなあ~。俺にはセシルが一番だよ。山野の世話をするのは…仕方なしだよ」
俺の言葉にセシルはやっと安心した微笑みを浮かべた。
なんだか…すこしだけ胸が痛んだ。
山野のことを悪く言うのは俺の本意じゃないからだ。
世話が焼けるのは嘘じゃないけれど…。べつに嫌々やっているわけじゃないさ。
親友のセシルに気を使う自分にも少し白けてしまって、俺は立ち上がってセシルを昼飯に誘った。
この際、山野が腹を空かしていようが、俺の知ったことではない。
三時間後、再び山野を迎えに図書館へ向かった。
山野はまだ自習室で勉強していた。
「よく続くなあ。飽きないか?」
「知らない知識を知ることは面白い。特に地理は興味深い」
「俺、地理とか歴史とか全然興味ねえなあ~」
「それはレイがこの星で生まれたからではなく、クナーアンで生まれ育ったからじゃないのか?」
「…え…ええっ!な、なんで…」
俺がクナーアンからこのアースってところに来たことを知っている者は、ほんの一握りだし、親友のセシルにだって打ち明けたこともないのに、どうしてそれをこいつが知っている。
俺は本気で驚いてしまった。
だが、山野は顔色一つ変えずに、喋り出すのだ。
「アーシュはクナーアンというこのアースとは異次元の星の神さまで、おまえを助けてここへ連れてきた、と、聞いた。アーシュは色々と話してくれる。私も十二歳まで山の神だったから、神さま同士でわかりあうから…と、アーシュは言っているのだが、私にはアーシュのような特別に優れた能力があるわけではないので、同列には並べるものではない、と思う」
「いやいや、おまえが山の神とかそんなことはどうでもいい。なんでアーシュが…俺のことをおまえに話すんだよっ!」
「…話したかったからじゃないのか?それよりもどうしてレイはこの星の地理や歴史を知ろうとしないのだ。自分の故郷を想うのは大切だが、せっかく他の星の生活に触れるのだ。学習することはおまえの人生にとって損はない」
「…いいかげんにしてくれよ。おまえに俺の何が…」
恐ろしいことに、その時の俺には山野神也の考えを覗く冷静な力は無かった。
そして、こんなつまらない事で感情に振り回される自分に辟易するのだ。